表紙_印刷用

インタビュー 村上浩康映画監督「映像の追体験こそ、映画創りの核」(1)

※この記事は投げ銭方式です。購入せずとも最後まで読むことができます。


 神奈川県の中津川で動植物の保護と研究に取り組む二人の老人を追った「流 ながれ」、岩手県盛岡市・高松の池に集まる人々たちを描いた「無名碑 MONUMENT」など、独自の視点で切り込んだドキュメンタリー作を世に放ってきた村上浩康監督。映画をこよなく愛し、ドキュメンタリー映像作家として我が道を行く村上監督の自身の作品や映画作りへの思いを語ってもらった。

動物・怪獣に惹かれた少年時代 高校で「出歩く引きこもり」に

――村上監督は、もともとすごく映画がお好きだとのことですが、それはいつごろから?

村上子供のころ、動物や怪獣が好きだったんです。最初に観た映画は怪獣映画の「ゴジラ」。小学生のころ、「ジョーズ」みたいな動物パニック映画が流行って、動物や怪獣が観たくて映画館に親につれていってもらったのが最初ですね。そのうちに、今度は「スターウォーズ」や「未知との遭遇」「2001年宇宙の旅」のリバイバルなどのSFブームが来て、どんどん映画に入っていきました。当時ドリフが好きで、ずっとテレビばかり見ていて怒られていたんですけど、うちの両親は、僕が映画に興味があるんだと思って、「サウンド・オブ・ミュージック」や「鉄道員」を見せられて、そこから、SFや怪獣以外の作品も好きになっていったんですね。中学生になると映画雑誌も買って、過去の名作や話題の映画にも興味をひかれていったんですが、決定的だったのは、高校生のときです。

 僕は、中学までわりかし成績が良かったので、高校受験のときに人数が少なかったこともあり自分のレベルよりかなり高い高校に間違って合格して(笑)、そこで落ちこぼれてしまったんです。それで、今でいう引きこもりみたいになってしまった。学校には行っていたけれど、誰とも話さない、「出歩く引きこもり」でした。

 高校時代、友達もいない中で、唯一興味があったのが映画でした。当時はビデオレンタルもなくて、故郷の仙台でも映画館は限られていて、邦画や昔の名作などを上映する機会はなかったのですが、近くの大学で学生たちが16ミリのフィルムを借りてきていろいろな映画の自主上映会を行っていたので、そこに足繫く学校をさぼってチャリンコで通っていたんです。そういう中で、「仙台市民映画祭」という一般の方たちが企画した上映会があって、大島渚監督の「少年」を見て、すごく共鳴し、本格的に映画にはまって、特に昔の日本映画にすごく興味を持っていきました。

 その後、地元の大学に入学したら、映画を作るサークルがあったんですね。当時、ビデオカメラはまだ安価ではなかったので、8ミリフィルムで作るサークルだったんですが、入部して見よう見まねで自分勝手に映画を作りだしたら、やっぱり作るほうも面白いなと思って、映像の道に入っていった感じですね。

「思っていることがすぐ顔に出る」営業に向かず、映像制作会社へ

――大学を卒業後は、すぐに映像制作の仕事を?

村上:いえ、当時は、日本はバブル時代で景気はよかったんですが、映画業界は最低だったんです。今からは考えられないですけれど、「日本映画なんて暗くてダサくてつまらない」と思われていた時代で、映画会社も助監督の採用をしていなかったし、映画業界に入ったとしても、食べていけない。相当の才能と覚悟と努力がなければ映画監督にはなれないというのが一般常識だった。僕も、当時「ぴあ」のフィルムフェスティバルに作った映画を出したんですが、落選してしまったこともあり、映像の道はあきらめて、とはいえ、映画が観たくて、「東京に行けば、いろいろな映画が観られる」というそれだけで、東京の印刷会社に入りました。

