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「日本にデザインミュージアムをつくろう準備室vol.1」公開ミーティング議事録

開催日:2019年7月15日
スピーカー :田根剛(建築家)、川村真司(クリエイティブディレクター)、保坂健二朗(国立近代美術館主任研究員)
モデレーター:齋藤精一

「みんなでつくるデザインミュージアム」をめざして、2012年に三宅一生さん、青柳正規さんが提唱した精神を受け継ぎ、準備室を発足しました。「デザインミュージアムとは何なのか」「何故デザインミュージアムができないのか」「日本に必要なデザインミュージアムとはどんなものなのか」……。これまで、有志のクリエイターが集い、何度も話し合いを重ねたミーティングを公開して、新しいアイデアや意見を求めました。

edit & text  : 上條桂子(編集者)
photo  :  らくだ

日本にデザインミュージアムがない現状について。


齋藤
今朝、田根さんから「デザインミュージアムをつくろう!準備室」のフェイスブックのグループに「造ろうデザインミュージアム」という三宅一生さんの記事が送られてきて。そのなかにたくさんのヒントがありました。田根さん、紹介していただけますか?

田根
2003年1月28日の朝日新聞の記事です。三宅さんが、なぜ日本にはデザインというものがこれだけたくさんあって、人を喜ばせる力があるのに、デザインミュージアムがないのかという思いが込められた文章でした。自分もこれを原点として、熱意を注いでやってきたので、「デザインミュージアムをつくろう準備室」にかかわる方は公開会議前に見ていただこうという思いで皆さんに展開しました。

齋藤
この記事がきっかけで21_21DESIGNSIGHTができたこともあり、メディアの力は有効だと感じています。三宅一生さんがやってきた意志を、我々が引き継いで、今の時代ならではのデザインミュージアムを現実化しようというのが準備室の狙いです。準備室とは言っても、準備ばかりしていてもしょうがないので、最終的には場所をつくるのか、データベースをつくるのか、なんらかのアクションを起こしたい。そのためには、まずは仲間を募っていくというのが今回の公開ミーティングの主旨です。まずは、「なぜ日本にデザインミュージアムができなかったのか」。ご自身の視点をお聞かせください。

保坂
日本に何故デザインミュージアムができなかったのか。いろんな理由があると思うんですが、まず、今回「ミュージアム」と名付けたのはいいことだと思っています。何故なら、ミュージアムが博物館と美術館とにわかれてしまっているのは、日本の悲劇だと思っていて。「美術」というのは博物以外のものを扱う、「博物」というのは美術じゃないものを扱う、といったような、一種の二分法がある。博物と美術の違いについて、定義は難しいと思うんですが、端的言ってしまえば、ある特定の人物がつくったと判断できる個人的な表現が美術で、それ以外は博物であると。例えば、匿名的なだれかが作ったものや個人的な表現という意識がない時代に生まれたものが博物館の対象と、また自然に生まれてしまったもの──鉱物、植物、動物なども博物館の対象となります。そう整理してみた時に「デザイン」がどちらに当てはまるかというのは、難しいんです。

するとどうなるかと言うと、「デザイン」を博物館に入れようとすると、博物館の人たちは美術寄りだよねという話になって、美術館側からすると制作者が誰なのかわからなかったり制作者が誰であるかは重要でなかったりするものは扱いづらい、ということになる。「デザイン」は、日本では宙ぶらりんな存在なんです。また、日本の近代化の過程で、美術とは何を指すのか、工芸は何を指すのかといったさまざまな定義をつくっていくなかで、「デザイン」というものが、やはり宙ぶらりんになってしまった。博物館と美術館の差異化をした結果、日本は「ミュージアム」という概念をきちんと育てることができなかったために、デザインの定義がつくれなかったというのが、僕自身が感じていることです。


田根
言い出しっぺがいなかったのが大きいと思う。そこで三宅さんが「造ろう!」と言い出した。デザインミュージアムがあるところ、ヨーロッパにしてもアメリカにしても、産業を生み出したデザインを自国の財産として提示する。デザインはただ使うものではなくて、自分たちの生活文化の歴史的変遷をみるための意味がある。「もの」ではなくて「意味」を陳列するということでミュージアムができてきた。ヨーロッパでは歴史は時代を語るものだということで、デザインの歴史も蓄積されてきています。しかし、日本はデザインが縦割り行政のどの省庁にも属せず、どう扱っていいのかわからないということで放置されてきたのが大きな理由だと思います。

