平成最後の大きな失敗。私がそれでも自分の“生きづらさ”と闘う意味は?
最近かなり大きな失敗をした。公の場で詳細は書けないのだけれど、周りにたくさん迷惑をかけたし、とにかく本当に本当に、自分にとって最悪な出来事だった。
挑戦しなければ、失敗もない。
ここ2〜3年の間、私の失敗する頻度はかなり多くなっている実感がある。それは、仕事であったり、プライベートであったり、人間関係であったり、内容は様々だ。それによって、私のことが嫌いな人もたくさん増えただろう。
だが、これも正直、私が何もせずに大人しくしていれば、何も起きなかった。もっと平凡な日常をおくれていたはずだ。失敗して、自分に精神的負荷をかけてダメージを受けることも、他人の憎しみや怒りをかうこともなかっただろう。
それでも、なぜ私は挑戦することを選ぶのだろうか?
自分が自分でコントロールできない。
私は幼い頃から精神面が弱く、度々自分がうまくコントロールできない事態に陥る。失敗して精神面が大ダメージを受けると最悪、命の危険を感じる。逆に、自分が陥ってしまう恐怖が勝って、それが原因で失敗を招くこともある。
そんな自分のことが知りたくて、これまでいろんな病気の可能性を調べてきた。うつ病に始まり、ADHD、境界性パーソナリティ障害、自立神経失調症、副腎疲労症候群、PMDD(月経前不快気分障害)…と、年々その可能性の数が増えていっている。
この類のものは、個人差がかなりあるし、まわりの理解も得づらい。医師によって診断も偏る。治療法も様々で、保険対象外で自費のことも多く、費用もかかるので良いものを見つけても受けられなかったりする。
だけど、それでも自分で知ることは大きな一歩で、原因や改善策を探ることができる。実際、少しずつではあるけれど、自分の変化は感じられている。
途中で投げ出して、永遠に逃げることはできる。
だけど、変えられないと思ったことが変えていけている。できないと思ったことができてきている。自分がまだ社会に居続けていて、生きてるのが何よりもその「証明」だ。
どうせ生きるなら、“生きづらい”まま生きたくない。
私には「私は生きる」ということ受け入れた出来事がある。詳細は人によってはショッキングなものなので、ここで話すのは控えるが、それはある意味“諦め”だった。どうせ生きなくてはならないのなら、闘ってやる、幸せになってやると思った。それが私の原動力になっている。
人生100年時代と言われるようになった。私はまだ70年も生きる。このまま、その70年を何もせずに“生きづらい”まま、生きることもできる。
何もしない方が安全だ。闘ったら途中で朽ち果てるかもしれない。それでも、何もしなかったよりはマシだと私は思える。
── 人生後悔しなかったかは、死ぬ時にしかわからない。
そう誰かが言った言葉が今も自分の中に残っている。
平成での失敗は平成に置いていこう。
同じ失敗は繰り返さない意味で。
そして、令和では新しい失敗をたくさんしよう。
まわりへの感謝を忘れずに。
みなさん、本当にありがとう。
自分の挑戦と失敗が生きづらさから少しずつ開放されますように。
そして、自分の行動で一人でも誰かの世界が良い方へ向きますように。
<あとがき>
この文を書き始めたのは、「あなたは最近失敗するような挑戦をしていますか」という記事のタイトルが目に入ったのがキッカケでした。失敗はとても怖いですが、こんな私でも、生まれ変わることはできないけど変わってはいける。それだけは自信を持って言えます。
今回大きな失敗をしましたし、周りにたくさん迷惑をかけましたが、少しずつでも自分のできることから始めようと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございます。頂いたサポートは私の癒やし担当、愛猫シャーロックの胃袋にしっかりおさめます!