マトリョーシカリボン

ドストエフスキーの小説の中の女性達

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1、男はみんないけません!

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの小説では男がいけません。ろくな男しか出てこないのです(笑)。酔っ払い、ポンコツ、そして小心者の小役人や妄想思想家などなど。しかしドストエフスキーの小説を女性を基軸に読んでいくと、女性達はまことに個性的で素晴らしく、もしかしたら彼女たちの方が主役にさえ思えてきます。

ヨーロッパの小説に出てくる、男社会の付属物のような、そういう色気はありませんが、ドストエフスキーの小説に出てくる女たちはそれぞれに自分の柱が立っており、芯をもって生きています。
確かにヒステリックな女や、うんざりするほど低俗なお喋りをする女も出てきますが、小説の核周辺にいる女性たちのデッサンは見事です。

今回はドストエフスキーの小説の中から「罪と罰」にでてくる女達について書いてみたいと思います。ただドストエフスキーの小説は私がもっとも敬愛する小説ですので、是非皆さんご自身で読んでもらいたく、極力筋は書かないことにします。

2、堕落した都ペテルブルグ
ペテルブルグに住む学生のラスコーリニコフによる金貸しの老婆殺害が「罪と罰」のテーマです。
舞台となった19世紀半ばのロシアがどういう状況であったかというと、18世紀の市民革命と産業革命のあおりを受けて、封建的な帝政ロシアが変革を余儀なくされます。それまでのロシアはあまりに不合理な奴隷のような農奴制の上に放縦な貴族社会がのさばっており、農民には人権などありませんでした。しかし当時の西欧社会に台頭してきたデモクラシーや資本主義のあおりで、経済的な危機に陥った帝政ロシアは、生産性をあげて他の国の経済に対抗するために、封建制から脱却し、農奴解放をせざるを得なくなります。しかしその農奴解放も、農民はそれまでの奴隷的な束縛は解かれ、移動の自由を得ましたが、実際には土地を与えられない、ただの身分の解放であり、実際には自営農となることができない農民が難民のごとくに都市へと流れていきました。

そこにはあまりにも後進的な帝政ロシアの社会制度や法律の不備があり、従来の階級制のバランスが崩れるとともに、それまでの社会的価値観や宗教、倫理などが崩壊し、さらに急激な工業化による工業民の増加などが加わり、ロシアは一気に混乱の中に入ってしまいました。そういう中で首都ペテルブルグは犯罪と退廃と虚無がはびこり、様々なる社会思想や革命主義の台頭、さらに性風俗や飲酒による社会問題の多発する異様に堕落した首都になってしまいます。

物語は、そんなペテルブルグの片隅で、学費滞納し、大学を除籍された貧乏で引きこもりの学生のロジオーン・ラスコーリニコフが、自己の観念を心気症のごとく自家中毒させながら、彼独特の犯罪論理を妄想化した事件を起こします。

3、ラスコーリニコフの殺人
その論理の根拠は、大別すると人間には二つの階層があり、ひとつの階層は凡庸な人間であり、彼らは子孫存続を含め生産性のためだけに生きており、彼らは法律の擬制の下に生きなければならない。
一方非凡な人間はその思想性の下に時に法律さえ犯し、殺人や流血さえもう許され、大衆から磔にされながらも後世には王座に祭り上げられたり、英雄にさえなる、というもので、ラスコーニコフの頭にはキリストやナポレオンがちらついています。

そして凡庸な人間=第一の階層の人間は現在をいきており、非凡な人間=第二の階層の人間は、未来をいきていると語ります。また非凡な人間は社会道徳や倫理を踏み外して殺人をしても、その殺人の目的がある種の救いや善行として報われるのなら、その殺人も許される。という、とんでもない観念の妄想の中へと彼は入ってしまいます。

そしてそれが妄想という単なる観念に終わらないためには、実際に実践されなければならない、という強迫観念から、彼は日ごろから金貸しとしてあくどいことをしている老婆を殺してしまいます。
綿密に計画を立てながら殺人を実行したラスコーリニコフでしたが、留守のはずの老婆の妹が帰ってきやことで計画が狂い、仕方なくその妹も殺してしまいます。しかしその妹こそ、親切で優しい心根の女性であり、敬虔なキリスト教徒でもありました。彼女を殺す正当な理由は何もありません。