齋藤
世界で初めて「デザインミュージアム」と名乗ったのはロンドンのデザインミュージアムです。1989年にテレンス・コンラン卿が言い出しっぺになって、プロダクト、インダストリアルデザイン、グラフィックデザイン、ファッション……、現在はもっと広がっていると思いますが、創設された。日本での言い出しっぺは三宅一生さんだったのですが、それを最終的に形にする人がいなかった。

保坂
あともうひとつ大事なのはコレクターです。日本の多くのミュージアムの運営主体は事実上行政ですが、その行政は、価値がないものに価値を与えるのが苦手。だから、価値がはっきりとしてものは収蔵しますが、価値がまだよくわからないものにはなかなか手が出せない。それとは対蹠的に、価値が定まっていないものでも果敢にコレクトしていくのが個人コレクターです。そうやってできたコレクションをコレクターがミュージアムに対してまとめて寄贈したり売却したりするということが往々にしてある。しかし、日本はデザインの個人コレクターというものが機能していない。いるにはいるんですが、表に出てこなかったり規模がミュージアムのコレクションのコアとなるほどには巨大ではなかったりする。デザインは場所をとりますから、場所の問題でコレクターが育たなかったのかもしれません。


田根
もうひとつ「デザイン」という分野がちゃんと整理されていないのもあります。デザイン史、あるいは日本デザイン史を系統立ててまとめている人が少ない。建築はされている。でも、デザインは、グラフィック、インダストリアル、プロダクト、産業デザイン等々と分野ごとでわかれてしまっていて、デザインを俯瞰して総合的にまとめられていない。

保坂
それは教育の問題もあるかもしれません。日本の大学の建築学科には建築史の先生が常勤で必ずいると言ってよいと思いますが、デザイン学科はそうではない。柏木博先生とかもいらっしゃいますけど、美術史に比べてデザイン史を専門にしている人は圧倒的に少なく、デザイン史学科というのも記憶の限りないはずです。ファッションについても、国公立の大学で学科としてもっているところはほとんどなく、コースレベルです。とにかく、デザインというものに対する、国公立のサポートのレベルが、大学でも美術館でも非常に低い。

齋藤
なるほど。また、全国に散らばっている民芸館や郷土資料館がネットワークされていないのも、ひとつ問題なのかと思います。いろんなところでデザインミュージアムの話をすると、みんな「あったほうがいいね」って言うんだけど、なんのためにあったほうがいいのかを考える必要があると思います。要はアーカイブがあった方がいいのか否か、またミュージアムの体裁はどうしたらいいのか。例えばエルメスには、デザイナーたちがヒストリーを閲覧できるミュゼがあるんですが、そのように未来のデザイナーのための羅針盤みたいなものが必要なのか。それとも、消えそうなものや消えてしまったものをアーカイブすることが必要なのか。どういう体裁のミュージアムがあるといいのでしょうか。次にお話をしたいなと思っているのは、アーカイブの話です。例えばフランスでは、一定以上の動員数を得た映画はすべてアーカイブするという規則がありますが、日本では誰もが知っている映画のマスターフィルムが破棄されているという現状があります。じゃあ「デザイン」をアーカイブするということについて、お二人はどう思われますか?


デザインをアーカイブすること、
アーカイブすべきデザインとは。

田根
北海道の東海大学に織田コレクション(*01)というのがありまして。北欧を中心とした椅子やテーブル、照明、カトラリーなど生活用品が2万点以上コレクションされています。北海道に旭川にデザインミュージアムをつくろうとして、これだけの膨大なコレクションがありながらも倉庫で眠ったままになっていました。当時は、年に一度の展覧会で学生たちは、実際に世界の名作椅子に座ることができる。デザインというのはものが大きい分、場所がすごく課題になります。

*01:東海大学名誉教授であり、椅子研究家の織田憲嗣さんのコレクション。2017年に東川町によりコレクションの公有化が決定。2018年秋に複合文化施設「せんとぴゅあII」がオープンし、「家具デザインアーカイブス」として展示されている。

齋藤
いま、ミュージアムでコレクションまったく持たないというところもあります。アーカイブの話をすると場所のせいにされて話が途絶えちゃうんですが、学芸的な立場からすると保坂さん、どう思われます?