 印刷会社では、営業を担当したんですが、当時の僕は人見知りで初めて会った人と何を話していいかわからないし、思っていることがすぐ顔に出るので、まったく営業に向いていませんでしたね。やる気が出ないから、信じられないようなミスもたくさんして、当時は怒られてばかりでした。それで嫌になって、もう毎日電車に飛び込みたくなるような心境になり、「こんなに働くのがつらいなら映画じゃなくてもなるべく自分の好きなものに近いところで働いていきたい」と思って、ある映像プロダクションに転職しました。

 新たな職場は、「カンヌ映画祭で発表したような記録映画を作っている」と求人に載っていたので応募したんですが、いざ入ってみたら、企業のPRや研修用の映像が主な仕事で、映画とは全然関係ない職場でした。ただ、当時の映画業界で食えなくなった監督さんやカメラマンが来て、映画業界の話を聞ける交流もあった。結局、10年ほどその会社で過ごしました。そして、途中で映画を作る夢もだんだん萎んだこともあったんですが、10年たったときに一区切りなので、やめたほうがいいなと。社内ではディレクターになっていたんですが、あるとき群馬県で岩石や鉱石など地質学的な天然記念物を撮る記録映画の仕事をして、そこで、すごく自分としてやり切った仕事ができたので、「これでやめよう」とフリーのディレクターとして独立しました。

「世の中で流行っているのはだめなものだと思っていた」

――映画が好きだと、映画評論家になりたいと思う人もいますが、その道を考えたことは?

村上:なりたかったんです。最初は動物学者になりたくて、その次はお笑い芸人。加藤茶さんが大好きでドリフターズに入りたかったし、吉本新喜劇とか関西の演芸番組を見ていたので。僕、もう本当にふざけた子供で、「一人学級崩壊」みたいな感じだったので、しょっちゅう親が学校に呼ばれていましたね(笑)。親も先生をしていたので、今考えると本当にかわいそうなんですが、授業参観でも、自分の独演会のごとく授業妨害をしていたので、知らないお母さんから「だまってなさい」と口をふさがれたこともありました。その後、映画評論家になりたくて、小学校のころ、作文にも書きましたね。だから、映画の感想もすごく書いていて、1行で作品の感想を書くのを20年くらいやっていました。今も映画の制作は、より映画とは何なのかを知るためにやっているところがあります。

――少年時代から、日本の古い映画を主にご覧になっていたそうですが、海外の映画への興味などはどのあたりから?

村上:それも基本的には、昔から見ていました。中学のころ、スピルバーグやスコセッシ、ブライアン・デ・パルマなど当時のハリウッドの若手監督の作品を見たり、ヒッチコックやゴダール、フェリーニなど昔の映画も好きで、名作と呼ばれるものは、とにかく見る機会があるたびに見に行ったので、まんべんなくはずっと見てはいました。

――映画を観るとき、この俳優が好き、女優さんがかわいい…という視点で見る人もいると思うのですが、そのあたりは、いかがでしたか?

村上:俳優目当てで観にいく感じはなかったですね。何よりも重視していたのは映像をどういう風に撮っているかっていう、そこに興味がありました。

――お話聞いていると、若いころから、尖ったところがある少年、青年だった?

村上:若いころからひねくれていたことは間違いないですね。友達いなかったですから(笑)。世の中で流行っているものはだめなものだと思っていましたし、今でもそういう傾向はちょっとありますね。そういう癖はよくない部分もあるんですけれど、抜けないですね。

インタビュー  村上浩康映画監督「映像の追体験こそ、映画創りの核」(2)
に続く)


【村上浩康・プロフィール】
1966年宮城県仙台市生まれ。
2012年 神奈川県愛川町で動植物の保護と研究に取り組む二人の老人の姿を10年間に渡って記録したドキュメンタリー映画「流 ながれ」公開。
第53回科学技術映像祭文部科学大臣賞 
キネマ旬報文化映画ベストテン第4位
文部科学省特選 

その他の作品 
2012年  「小さな学校」
2014年  「真艫の風」
2016年  「無名碑 MONUMENT」
現在、東京都に残る唯一の天然干潟、多摩川河口干潟を舞台にしたドキュメンタリー映画を製作中。

続きをみるには

残り 0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?