大日本帝国を滅ぼした統帥権問題の意外な発端

 戦前の軍部の暴走を招いたのが、大日本帝国憲法の統帥権条項であることは知られているが、この爆弾がどういうきっかけで爆発したのかは意外に知られていない。
 大日本帝国憲法第十一条には、「天皇は陸海軍を統帥す」とある。現代人の感覚からすると「それではシビリアンコントロールが効きません!」となる。
 十九世紀末、すでに列強は、軍隊の暴走を抑えるべく、シビリアンコントロール(文民統制、軍を政府に従わせるシステム)で軍隊を統制していた。
 しかし大日本帝国憲法では、統帥権は天皇にあり、政府にはない。これには、明治新政府の成立過程が関わっている。江戸幕府から政権を奪取した明治新政府は、常に幕府復活の影に怯えていた。将来的に旧幕府勢力が議会で政権を奪取し、軍隊を使って明治新政府を倒す可能性に怯えたのである。
 そこで明治新政府は、軍隊を政府から、形式上独立させた。軍隊は事実上、元勲たちの管理下に置かれたのである。
 元勲たちは、 このシステムの穴の存在をよく理解していたから、 無茶はしなかった。 しかし時代が明治から大正に移り変わり、元勲たちのほとんどが死に絶えると、このシステムの穴を利用しようとする者たちが現れた。
 それは意外なことに、軍人ではなく、野党の政治家たちだったのである。
 第一次世界対戦が終結すると、日本を含む列強各国は、財政再建のため軍縮に乗り出した。特に、莫大な予算を必要とする海軍の軍縮は、各国にとって急務だった。大正十一(一九二二)年には、アメリカのワシントンで海軍軍縮条約が締結され、戦艦などの主力艦の保有を規制することで同意したが、巡洋艦などの補助艦については規制されなかったため、かえって規制外の「条約型巡洋艦」の建艦競争を招いてしまう。
 そこで列強各国は、改めて補助艦にまで踏み込んだ条約を締結することにした。
 昭和五(一九三〇)年、ロンドン海軍軍縮会議が開かれ、日本は「対英米七割」の保有量を主張するも、アメリカの反対を受け、対英米六.九七五割で妥協することになる。「小数点以下なんだから妥協しとけ」と思うのは現代日本人の感覚であり、本気で英米と戦争する可能性について考えていた、当時の日本人にとってこれは、屈辱的な妥協であった。 
 マスコミはこぞって政府の弱腰をなじり、野党はここぞとばかりに与党を攻撃、民意もそれを後押しした。
 統帥権について最初に言及したのは、海軍軍令部長の加藤寛治大将である。明治生まれの彼にとって、統帥権は当然に政府と独立したものであり、海軍の意向を無視して政府が軍縮条約に調印したのは、許し難い蛮行であった。
 そして帝国議会で条約の批准について話し合いが始まると、野党・政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は加藤の主張を利用して「軍令部の意向を無視して条約に調印するのは統帥権干犯である」と発言、政府を攻撃した。
 時の首相は、立憲民政党初代総裁・浜口雄幸。彼もまた明治生まれであったが、パンドラの箱の蓋が開いたことに、戦慄したに違いない。統帥権をこのように解釈すれば、帝国陸海軍は政府の言うことは何も聞く必要がなく、ただ昭和天皇にのみ従えばいいのである。
 やがてこの発想によって二・二六事件が起こり、日本は軍部独裁へとひた走って行く。もちろん犬養らは、そこまで考えていたわけではなく、あくまで政局の一環として、政府攻撃の口実として統帥権を用いたに過ぎない。元内閣法制局長官で、法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も野党に味方し、事実上条約の批准権を持つ、枢密院も敵にまわった。
 マスコミや民意(もちろん彼らも軍部独裁を望んでいたわけではない)は条約反対で吹き上がり、国粋団体(現在で言う右翼団体)も、激しい反対運動を繰り広げる。孤立無援の浜口内閣に味方したのは、「天皇機関説」で知られる憲法学者・美濃部達吉であった。美濃部は
「条約の事実上の批准の権限は枢密院にあるが、その枢密院の定員を決める権限は首相にある」
 つまり、枢密院の人事権は首相にあることを指摘。これにより枢密院は態度を軟化させた。後に美濃部は、「天皇機関説」が不敬であるとの(不当な)攻撃を受け、失脚するが、おそらくこの時の仇を取られたのだろう。
 会議は十月まで紛糾するが、帝国議会及び枢密院で可決され、ようやくロンドン海軍軍縮条約は批准された。
 おさまらない国粋主義者たちは、十一月十四日、東京駅で浜口首相を狙撃、重症を負わせる(翌年八月二十六日に死亡)。浜口内閣は翌年四月に総辞職した。
 昭和六(一九三一)年十二月、立憲政友会の犬養毅は、ついに政権を奪取する。しかし翌年五月十五日、犬飼首相は海軍将校たちによって暗殺された(五・一五事件)。
 この二つの事件により、政治家はテロを恐れて軍部に逆らえなくなり、軍部独裁への道が開かれていく。統帥権問題を最初に国会に持ち出した犬養が海軍将校たちに暗殺され、軍部独裁への道を開いたのは、歴史の皮肉というほかない。


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