保坂
ミュージアムにとってコレクションは重要なので、倉庫が飽和状態ならば、倉庫の建て増しを不断に要求していくべきです。もちろん、その要望が通るのは相当難しいんですが。また、日本では、収蔵庫と展示室が一体化しているのが前提になってしまっているのも問題だと思います。そうなると、どうしても都市部は厳しくなるので。でも、諸外国の美術館の場合、ニューヨークのMoMAもロンドンのテートもそうなんですが、郊外に大きな収蔵庫を自分で建てたり、美術品専門の運送会社がつくっている大きな倉庫を借りたり、いろいろなケースがあります。ミュージアムに勤務するキュレーターからするとなるべく作品は身近な場所に欲しいとう気持ちはあるものの、収蔵庫と展示室が別だという前提で話を進めていけば、今とは全然違う展示施設の作り方ができるはずだとも思います。


齋藤
前に中村勇吾さんもおっしゃっていましたが、作品を持っている場所がわかるんだったら、そこを含めてデータベース化すればいいという話もあります。一方、しっかりアーカイブするとなると、場所が必要。それだったら今余っている場所に作ればいい、素人考えでは思ってしまいます。例えば、地方の廃校などを使うとか。もちろんそのままで使えるわけではありませんが。川村さんは、映像作品をつくっていますが、アーカイブについてどう思われますか?

川村
映像だけでなくメディアアートの話にもなりますが、テクノロジーをなにがしか活用した作品のアーカイブには様々な問題がつきまといます。映像が制作された時代の視聴環境を含めてアーカイブしないと、本来的な意味での体験を保存できていないのではないか、など考えだすといろいろな課題が出てきます。例えばナム・ジュン・パイクのブラウン管のテレビを使った作品が、そのまま再現できなくなってしまったときに、中にLEDディスプレイを入れて再現するのはアーカイブしていることになるのか、作品を改変してしまうことになるのかといった議論は面白いし大事だなと思います。

齋藤
ディスプレイ自体を交換しても彼の作品になるのか、ブラウン管自体を修復しなければならないのかということですね。ぼくが聞いていた情報だと、いまは運動は起きているけどアクションは起きていないという状態。(*2)

*02:会場から、現在ブラウン管を修理中であるという声あり。また、この問題と対応策については「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復・保存・記録のためのガイド」に詳細が掲載されている。


川村
それはテクノロジーを使っている作品の宿命みたいなところがあって。映像やインタラクティブ表現も、どの状態で作品を残していくかを問われていて。再生装置や視聴環境も含めての作品であって、単純にデータとして残っていればいいわけではありません。

齋藤
デザインは物理的にアーカイブする必要はあるのか?という問題ですね。僕自身はあった方がいいと思うんですが、全然違う観点からすると、有形物で再現性が持てるだけのデータがあればいいとう考え方もある。そのデータとは、3Dデータやマテリアルについての資料、工程もすべてデジタル化して、データベース化し保存するというのもひとつの方法なのかもしれない。その場合は、比較的身軽に始められるなと思うこともあって。

田根
僕は反対です。何故かというと、オリジナルのよさは真似られないからです。“有形物”かつ“オリジナル”であることが重要です。モノが生まれる瞬間というのは二度は再現できませんし、最初に生まれたものには、作る側、考える側の哲学が現れるからです。海外では、デザインのコレクションのルールは、作家の一点ものではなく「量産できるもの=システムがあるもの」だと明快に話されていました。でも、コレクションはオリジナルであるべきだと思います。

保坂
オリジナルがいいという話で難しい問題があります。広義のデザインの中には建築が含まれると思いますが、建物は大き過ぎて収蔵できません。また、図面は、今日ではいわゆるデジタルボーンがほとんどです。つまりオリジナルとかものという概念とは別のところにある。自分はずっとミュージアムに勤めているので、コレクションはものであってほしいと思っているんですが、デザインを対象にするのであれば、オリジナルではないものも収蔵することも視野に入れるべきだと思います。ものを収蔵しているんじゃなくてデザインを収蔵しているんだと、考え方を変えていく必要があると思います。

