新小岩だめライフ宣言!


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0.「はじめに」

親愛なるだめライフ愛好会関係者、および、だめライフ愛好会に興味関心を有する気高き貴族諸侯、そして、だめライフ愛好会の活動に敵対的感情を抱き、また、経済的利害関係の面から言ってもわれわれの存在に苛立ちを覚えずにはいられない異教の騎士たちよ――まずはごきげんよう

新小岩だめライフ愛好会主宰である私は、この記事に触れた地上すべての人々にご挨拶申し上げる。

それから一点大きなご注意を払うよう、私は諸君にお知らせする。

「だめライフ愛好会」なる会合ないし活動、およびその理念は、偶然の折り重ねが手繰って造り上げた奇跡的造物だとも、あるいは、先哲(いわゆるだめ連や、その他、寝そべり主義的教条を有する諸団体、等)の活動と理念を色濃く引き継いでいる営為とも言われている。実際のところ現代に生き、戦い、もしくは休息し、やがては死んでいくことになろう彼ら(そしてわれら)だめライフ愛好会の進撃の「歴史」は、なるほどわれわれの興味をかきたてるに十分なものだが、その史学研究そのものに力を割く猶予は新小岩だめライフ愛好会主宰に残されていない。

われわれが注力するのはただ一つ、巨大な一つである。

それはすなわち、「東京都葛飾区新小岩における民主主義の破壊――新小岩市民の主権剥奪――新小岩皇帝による帝政の実現、唯一無二なる血統支配の断固たる確立」。

色々と言葉を並べたが一つである。

新小岩だめライフ愛好会主宰による独裁の開始」。

われわれは帝政の樹立、民主主義の破壊を手がけなければならない。

新小岩名物、駅前のルミエール商店街の雑踏を行くわれらは、民衆の声ひとつひとつに、強力なリーダー、すなわちあのコルシカ島の男、ボナパルトの再来を求めているのが切実に感じられる

現葛飾区長たる青木克徳公爵、新小岩を支配する辣腕の宰相――は2009年から4選を果たした自民党の秘蔵っ子だ。その実力はマザランにも匹敵すると言われ、陰謀においては抜け目なく、戦闘においては無双の実力、その政治的地位、牙城が崩されることはありえないと考えられえている。すなわち新小岩は青木公爵を首魁とする、(自民)党支部の奴隷の鎖に繋がれている。

これに対抗すべく、綺羅星のごとく現れたN国党の立花は、毎日のように新小岩駅前で演説を頑張っていた。しかし葛飾区民、新小岩市民は立花に同情的ではなかった。問題はNHKの受信料ではなく、いままさに生活をぎっちり縛り、これを苦しいものにしているところの目の前にある圧政であり、区議会にひとり、訳の分からない胡乱な刺客を送り込んだところでそれを解決できるはずはないとわかりきっていたからだ。

もはや議会で解決できることはない。選挙で圧政を変えることはできない。民主主義はとっくに敗れ去っているのだ。政権与党やその取り巻きたちが企む数多くの陰謀について、ここで語ることは(もしかしたら諸君の命を危うくする可能性があるので)しないが、ともかく新小岩の民はすでに、民主的選挙を放棄しつつある。そしてその行動はもっとも合理的といえる。

選挙を捨てよ。権力は一点に集中さるべし。皇帝を求めよ。

その声はいつしか、雑踏の中から、どこからともなく自発的に上がるようになったのだ。

さて、われわれ、膂力においても智力においても他に優れたる選良の一族(新小岩だめライフ愛好会主宰の血脈)は、早急に彼らの要求に応える神聖な義務がある。特に年齢の点から言っても、経験の点から言っても、その地位にもっともふさわしい新小岩だめライフ愛好会主宰たる私は、皇帝の位に大いに値する。

意外に思われるかもしれないが、新小岩だめライフ愛好会主宰は、「だめライフ」の実践によってのみこの理想的政体の出現を可能と考える。そしてこの理想的政体の出現は「だめライフ」が広く大衆一般の手に委ねられることになるであろう機会と考える。そして「だめライフ」が親愛なる新小岩市民の生活のスタンダードとなった時、「だめライフ」なる用語や概念は役目を終えて溶けて消え去ることとなる。