物語りはこの殺人を巡りラスコリーニコフの周辺の人間たちを描きながら進行していきます。その物語のことは詳しくかきませんが、登場する女性たちがほんとうに見事に描かれています。

4、母と妹
まずはラスコーリニコフの妹アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ、略して
ドゥーニャと母親のプリーヘヤ・アレクサンドロブナ・ラスコーリニコワ略してプリーヘヤ。

この母娘も夫をなくして貧困の中にいるのですが、ドゥーニャは知性が高く学歴もあるので、村で家庭教師をして生計をたてています。そんなドゥーニャが婚約をし、その相手である弁護士のルージンを訪ねて二人はペテルブルグに出てきます。そしてもちろんペテルブルグに住む兄のラスコーリニコフをも尋ねるのですが、兄は家族のために自分を犠牲にするドーニャの結婚に反対します。さらに尋ねてきたルージンの俗物性を見抜き彼を追い払います。

ドーニャは兄とルージンの間に挟まれ困惑するのですが、ついにルージンの本音である、
「人生の苦しみを嘗めつくした貧しい娘さんと結婚するほうが、何不自由なく育った娘さんと結婚するより、夫婦間においては有利である、道徳的にも有益だから」を聞いて、婚約を解消します。お金で頬を叩くようなルージンの支配欲に対する拒否がうまれるのです。

ドーニャはもともと芯のある聡明な女性ですが、倫理観がつよく、さらに少しメシア症候群が入っています。メシア症候群とは、いわゆる助けたがり屋のことで、困っている人や弱い人をみつけると、助けずにはいられない心理を持つ人のことです。ただそれも、自分の弱さや不安を他者に投影してしまい、ほんとうは助けなくてもいいのに、つい手を差し伸べてしまいます。そういう心理的な傾向をもつ女性に対して、男が甘えたり付け込んでくるのです。
しかしドーニャは兄が犯した犯罪を知っても、兄を理解し助けようとします。さらに兄が助けたソーニャが売春婦であるにもかかわらず、ソーニャを受け入れていきます。ラスコーリニコフという知性の高い兄と同じようにドーニャの知性が一つの軸としてこの物語を安定させていると思います。

さらに母親のプリーヘヤも平凡な普通の母親ですが、いつも息子を理解しようと努め、息子に深入りしません、そのために最後まで息子のことを推測のなかで案じながら死んでいきます。そしていよいよラスコーリニコフに大きな影響を与えるソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ 略してソーニャですが、ドストエフスキーは彼女の中に神性を与えています。

5、黄色の鑑札のソーニャ
ソーニャはラスコリーニコフが犯罪を犯す前に酒場で知り合ったマルメラードフの娘です。
マルメラードフは九等官の退職官吏でアル中の敗残者です。彼はソーニャが売春をしてやっと手に入れた生活費さえ自分の飲み代に使ってしまいます。
ソーニャはそういう破綻している父親と父親の再婚相手であるカテリーナとその子供3人のために、売春をしている女性です。

継母であるカテリーナはもう半分は狂っておりソーニャはカテリーナの愚痴と悪態を浴びせられながらも必死で理解し、愛し、守ろうとします。
本来ならソーニャは絶望しかないはずなのですが、痩せこけて死人のような顔色であるにもかかわらず、その中には驚くべき骨太い信仰の信念と慈愛をもっています。
そのソーニャにラスコリーニコフは漠然と、時には抵抗感をもちながら惹かれていきます。

「黄色の鑑札」つまり公娼としてのソーニャは慎み深く、優しいです。そしてドストエフスキーはソーニャに神の目線を与えています。
けなげなソーニャの姿は女性の目から見てもいとおしく、そこには男性の幻想などという軽薄なものは一切ちらついて描かれてはいませんが、人としても女としても、美しいのです。

このソーニャの存在によってラスコリーニコフはだんだん自分の罪を受け入れていきます。
いかにも痛々しく、かぼそい体で、周囲を支え寄り添うソーニャは、醜悪で困難な現実をすべて受け入れていきます。そこにこそソーニャの強さがあるのですが、そのソーニャの対極にいるのが継母のカテリーナです。
どうしようもなく敗残し零落していくマルメラードフの再婚者としてのカテリーナは現実を受け入れることができない女性です。