もうひとつ。企画展もものを展示しないといけないという考え方になりがちですが、それも変える必要があると思います。私は立場的に、絵画は実物がいいと言い続けてきてはいますが、皆さんよくご存知のように高精細画像を撮ると肉眼では見えないところまで見えるんですね。これがやっぱり面白い。実物もいいんですが、複製をつくること、複製で見せることによるメリットがあるわけです。そもそも、デザインという言葉が指し示しているのは、ものではなくて概念なので、デザインを展示するのにものだけに頼っていてはいけない。いまのデザイナーがものをデザインするためにどういう情報を得て、処理しているのかというのを見せる必要が、むしろあるわけです。以前に、デザイナーのブルース・マウがキュレーションした「Massive Change」(*03)という展覧会がありました。メインのコンテンツは、彼がリサーチしたデータをインフォグラフィックなどで表したインスタレーションです。バンクーバーで展示されて、トロントやシカゴにも巡回したのですが、たぶんこういう展覧会は日本ではできないと思う。何故ならデザインの展示は“もの”を見せる展示だから、一研究者のリサーチ結果をインスタレーションすると言ったら拒否反応が出るだろうなと。でも、その状況こそを変えていかなきゃいけない。

企画展にはものがなくてもいい、だけどものはコレクションするんだという二枚舌でやっていかなきゃいけない。でも、その二枚舌がデザインミュージアムの一番面白いところなんだと。それを許していかなければ、未来は語れないなと思います。

*03:ブルース・マウの同名の著書に端を発した展覧会。デザインとはあらゆるものを超えた最大のプロジェクトであるという思想のもと、世界をマッシヴに変える可能性を持つデザインの実例を集めた。

齋藤
「アーカイブはデータでもいい」といったのは、実際にデザインミュージアムを運営していくことを考えたときに、圧倒的に足回りが軽いのはデータだと思っていて。量産できるものの手法、マテリアルや加工方法をすべてアーカイブするという。もちろん一筋縄ではいかないと思うんですが、でもやれなくはないかなと思っています。

デザインミュージアムには何をコレクションするか。

齋藤
香港に「M+」というのができている。いろんな意味のミュージアムで美術品もあるし、デザインもあるし、倉俣史朗さんがつくった寿司屋をそのまま持っていってアーカイブしたというニュースを聞きました。僕がここで言いたいのは、日本にデザインミュージアムをつくるときには、日本のデザインもしくは日本で育ったデザインというのを基本的に中心にアーカイブするのがいいと思っているんですが、どうでしょうか?

保坂
デザインにはいろいろな定義があると思いますが、大事なのは、デザインが生活と結びついている点です。生活に結びついている以上、その国の文化を知るためにデザイン見た方が美術見るよりもわかりやすいはず。その意味でもデザインミュージアムというのは、なきゃいけないし、国が持っているべきなんです。デザインという言葉から皆さんが思い浮かべる国というのは、だいたいがデザインのミュージアムないし、ミュージアム内にデザインのデパートメント(部門)を持っている。それがまともにない現状はおかしい。一方で「日本すごい」を見せるための展示になってはいけない。その場合、一番よいのは、近代以降といったように時代で区切る方法です。近代化以前は、見せない。しかし、そうするとセレクトショップとの区別がつかなくなってしまうという難しさも出てくる。つまり、ショップではなく美術館ならではの見せる方をどうするかということを考えなくてはならない。

田根
日本という国で語るかどうかは別としても、一万年以上、時代が変わろうと生活文化が続いてきたという日本の人類史は珍しい。これをデザインという切り口を武器にして世界に発信する価値はある。例えば日本の巻物は何故生まれたか。手紙を折らずに運ぶために生まれた技術だと考えると、「巻く」というデザインのキーワードで他の文化と繋げて語ることができる。日本を軸としながらもそこだけで完結せずに、世界と比較してのデザインを見るのは面白いかなと。

齋藤
ちゃんとキュレーションしないとその着眼点が見えてこないかなと思います。この話に繋がるかどうかわかりませんが、以前に田根さんがおっしゃっていた、「アイデアミュージアム」の話をお聞かせいただけますか?

田根
「デザインミュージアムをつくろう!」と2、3年くらい前から若手のクリエイターたちで集まって、デザインミュージアムについて会議を続けてきました。その時に、デザインとは何かという議題になって、ソーシャルやデジタルなどデザインという言葉が溢れ過ぎていて、「デザインとは何か」だんだんわからなくなってきた。英語で調べてみても設計のプロセスの話だったり、よくわからない。でも、デザインが生まれた背景にはしっかりしたアイデアがある。デザインミュージアムというよりは“アイデアミュージアム”を日本でやったらいいなと思ったんです。それは世界のどこにもない、アイデアこそが21世紀に日本から世界に発信できる力なのだと。例えば、歩きながら音楽を聴きたいというアイデアでソニーのウォークマンが生まれたとか、江戸幕府がつくった参勤交代という仕組みも地方と江戸を結ぶシステムのアイデアと言える。アイデアという言葉でデザインを考えれば、その価値やもの意味が分かりやすくなると思って“アイデアミュージアム”という構想をお話しました。