つまり、はじめ「だめライフ」は剣である。やがて「だめライフ」は高等な駆け引きや政治的陰謀となる。そして「だめライフ」は新小岩に誉れある戴冠式をもたらす。新小岩皇帝の出現――。皇帝君臨の後、新小岩市民は「だめライフ」を糧とし日々を豊かに暮らす。遂には「だめライフ」は、新小岩市民の矜恃となり、また、自発的に侵略的「力」を持つ。皇帝の版図は拡張する。「だめライフ」が国土を席巻したその際には……「だめライフ」は自らの任を終え、叙事詩の中の言葉となる。建国の皇帝は賛美され、そこに集いし騎士たちの物語が末代まで伝えられるのだ。

諸君に注意申し上げたいと言ったのは、ようするに、上に述べた通りのことだ。
諸君はめいめい心に「だめライフ」の像を作り上げて、その色眼鏡でわれわれのことを視認しようとしている。しかしここ、新小岩には、諸君にとってあまりにも刺激的で先鋭的な「だめライフ愛好会」、その最左派が存在するのである。

――だめライフ愛好会「帝政派」ないし「※正統王朝派」。

(※後者の呼称は主にだめライフ愛好会「農耕派」から用いられる。レジティミスム運動との混同が見られる)

これが新小岩だめライフ愛好会の正体である。

あるだめライフ愛好会は、無政府主義を掲げ黒い旗をはためかせる。
労働者の血の色を示す、赤い旗を尊重するだめライフ愛好会もある。

新小岩だめライフ愛好会は、正統なる帝位を意味する青の旗を高く掲げるのだ。

1.「だめ」の定義

新小岩だめライフ愛好会主宰は、物を述べる時、その内容が簡潔かつ明瞭であることを求める。簡潔かつ明瞭に語られうる事を、複雑かつ奇怪に加工する話者は、薄汚い香具師と相場が決まっているからだ。私はいま、明確にだめライフ愛好会の「だめ」の部分の定義をすることとしよう。それもいたって簡潔かつ、明瞭に。この文章を力ある、意味あるものにするためにはまず、何よりもそれが必要だ。

「だめ」の定義――無力から強力のグラデーション。
a.「だめ」……自堕落なさま。e.g.「だめすぎて単位を落とした」。
b.「だめ」……寝そべり主義的な態度。e.g.「だめなので就活しません」。
c.「だめ」……極めて単純に、不可能や否定を意味する。e.g.「だめだ。できない」。
d.「だめ」……社会的通念に相対するニュアンス。e.g.「勝手耕作したらだめ?」。
e.「だめ」……法律・倫理・常識に相対するニュアンス。e.g.「警察を殺したらだめ!」。

定義、と言ったが上記は、どちらかと言えばだめライフ愛好会の諸君によって用いられる「だめ」の意味(意味、というよりあるいは強力さ、power)をグラデーション分けしたものに過ぎないかもしれない。しかしこうして一種の分類を施しておくことで、今後の話の展開に益することになるため、この五つの(いわゆる)「定義」はこれでよしとしておく。新小岩だめライフ愛好会主宰たる私は言語学者ではない。剣によって立つ者であり、卓越した為政者である。細かい瑕疵についてはお見逃しを願いたい。これは新小岩だめライフ愛好会による「だめ」五つの分類であり、これを他のだめライフ愛好会諸君に強制するものではないし、だめライフ愛好会に属しない諸君に押しつけるものでもない。もっぱらこの文章の中での使用に供するためだけに作ったグラデーション、その中から恣意的にピックアップした五項目に過ぎない。

ともかくこれで、目次1.の目的を果たすことができた。「だめ」は無事に定義された。これによって新小岩だめライフ愛好会は自分の立場を明確にすることができる。そして他のだめライフ愛好会諸君との立ち位置の差異を示すこともできるだろう。何事も比較によって検討されうるのだ。比較のためには尺度が必要となるのだ。いま、尺度は用意された。

さて、目次1.を終えるに際して、驚くべき事を述べよう。

新小岩だめライフ愛好会はもっぱらe.の「だめ」に立脚する。
すなわち、もっとも強力な意味で用いられる「だめ」を旗印に掲げている。

「警察を殺したらだめ」……?