6、陰の主役カテリーナ
貴族の出であり、大佐の娘であった自分のプライドを捨てきれず、そのエリート意識で女性たちに対抗し、むき出しの敵意をもやし、威嚇します。そして、貧困の苦労のなかで結核となりながら、精神を病んでいきます。ソーニャはそんな継母に「この人はもう半分頭がおかしくなっていると」その常軌を逸した行動をかばいます。しかしよくよく目を凝らして見てみると、この「罪と罰」という作品の中でドストエフスキーが一番愛したのはこのカテリーナではないかと私には思えてきます。まさか、と皆さんはお思いでしょうが。

人間としてのどうしようもない不条理を生き、常に自分の感情に溺れ、悪態と愚痴をまき散らすカテリーナの中に、救いのない憐れみを感じます。絶望さえ許されず、狂気と破滅の中に逃げ込む人間の深い懊悩があります。その姿をドスとエフスキーがまるで映画のⅠシーンのように描いています。

夫マルメラードフの葬式を機にカテリーナの狂気が嵐のように暴走し破綻していきます。彼女は葬式を整えてくれた家主の女性を威嚇し毒づき、とうとう家を追い出されてしまうのです。
もう住むところさえ失くした彼女は発狂し、子供たちに大道芸人のようなダチョウの羽の帽子と衣装を着せて路上に連れ出し、みさかいもなくフライパンを叩き、自分が歌う歌で踊らせます。
それを群衆が取り囲み、巡査が来て、大騒ぎになる中、ソーニャとラスコリーニコフはやっとの思いでカテリーナをソーニャの部屋へと連れ帰りますが、たくさんの喀血をした後にカテリーナは息を引き取りました。しかしカテリーナが発狂していくこの場面はまさに圧巻です。ドストエフスキーの筆が踊ります。

カテリーナの人生とはいったい何であったのでしょうか。

売春をしながら侮蔑と汚辱の中を生きるソーニャには、破滅はありません。しかしそのソーニャの対極には、何一つとして満たされず不満と失意の感情に溺れていきるカテリーナの破滅があります。ドストエフスキーが描くその光と影を通して、わたしにはどうしてもソーニャの方がボンヤリとしており、反対にカテリーナを描く筆に勢いを感じてしまいます。まあ、この作品も口実筆記で書かれていますから、筆というより彼の魂の注ぎようの強さでしょうかね~。

カテリーナを見ているとフェデリコ・フェリーニの「道」を思い出しました。映画の最後の方のシーンで、ザンパノに棄てられた狂気のジェルソミーナがラッパを吹いている姿を思い出したのです。

ソーニャとカテリーナ、清と濁の魂、その二つともが愛おしいです。

7、ウラー(万歳)ロシアの女達!
ドゥーニャの中にも、ソーニャの中にも、そしてカテリーナの中にも、なにか骨太いそれぞれの気骨を感じます。それは西欧の女性やアジアの女性、勿論日本の女性にはない、寒さ厳しい北の大地のそれであり、まさにロシアの女たちの逞しい土性骨です。

この女性たちがやがてドストエフスキー最後の作品「カラマーゾフの兄弟」に登場する、男を手玉に取る奔放な女グルーシェンカやヒステリーで直情的だが正義感溢れるカーチャへと結実していきます。
もう体全身で生きる彼女たちがキラキラと輝いて、そこには豊穣なる女達の世界があります。

最後にちょっとよけいなことですが、この小説にはスヴィドリガイロフという奇妙な男がでてきます。この奇妙で女たらしのいかさま野郎が、もしかしたたらドストエフスキー自身をモデルにしたものかもしれないと、私は直観しましたが、どうでしょうか…笑!

「カラマーゾフの兄弟」を書き終えて、数十日後にドストエフスキーは亡くなります。60歳でした。もしかしたら力つきたのでしょうか。でも彼が女性を尊敬していたことはまちがいないです。

ドストエフスキーとその作品の女たちへ、

ウラー (ура/ura) !!


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