齋藤
アイデアミュージアムがいいなと思ったのは、ものを作る人たちに焦点が当てられているところ。また、そこに行くと頭の回転が速くなって、いろんなものがひらめく。そういう場所をつくるのは意味のあることだと思っていて。いろんなアイデアやものの考え方がある。それは、漠然としたデザインミュージアムというよりはいいのかなと思いました。保坂さんに聞きたいんですが、参勤交代の仕組み自体をアーカイブするとなったら、どうします?

保坂
「断る」っていう答えはないんですよね(笑)。率直に言うと、専門じゃないので、わかりません。でももしどうしてもやるとしたら、外部の有識者を集めてベストな回答を探します。デザインのように対象範囲が広いものを扱うときには、働く人がきちんとネットワークを持っていないと面白い展示はつくれないはずです。しかし、いま日本のミュージアムっていうのは国公立はどこも大変で、ゲストキュレーターのような外部の人を、入れたくても入れられない状況があります。

田根
アイデアミュージアムの優れたところは、権威が存在しないというのも大事なことだと思っています。デザインの場合、いまミュージアムをつくろうとすると、誰がディレクターになるのかという問題が発生して、「このひとは外せない・・・」それが権威づけに向かってしまう恐れがある。アイデアについては偉い人も権威いないし、未来に開かれている。軸さえしっかりしていれば、面白くなると思う。

齋藤
アイデアに一票入れたいと思います。アイデアミュージアムっていうのは、ものだけではなく人や年代で切ることもできる。例えばイームズの椅子は、成形合板という技術革新に一役買っている。デザインミュージアムって、ものではなくて人や時代背景から出たアイデアということで串刺しにできるんじゃないかなと。

川村
発想を集めるのは面白いなと思いますが、先ほど偉い人がいないと田根さんがおっしゃっていましたが、アイデアはスペシャリストもいない。だから、どの時点のどういった発想を「アイデア」と規定するのかというのがすごく難しい。ウォークマンには新しいアイデアがあるけれども、「持ち運べる」ということ自体は新しいアイデアではない。そのあたりの線引きをどのように体系立てて、多くの人の腑に落ちる形で新しい価値として提示できるかが鍵になりそうですね。


田根
例えば「修復」というアイデアから、器を修復する「金継ぎ」という手法や、青森の布を修復した「ぼろ」だったり、神社仏閣の修復しながら使い続ける文化から、IPS細胞まで一気に繋がる。あまり繋がったことがないものが、「修復」というアイデアで繋がることができる。

保坂
原理主義的な立場からお話すると、田根さんが言うアイデアというのは、デザインオリエンテッドなアイデアですね。でも、デザインに収束されないアイデアもあるはずです。有名なのはラブジョイという人による「history of ideas」という研究。そこでは、愛や権力というような概念もアイデアになっている。行為とは違う観念ですね。そういう観念を人間が把握できるようになったことをラブジョイは重視している。田根さんのいうアイデアミュージアムがそこまでやるんだったら賛成してもいい気がするんですが。そうなるとデザインミュージアムの言い換えじゃなくなくて、もっと大きいことを話しているような気もするわけです。


川村
それはそれでとても面白いですね。

保坂
そう。面白いんです。ミュージアムっていうのはひとつの装置で、美術史や博物学などの学問における体系化と切り離すことができません。何が言いたいかというと、日本は、新しい概念や学問を打ち出すためのミュージアムを基本的に生み出せていないんです。例えば、ウィーンに「美術史博物館」という施設があるんですが、それはウィーンが近代美術史の発祥の地であることと不可分です。同じ理由でパリには、人類学博物館がありました。だから、田根さんの案は、自分たちがつくったアイデアという学問体系をミュージアムで見せるんだという、そこまでのやる気があるんだったら面白いんじゃないかと思います。

デザインミュージアムをやるとしたら何をやりたいか。

齋藤
ツイッターからいい質問がきました。「デザインミュージアムをつくったときに一般大衆がどれほど欲するんだろうか」というものです。アカデミックになればなるほど、一般からは遠くなってしまう。先ほどのアイデアミュージアムも、僕らにとっては役立つものかもしれませんが、一般の人からするとよくわからないという可能性もある。その照準を合わせる必要はあると思います。