葛飾警察署は公然敵対勢力、堕落した民主主義陣営の展開する厄介な陸上戦力であり、われわれにとっては戦いを挑むべき相手である。やがては互いに殲滅戦を繰り広げなくてはならないのである。

それにしてもだ、葛飾署の警察官は哀れだ。連中は、自らの仕事が圧政に加担しているとは知らない、無辜の民だ。葛飾警察署麾下の兵(つわもの)たちよ、聞け、特に貴公の中に両津という名の野武士がいるならよく聞け、いいか、諸君の職場を放棄せよ、そして、皇帝の側につくのだ。貴公たちは脱走兵ではない、名誉は保障される。貴公たちが貴族であることは、私はとてもよく知っているのだ……。

対して、学生や比較的穏健な地域集団によるだめライフ愛好会はa.b.d.の「だめ」の立場をとることが多いように見受けられる。たとえば「農耕派」を自認するだめライフ愛好会は、d.の意味の「だめ」を好んで用いる。勝手耕作こそ彼らの得意技だからだ。怠惰であることそのものを教条として掲げる愛好会は、a.の「だめ」を使うし、積極的な昼寝と講義のサボタージュ、昼寝のための集会を活動目的とする愛好会は、b.の「だめ」を重視していえると言えよう。

重ねて申し上げるが新小岩だめライフ愛好会は葛飾区内における帝政の樹立と、その政体の永劫に存続することを目的とする最左翼「だめライフ愛好会」である。われわれは(この言葉をわれわれは好まないが)「社会人」であり、職と財によって、あるいは地代によって力を得、秘密集会によって同志を増やし、智力によって陰謀を巡らす。そしてわれわれは、社会人である以前に貴族である。貴族であるということは、あの忌まわしき刑法、「決闘罪ニ関スル件(けっとうざいにかんするけん、明治22年法律第34号)」を軽んじているということである。

裁判よりも決闘を好むのがわれわれの生態である。それが王侯貴顕たる所以である。

とにかく強調しよう。われわれはもっとも強力な意味での「だめ(e.)」を用いている。
われわれは腰に剣を帯びている。――「財布は軽いが剣は長い」――。これは、われわれを描写するのに非常に的確な言葉だ。私腹を肥やすことに精一杯で、脂肪がたんまり腹にくっついて、剣の修行を久しく怠けているa.「だめ」な政治家は、われわれの放った刺客によって、正当な手続きを経て(われわれは闇討ちなどという卑怯な手を行わない。われわれは決闘は貴族的に行う。神聖な手続きに則るのだ)、決闘の内に命を儚く散らすだろう。

警察は決闘によってその数を減らす。政治家は決闘によって絶滅をする。
堕落した民主主義陣営は新小岩だめライフ愛好会を畏怖せよ。
長らく苦しみ続けた大衆は、地上に帝政の再び訪れるのを歓喜せよ!

2.「だめ」の実践

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はじめ「だめライフ」は剣である。やがて「だめライフ」は高等な駆け引きや政治的陰謀となる。そして「だめライフ」は新小岩に誉れある戴冠式をもたらす。新小岩皇帝の出現――。皇帝君臨の後、新小岩市民は「だめライフ」を糧とし日々を豊かに暮らす。遂には「だめライフ」は、新小岩市民の矜恃となり、また、自発的に侵略的「力」を持つ。皇帝の版図は拡張する。「だめライフ」が国土を席巻したその際には……「だめライフ」は自らの任を終え、叙事詩の中の言葉となる。
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「新小岩だめライフ宣言!」

上に述べた通り、新小岩だめライフ愛好会は東京都葛飾区新小岩における帝政の樹立を「だめライフ」の実践によって成功に導こうとしている。一見、荒唐無稽にも思われるこの手法が、意外にも理にかなっていることをこれから解説する。

いや、なに、言ってみれば簡単なことだ。e.「だめ」な事柄はやはり現代的な法律の上からダメなこととして規制されている。そこをわれわれは、あえて正面突破で、突き破ろうというのだ。すなわち、「はじめ「だめライフ」は剣である」を地で行くのである。

決闘――。

すでに貴族的であることが美徳でないと(表面上は)されているこの荒廃した退廃民主主義社会で、「決闘」という形の神聖な裁判は大いなる力を持つ。

われわれ新小岩だめライフ愛好会主宰麾下、帝政樹立のために結成された貴族の近衛隊(すなわちそれがイコール新小岩だめライフ愛好会と言ってもよいのだが)は、その構成員それぞれが一流の剣の使い手、無敗の記録を積み上げてきた猛者揃い。

