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偉大なるクマの歩行録 序文

11月が濡れた小石に滑らせた足の先には
昨晩飲み込んだ山椒魚の親たちがいて
川面に水しぶきが立つその瞬間まで
まるでおまえの腹の中がみえるとでもいうように
虚のなかに我が子の姿を探していた
夏のはずれのあばら屋からは
随分歩いてきたはずなのに
まだ歩き足りないのだと
11月は悟った

「偉大なるクマの歩行録」より


 春からもう何周もしているはずの海外文学の棚で「偉大なるクマの歩行録」という金文字に目が止まったのは、11月も半ばを過ぎて風が一気に冷たくなってきた頃だった。午後3時でも窓の外は薄暗くて、そのぶん蛍光灯がやけにしらしらと眠たい光を放っている。去年まで閲覧室をあたためていた古めかしい石油ストーブはエアコンに取って代わられて、酷かった夏の嵐を100倍に薄めたような、暖かな唸りのなかであなたは身震いをひとつした。
 毛足の長い、深い緑色のベルベットで覆われていた。上部に「偉大なるクマの歩行録」という金色の飾り文字、その下には大きな獣の足跡を思わせる窪みがついている。あなたは本棚の前に座り込み、重たい表紙に指をかける。古い紙とインクの匂いが、草いきれと獣の匂いに上書きされる。
 遠くでチャイムが鳴って蛍光灯がパチリと消えても、あなたは少しも気づかない。夏の嵐の残響だけが耳の中で次第に大きくなってゆく。

 同級生たちのいる教室にあなたは帰らない。体は教室にいるかもしれないが、あなたは教室にはいない。金文字の本と一緒に、11月の街を野山を散策する。



 本書は、クマの言語で編まれた物語を可能なかぎり我々の言語に翻訳し、書物という形に落とし込んだものである。
 クマが物語る為に用いる言語には大きく2種類が知られている。ひとつは夢言語、もうひとつは歩行言語である。クマにとって歩行とは思考を媒介する基本素子であり、他者の(運動と感覚の総体としての)歩行を追体験することは、すなわち思考を共有することとなる。この原始的な言語体系を用いて、偉大なるクマがはじめてこのささやかで壮大な冒険譚を編んだとき、物語を歩くこと、歩かれた物語、すなわち歩行文学が誕生した。

 歩行文学において語り手と聞き手は等価である。能動的な歩行によってのみ逐次生成されるテクストは、オーケストラのチェリストが休日の午後、自分やごく少人数の家族、友人のために奏でる室内楽に近いものかもしれない。楽譜そのものが音を奏でないのと同じく、本書に記されたテクストそのものは物語を語りはしない。偉大なるクマの辿った道行きは、その物語は、読者諸氏が自らの足でーーそれが四本であろうと、二本であろうと、あるいは他のいかなる形状・様態であろうとーー歩行することによってのみ逐次生成されるのである。

 歩行文学を生み出した偉大なるクマは、その名を11月という。



 序文はこう締められている。
 その名前がほんの少し自分の名前と似ていて、あなたはおもわずくしゃみをする。
 そこから先を読むためには、ちいさくやわな前足と後足を土と血と霜とですすがなければならない。


雨雲を運ぶ風の匂いの中に。
踏みしめる砂つぶの中に。
秋の日の淡い木漏れ日の中に。
それらすべての動きの中にことばがあるという
夏のはずれのあばら屋を出て、いずれあなたは冬の森へと歩きはじめる。
偉大なるクマの11月がそのすぐそばを並んで歩く。

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