川村
個人的には、あまりアカデミックになりすぎず、一般の方々が来て体験するだけで、デザインとデザインの間に新しい価値を見つけられるような場所にできたらいいなと思います。サンフランシスコにエクスプラトリウムというミュージアムがあるんですが、面白いんですよね。子どもたちが遊びながら発想法や科学のベースになる知識を体験を通して学ぶことができる場所になっている。

齋藤
一方でアカデミックなところと繋がりをもっていないと、分かりやすくやり過ぎると、デザインの哲学思考の部分から離れていくような。

保坂
アカデミックというと拒否反応が出るケースもあるんですが、そっちでいいと思っています。美術館はいま教えるという教育普及から学ぶというラーニングへと進んでいるのですが、デザインは最もラーンすべきものです。正直なところ、実生活とアートは結びつかないと思う人が多いだろうと想像しますが、デザインはなんらかのかたちで誰もが絶対やっている行為ではないでしょうか。そういう意味でも、大学との連携はすごく重要ですが、日本のミュージアムはそれができていないし、日本の大学の美術館もあんまり機能していない。一方、ロンドンのデザインミュージアムはキングストンユニバーシティと連携しているし、ニューヨークのクーパーヒューイットはパーソンズと連携している。それは主にデザインのコースの学生との連携なんですけど、今日の話をふまえるならば、デザインのコース以外の学生達と一緒にやっていく展覧会があってもいいですよね。例えば、憲法もデザインだと考えたときに政治の学生と一緒にやっていくといったような。そういう意味で、小規模で良いからラーンとして大学と一緒にやっていくというようなアカデミックなあり方が望ましい。実際には、大学だけとは言わず、ミュージアムがいろんな人と展覧会を作れる場になるといいなと思います。

齋藤
デザイン分野ってすごく縦割り。映像業界でもCMと映画とテレビってほとんど交わらない。それは、デザイン業界も同じで、プロダクトと建築とグラフィックデザインといった横のつながりがない。保坂さんがおっしゃっていた切り口でいうと、アカデミックな組織と連携すると、じゃあ今回は「包む」という形容詞を題材にしてデザインを深掘りしてみようとか、今回は「酒」を切り口にしようかとか。要は、“もの”が主語でも“こと”が主語でもいい。それに応じて科学者とか医療系の方とか、いろいろな研究の立場の方たちも連携していったりして新しい分野横断的なものができるかもしれない。

田根
昨年、ロンドンのデザインミュージアムとかも行ったんですが、やっぱりでき上がったものの陳列だけを見ても、あんまり面白いと思えないんですよね(笑)。ものを並べただけだとまったく意味がなくて、次の発想に繋がったり、世界の見方を知ることができるような展示だといいなと思います。膨大な知識を持った学芸員から教えていただくような既存の展覧会の考え方ではなく、展覧会をつくる側もリサーチを行い、学びながら展示をつくっていく、双方に勉強になるようなことがいい。双方にラーニングな感じでいけると、面白いんじゃないですかね。

川村
細やかなクラフトのようにディテールに新たな気づきが存在している場合もあるし、発想の原点という着想も面白いし、時代のコンテクストのなかでどうやってあるデザインが生まれたのかを知るの発見がある。どのレイヤーで何を体系立てて語っていくかは、ある部分は自由にしておいた方がいろいろなジャンルのデザインを扱えるし、新たな気づきや価値を与えられるんじゃないかなと思います。そうしたときに、権威がないなかでどうやって体系を作っていくのがフェアなのかということを議論する必要がある。例えば、僕があるものをデザインして、「包む」というアイデアで自分のものが展示されたときに、いやいや僕は包むって思っていないということがあり得る。真面目に考えれば考えるほどドツボにはまるので、どういうところにフォーカスしてどこまでを議論するべきか。面白い議論ではあるんですけど、終わらないですよね。なるべくジャンルを広く考えて、これまでデザインと思われていなかったものも含めて扱い、並べて見せられるようにしたいし、そこに僕は未来を感じています。


齋藤
デザインをどう定義するか、定義を決めている間に2年くらい経ってしまうし、アーカイブを持つか否かで原資をどうするかを考えたら、そこでまた1〜2年経ってしまうと思う。また、デザインってどんどんリフレッシュされていくもの。毎年のように新しいデザインの仕組みやプラットフォームが出てきている。それを考えると、アクションはできるだけ早めから始めたいと思います。このミーティングで出てきた話で、来年くらいからアクションとして準備を始められる方法を探っていきたいと思います。僕が考えたのは、まずは無形物からスタートしちゃった方がいいのではないかなと思いました。