こうした集団に抵抗できるのは一体何者か? 同じく貴族としての矜持を保ち、剣を磨いておくことを常に忘れずに生きてきた、歴史の遺物。老獪な、無双の剣術指南役とでもいったような男――そんな男はいまは、絶滅してしまった。少なくとも絶滅してしまったように見える。実は少数、生きていることを私は知っている。しかしそうした連中は、鎌倉の辺りで世間の迫害を逃れながら古い武術の修行を続けている。われわれは神聖な存在たる彼らを政争に巻き込むつもりはない。

ゆえに、われわれ貴族連に対抗できる人間はない。少なくとも新小岩を支配する忌まわしき退廃民主主義体制に、「決闘」という裁きの場で勝利を収めることのできる人材はない。

われわれは政敵に、正当な手続きを踏んで、決闘を仕掛ける(しかしこれは、現代ではe.の「だめ」とされている)。われわれ貴族にはそうする権利がある。そのための剣であり、そのための名誉だからだ。決闘を仕掛けられた側は、少なくともその頭が退廃した民主主義に毒されていなければ、こう考えることだろう。すなわち、「かの男は、一対一で、私との戦いを望んだ。戦いは男の名誉と利害を決着するのにもっとも合理的で公正な方法である。ゆえに私は、この決闘を受ける必要がある。決闘から逃げる、何らかの口実を持ち出して決闘を避けることは、取りも直さず卑怯者のやり方なのだ」。

もし決闘を仕掛けられた側が退廃民主主義に毒されていた場合、このように考えることだろう。「決闘……決闘! とにかく、私は警察を呼ばなくてはいけない。決闘などという野蛮な行いは、言語道断、警察の管轄であって私の関与するところではない。私は忙しい。私と何か話し合いをしたいのであれば、選挙戦を勝ち上がり、議席を確保し、根回しをし、集会の場を設けて、私をもてなし、話の落とし所を決めておき、お互いの利害をさらけ出した上で、あたかもテーブルに置かれたピザを切り分けて食べるように、それぞれがそれぞれの利益に与れるよう、持ち分を決めなくてはいけないのだ。それが民主主義のやり方というものなのだ。さらに緩衝材として、そこに幾ばくかの金銭が絡む。政治とはかくも複雑なものであり、貴族と称するあの手の遺物はこの道に入門する資格すらないのだ」。

この態度は、現代日本、とりわけ現代東京都葛飾区新小岩では「だめ」とされていない。「よい」態度とされている。われわれはそうした人間の在り方に断固反対する。われわれはそのような風潮が大衆に対する圧政を生み出していることを知っている。われわれは行政の長が、新小岩の大衆の生活よりも、モンチッチを用いた自治体イメージアップ戦略に政策を振り切ったことを忘れてはいけない。駅前モンチッチ銅像の電撃的設置、モンチッチ公園の整備……。モンチッチのために間接的に飢えている人民のことを思う時、われわれは強い憤慨を覚えずにはいられない。皇帝はそうした愚策を鼻から否定する。そんなことをしているリソースがあるなら恩賜年金を用意するべきなのだ。われわれの敷く帝政は福祉を知っている。そしてわれわれの帝政は、決闘から生じる。

新小岩の民は、われわれの存在をやがて知るだろう。そうして現代に貴族とその一団のあることを知るだろう。皇帝にふさわしい男のあることを知るだろう。その時、その時だ。価値は逆転する――「決闘」こそ為政者にふさわしい司法の場であり、「警察」「裁判官」は卑怯者の腰巾着であることが自明となるのだ。「だめライフ」は新小岩の民に浸透する――。新小岩民はついには言うことになる。決闘から逃げる男に対して、「あれは一人前の男ではない。犬だ。畜生だ。われわれの政治を任せてはおけない卑怯者だ。われわれの権力は、剣によって得た正統な帝位を持つ男に預けられるべきなのだ!」。

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意外に思われるかもしれないが、新小岩だめライフ愛好会主宰は、「だめライフ」の実践によってのみこの理想的政体の出現を可能と考える。そしてこの理想的政体の出現は「だめライフ」が広く大衆一般の手に委ねられることになるであろう機会と考える。そして「だめライフ」が親愛なる新小岩市民の生活のスタンダードとなった時、「だめライフ」なる用語や概念は役目を終えて溶けて消え去ることとなる。
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「新小岩だめライフ宣言!」

