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バカにされる高校生

「高校生なのにすごいね」というのは差別だとずっと感じていた。10代後半の者は賢くて当たり前だ。社会が高校生の意見を軽視し始めたのはいつからだったのだろう。

政治的混乱と高校生の社会関心

ここ数年の若者は、社会に関心を持つようになっているように思う。むしろ、社会に関心を持たざるを得ないような状態に追い込まれている。それは、経済停滞・若者の貧困であるとか、環境問題であるとか、戦争の問題、ジェンダーの問題であるとか、自分たちの将来や生活が関わった切羽詰まった問題に直面しつつあるからである。自分の生活に支障があるのだから、社会に関心を持たざるを得ない。高校生がバカだと社会的に見下されるようになったのは、ある意味で政治的社会的に安定し、関心を持つ必要がなくなっていたからではないか。安保闘争や学生運動の時代が終わり、経済が著しく成長している時代では、社会の問題など考えなくとも平和に生きていくことができた。しかし、ここ数年の間で自体は一変してしまった。コロナに始まり、経済の停滞と若年層の貧困、ロシア当局によるウクライナ侵攻、少子化による社会保障制度崩壊の危機、温室効果ガスによる気候変動など生活に支障をきたす問題が山のようにある。このような状態で、今、若者は社会に目を向けざるを得なくなっている。

「高校生なのにすごいね」は大人世代の責任放棄

なぜ高校生は社会のことを考えるようになったのか。換言すれば、なぜ高校生は社会のことを考えざるを得ない状況に追い込まれているのか。それは一言でいえば、大人が果たすべき責任を放棄したからである。大人世代がこれまでの日本経済に慢心し、適切な経済政策を行わなかったこと、将来を見て見ぬ振りをし、環境問題の解決に着手しなかったこと、価値観の変化に合わせた柔軟な制度変更をしてこなかったこと。大人たちは何もしてこなかったkら、若者が臭い飯を食わされているのである。したがって、「高校生なのにすごいね」「若いのにしっかりしてるね」というのは、はっきり言って不愉快である。あなたたち大人がしっかりしていないから、私たち若者がしっかりしなければならないのである。

「子ども」は社会・政治状況に影響を受ける

哲学者イリイチは、子供とは生徒のことであるとした。つまり、学校に所属する人を社会は子どもと認識してきたのであり、子どもの概念は学校制度とともに生まれたと言うのである。これは正しいと思う。学校制度には、そこに通う人々を社会から引き剥がすーある意味で隔離施設的なー役割がある。

しかし、もう一つ政治的な混乱の有無も社会的な子ども観に大きな影響を与えているのではないか。政治的に安定し、治安の良い地域において"子供"は、政治的決定を下せる主体とは見なさず、見下すことになる。今、高校生がバカにされているのは、ここ数十年の間において社会が安定し、"子供"は社会のことを知らないという共通理解が広まってしまったからではないか。しかし、今は違う。若年層は社会に関心を持たざるを得ないくなっている。大人はその責任を負うこと、そして若者に対等に接することを求めたい。

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