川村
デザインミュージアムを作るという旅路を共にする仲間を募るような感じで、秋口からNHKで「デザインミュージアムをデザインする」という新番組を放送しようと準備を進めています。その番組を通して、ここで議論されていることの拡張版として、広くアイデアを募っていきたいと思います。番組ではまずは様々なデザイナーの方々に「デザインミュージアムをつくるとしたら何をやりたいか」をインタビューしはじめる予定です。こちらの番組では、デザインミュージアムの存在についての問いやアイデアを膨らませられたらいいなと思います。その一方で、齋藤さんがおっしゃったようにアクションとして先鋭化して、小さくても実現していける方向を模索していきたいですよね。無形のものっていうのは、第一歩としてはありだと思います。

田根
今回のミーティングは、日本のデザインミュージアムをつくろうと三宅一生さんがおっしゃってから、一度途絶えてしまったものが再起動したタイミングです。なので、ここに来てくださった方は応援を続けていただけると嬉しいと思っています。ここから最終的な形としては、場所とコレクションはあった方がいいと思っています。活動だけではなくて場所があり、コレクションがあるというのは、ひとつの信用になりますから。

齋藤
スタート時点でまずやりたいのは、全国に散らばっているアーカイブされているものをきちんとデータベース化することです。もし展覧会の企画をやるとなったら、最初はやどかり方式で、どこか美術館の場所を借りて開催すればいいと思う。その時点で、作品を借りる所有者がわかって、借りることが出来る状態になっていることが重要かなと思います。


保坂
今日、会場にいらっしゃっていますが、関康子さんという方が代表を務めるNPO PLATでは、全国にある個人アーカイブをリサーチをしてまとめています。また、オランダのロッテルダムにNAi(オランダ建築博物館)を前身とする、HNiという施設があります。ここでは対象としてデザインと建築のアーカイブを扱っているのですは、以前訪れたときには、オランダ各地にある小さなミュージアムにある地元作家のアーカイブなど、整理が全然進んでいないケースも含めて、デザインにおけるアーカイヴとはなにかを考えようという展示が行われていました。

もうひとつ、水を差すわけじゃないんですが、僕が勤務しているミュージアムのコレクションに「戦争記録画」があります。それは要するに戦争に画家が画家として協力しましたという歴史の証拠でもある。デザイナーももちろん加担している。時々思うのは、デザインは、ひょっとするとアート以上に毒があるかもしれないとうことです。なぜなら、安いものを高く見せることも可能だし、一方、何かを見えなくさせることだって、できるわけですよ。デザインミュージアムは、そうしたデザインの負の作用も見せないとよくないなと思っています。つまり、見に来る人たちのデザインリテラシーを高めてもらう役割を、公的な美術館は持つべきだと思う。そのためにも、キュレーターは、価値中立的であり、デザイナーからも距離をとるべきなのだと思います。

川村
デザインミュージアムで扱うものは、グッドデザインばかりでなくバッドデザインも内包できるといいなと思うもうひとつ問題提起として言っておきたいのは、デザインは使われることで完結するものです。例えば茶器はお茶の場で完結するものだし、椅子は座ったり使われることが重要。コレクションされ、展示されているものは、本来あるべき環境に置かれていない。なかなか難しいのはわかっていますが、デザインを扱うときに個人が使っている状況を見てみたいというのはありますね。

齋藤
そういう場所を含めて、全国でデザインを見られたり触れられたりする場所をプロットしてみるというのは、いの一番に始められるのではないかと思います。そろそろ時間なので質疑応答に移りたいと思います。

質疑応答

質問者01
デザインの定義をすることがとても大事だと思う。いつからのことをデザインと呼ぶのかを言語化する必要があると思いました。デザイン史という概念はそもそも産業革命以降の話。それ以前にもデザインという言葉はありましたが、違う文脈で使われていました。それ以前のものをデザインと呼んでもいいと思いますが、人間の歴史をすべて振り返るという巨大な仕事になってしまう。いまのこの時代においてデザインはどう定義できるか、ミュージアムという組織のなかでも確固たる定義を持つべきかと思いましたが、その辺はいかがでしょうか?