さて、われわれはだめライフの実践の一例として、「決闘」を挙げた。これはそう、一例に過ぎない。しかし重要なポイントは解説したつもりだ。つまり、われわれ新小岩だめライフ愛好会は「e.(の意味での)だめ」を実践(決闘を仕掛ける)する、もっとも先鋭的なだめライフ愛好会であること。その実践内容は帝政時代の再来にふさわしい、実に貴族的なものであること。貴族の栄華たるリシュリューの世紀(われわれはルイ十四世の世紀よりも、ルイ十三世の世紀の貴族をより尊ぶ)は、あらゆる騎士たち(だめライフの実践者たち)の模範とされる。

一応、比較としてだめライフ愛好会「農耕派」の活動内容を紹介しておこう。彼らはd.の意味での「だめ」を実践する一派である。すなわち、法的には明確に規制されていない(のかどうか私は詳しく知らないが、あまり警察の手によって積極的に取り締まられる性質のものではないようだ)ものの、社会通念上賛否の議論が生じている「勝手耕作」をやるのだ。「勝手耕作」とは土手や空き地の雑草を除き、そこに食用の耕作物を植える。そこから得た収穫物は地域社会で共有される。それは貨幣を持たない民に、さしあたっては食物を供給し、また、その土地を中心とした親密なコミュニティの形成も見込むことができる。

目次1.「だめ」の定義の部分では、d.とe.は隣接する「だめ」であり、どちらも比較的より強力な意味で用いられる語句だとしたのだが、しかし、並べてみると、その差に凄まじいものがあることが分かる。d.「だめ」を担当する「農耕派」は穏健である。なんなら、上述の事を諸々考えると、b.「だめ」概念とも隣接していると言っていい。耕作において、なるべく手をかけず、手入れの少ない作物を選択するという点において(これは個人差があるが)は、a.「だめ」概念にも通じるところがある。ところがe.「だめ」を自認する「帝政派」はa.b.d.いずれの「だめ」も受け付けることができない。

新小岩だめライフ愛好会の「だめライフ」の実践は、鋭く研がれた剣と共にある。
政情は急迫している。妥協はない。
散兵戦の騎士たちに指示を与える元帥杖は、この手にある。
新小岩だめライフ愛好会主宰は速やかに、戴冠式を経て、皇帝の位に就かなければならない。

まとめよう。以下がわれわれの実践である。

甲:新小岩だめライフ愛好会はわれわれ貴族階級の武装権を主張する限りにおいてe.「だめ」ライフを往く。

乙:新小岩だめライフ愛好会は「決闘罪ニ関スル件(けっとうざいにかんするけん、明治22年法律第34号)」に対し非合法的挑戦を試みる点においてe.「だめ」ライフを往く。

(丙:新小岩だめライフ愛好会は、他のだめライフ愛好会との強固な同盟関係の構築および維持を画策し、これを実現するために、経済的拠出を行う)。

3.「新小岩だめライフ宣言!」

「われわれ新小岩だめライフ愛好会および新小岩だめライフ愛好会主宰たる新小岩皇帝および埼玉県北部の守護者たる東野猛1世は、新小岩における帝政の樹立と現行政権からの独立を目指し『だめライフ』を鋼鉄の意志で実践する。われわれの『だめライフ愛好』はすなわち自由、独立、尊厳の愛好に他ならず、退廃した民主主義体制における腐敗容認、財物賛美、過労死礼賛の悲惨な現状を打破する唯一無二の手段である――

――新小岩の市民よ、立て。先祖代々受け継いできた剣を、廃刀令の際に屋敷の奥に隠すのを忘れなかったその日本刀(やまとかたな)をいま再び、腰に帯びよ。そうして新小岩皇帝の下に参集するのだ!

新小岩の勇ましき市民よ、われわれと共にe.「だめ」ライフを実践せよ!

《帝政新小岩・国歌:「皇帝賛歌」》

われわれの地よ 新小岩 かつて黒き死は、汝を支配した
新小岩駅は暗き最期の地 目を背けるな、あれが飛び込みと人民の鮮血――

もはや是非もない……さあ! 
和睦か決戦か われわれは神明に誓って選択をした
すなわち決戦を 剣と名誉からなる決戦の日を!

ここに立つのは皇帝陛下の忠勇なる士卒である
ここに立つのは皇帝陛下の忠勇なる士卒である

勝利をもたらすのは大いなる《決闘》である!
偉大なる前線の指揮官、皇帝陛下万歳! 
勝利、鬼神も恐れる勝利の行軍万歳!
(Si!)

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