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なぜ勉強するのか?に対する説明の種類

なぜ勉強するのか?という生徒らしい問いは、極めて哲学的な問いでもある。これを考えるには、義務とは何か?を明確にしなければならない。自由主義的な立場を取るか、共同体主義や国家主義的な立場を取るかによってこの「義務」の位置づけは異なってくる。少なくとも、日本は一応自由主義国家ということになっている。憲法にも個人の自由を尊重することが明文化されている。これを前提に義務を考えれば、個人が義務を負っているという発想はない。個人が持つのは権利であって、その権利の行使を確かなものにするために国家権力が義務を負うというのが一般的な認識であろう。この論理は、学校制度にも当てはまる。教育は個人、生徒が有する権利であって、義務ではないということが前提となる。(逆に、戦前日本やファシズム国家では教育は義務である。)

教育を受けること(勉強をすること)は義務ではないとすれば

端的に言って、勉強する理由は何か?という問い自体が成り立たないことになる。勉強は「強いて勉める」と書く。強いられることである以上、そこには義務性が伴っているからである。学ぶ理由はそれぞれあるかもしれない。虫が好きがから体の構造を知りたいとか、文学や哲学が好きで本を読むとか。ただ、本人に学びたい理由がないなら当然強制されるような筋合いはない。しかし、学校制度はこのそもそも論を完全に無視する。そして、教師は勉強する理由にそれっぽい理由をつけて答えるのである。「勉強する理由は何か」という問いは、長く存在している。それでも、納得できる回答が見当たらず、この問いが繰り返されるのは、この問い自体がそもそも間違いで強いて答えるとすれば「勉強する理由は存在しない」からである。ここからは、このような認識に基づき、一般的な勉強する理由の説明の仕方を整理したい。

①権利論的な説明

教育を受けることは権利なのだから、あなた自身が学びたいと思わない限り、学ぶ理由はない。勉強する理由もあなたの中にしか存在しない、という解答である。これは自由主義的に正しい。そして、誰にとっての勉強する理由なのかという前提が、学習者自身・生徒自身であることもポイントである。

②国家主義的な説明

勉強しない人が大勢いると、国として成り立たない。経済成長を担う「人材」を育成する必要がある、という解答。これは誰にとってという部分が、国家である。個人ではないし、生徒自身でもない。一般的な解答としてはよく用いられるものだが、自由主義国家としてこれを容認するわけにはいかない。義務は個人が負うものではないからである。

③パターナリズム的な説明

今勉強させているのは、「あなたのため」という説明。これは誰のためなのかという部分が「あなたのため」というお節介な部分が非常に厄介である。倫理学ではこれをパターナリズム(父権的温情主義)と呼ぶ。要はお節介である。これは一理あるように思えるかもしれないが、自由主義とは対立する概念であることは確かだ。行為の決定権は、その人自身にあるのであって、教育者でも周囲でもない。

④教師という職業の正当化

教師である以上、学校や政府から教えろと言われているカリキュラムが存在する。つまり、教師は教えることが仕事であるから「なぜ勉強するのか」と問われても困るという説明である。実際には生徒にそれっぽい①②③の説明をするであろうが、その背景には学校それ自体が需要を生産していることがあり、教師はそれを正当化する他ない状況にある。

学校は教師のために仕事をつくり出してくれるのである。
(イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』p.66)

⑤「成長」という強迫観念

これはいずれの理由にも共通することであるが、人間は成長しなければならないということを前提にしていることが挙げられる。人的資本という呼ばれ方もするが、人生の100年間で人は成長していくべきであり、そのために勉強し続けなければならないという観念が広まっている。しかし、成長しなくても問題なく生きていくことができるのであり(そうでなければ生存権を保障したとは言わない)、成長しなければという強迫から一回離れてみてはどうだろう?

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