田根
デザインという定義をいろいろなクリエイターが集まって散々考えたのですが、定義を決めることが幅を狭めたり、善し悪しを決めるということにあまり意味がないんじゃないかという話になったんです。その時にアイデアミュージアムという発想に至り、やるならこれくらいのことをやってみたいなと思いました。デザインは何かという定義よりは、アイデアが人類の間でこう生まれたというタイミングや時代、必然性などを考えてみたいなと。

保坂
いまおっしゃったことで難しいのは、アイデアミュージアムを既存のいまのミュージアムの編成の中に置き換えるとすると、「Museum of Technology」か「Museum of Science」に近いんです。その彼らにも絶対できない展示なんだということを強く言いたいのであれば、やっぱりデザインというのは何かという定義をする必要がある。見えないものを見えるようにすることをデザインというのか、感覚を拡張したり変容したりすることをデザインと呼ぶのか、何かしらの定義が必要。あるいは単に生活をよりよくするための行為なのか。そこはすごく難しいんですが、自分たちが扱うデザインとは何かを言わなきゃいけないのは事実としてはあります。

ちなみに、テクノロジーというのは面白い概念です。最近、リスボンにMAATという美術館ができましたが、その正式名称はMuseum of Art and Architecture and Technologyなんですよね。昔MoMAの建築&デザインデパートメントにいたキュレーターがいまそこのディレクターをやっているんですが、トピックとして面白いなと思っています。

川村
デザイン史についてやりだすとすごくアカデミックな方向になってしまって。逃げてはいけないという気持ちはありつつ、そこの答えに辿り着けるのかという。むしろ、デザインミュージアムのコンセプト自体もキュレーションされるというか、デザイン史観で見た時に正しいかどうかではなく、我々が見せるべきものを規定するという枠組みであれば可能性はあるかもしれません。連綿と続く流れでいくと、これが真理ですという言い方はできない。

田根
またデザイン史にしていくと、どうしてもリニアな時系になってしまうのが、あまり有効とは思えない。パラレル・ヒストリーだったりネットワークのように面の要素がデザインの場合は強いので、研究は非常に大事なんですけど、デザインの出発がそれらを定義するためのところから始めるとだいぶ違う方向に行くんじゃないかなと思います。

齋藤
僕はデザインの定義をするのに2,3年かかると言いましたが、デザインって定義できないと思うんです。グッドとかバッドっていう判断はできるかもしれませんが。いまってデザインの範囲がものすごく広くなっていて、アートって言いながらデザインのものもたくさんあるし、逆もある。そもそもテクネの話もありましたが、デザインってもともと社会に対してどんなインパクトをあるのかという定義はできると思うんですが、終わらないんじゃないかと。僕は時代とともに走りながら、これもデザインに入る、これはデザインじゃなくなっちゃったっていうのでいいんじゃないかと思います。

でも、これはしっかりと議論すべきだと思うので、次回以降で議論していきたいと思います。9月に次回のミーティングを行い、11月にシンポジウムをし、実施に向けて動いていければと思っています。この議論に皆さんも参加していただきたくて。立場が違う意見を募集します。ハッシュタグ「#designmuseumjp」をつけてください。


質問者02
2003年に経産省が戦略的デザイン40の提言を出されました。そのなかに「デザインミュージアムの設立を通じて多様で優れたデザインに出会う機会を創出する」という項目がありました。ちょうど、その後2006年に経産省の管轄のデザイン8団体(空間、グラフィック、インテリア、インダストリアル、クラフト、パッケージ、ジュエリー、サインデザイン)が、おなじようなジャパンデザインミュージアム設立研究委員会というのを立ち上げました。それをいま8団体で動いているんですね。今日お話をうかがって、すごく共通するところがあると思いましたし、我々が勉強したところもたくさんあります。そういう意味でコミュニケーションできないかなというのがひとつあります。

齋藤
ありがとうございます。この会のもうひとつの趣旨が、同じ思想を持った方、いやこういう形で、京都とか奈良にこういうミュージアムをつくろうとしているんだとか、ぜひ協力できるところはするし、話し合う、集まる機会になればいいと思っています。本日は皆さんありがとうございました。

開催概要 
「日本にデザインミュージアムをつくろう準備室vol.1」
日時:2019年7月15日(月)15:00-17:00
場所:インターナショナル・デザイン・リエゾンセンター
イベント協力:有友賢治、河村和也、山下公彦(TYO.inc) 

✳︎次回開催のお知らせなどはこちら
→公式WEB  http://designmuseum.jp
→Twitter   https://twitter.com/designmuseum_jp


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