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ピーター・ラフナーの余白に(1)


L’imperfection est la cime.(yves bonnefoy)

「不完全が頂点だ」(イヴ・ボンヌフォア)

【略歴】
ピーター・ラフナー(発音はロックナーが近いらしい)1952年8月22日生まれ、没年は1977年6月22日。
参加したバンドはミスター・チャーリー、シンデレラ・バックストリート、ピーター&ザ・ウルブズ、ブルー・ドライバーズ、フリクション、Rocket From The Tombs、最初期のPere Ubu。

※勿論↑のフリクションは日本のフリクションではない。が、バンド名はテレヴィジョンの曲名からとったという由来はおなじ。当時(70年代半ば)のクリーヴランドのローカルシーンではそこそこ有名だったらしいミラーズというバンドがいたり、70年代末の東京ロッカーズとバンド名がシンクロしている不思議...

過度の薬物乱用とアルコール乱用が祟り、1977年24歳のとき急性膵炎で死去。

【ディスコグラフィー】

生前発売された音源はPere Ubuの「30 Seconds Over Tokyo」(1975)と 「Final Solution」(1976)の2枚の7インチのみ。1981年にPere Ubuのコンピ(「390 Degrees Of Simulated Stereo. Ubu Live: Volume One」)で1976年にテレコで録られた在籍中の3曲が収録される。1982年にソロ名義では初のLP「Peter Laughner」(7曲入り)がKoolie Productionsから。1987年にForced Exposureから「Cinderella Backstreet」EP。1992年にPeter Laughner & The Finns名義で「Baby's On Fire / What Goes On」がSingles Only Labelから。1993年に「Take The Guitar Player For A Ride」という2LPコンピ、2002年にRocket From The Tombsの「The Day the Earth Met the Rocket from the Tombs」2LPコンピ発売。そして2019年に左記RFTTのコンピ同様Smog Veil Recordsから待望の5LPBOXが発売された。同時に同レーベルから5曲入りEP「1973-1976 (Easily Excited)」も限定リリース。(それとMP3で『The Creem Office Sessions』というレスター・バングスとの共演作が2007年に発表?されている。)


この手記?は前に訳したクワインインタヴューのなかでラフナーへの言及があって、訳しながらぼんやりと違和感を覚えつつピーター・ラフナーに想いを馳せていた日が6月22日ーつまりラフナーの命日だったーで、命日まで覚えてなかったこともあり、「ぞわぞわ」したことがはじまりだった。

その言及箇所が↓

「ピーター・ラフナーはおそらくレスター(バングス)よりも音楽的に才能があったが、ファン資質を乗り越えて自分のものにすることはできなかった。」(ロバート・クワイン)

そして、もっと敷衍すれば↓の発言になると思う。

「私の考えでは、ピーターの才能はほとんど形になっていませんでした...主な理由は音楽的に自分の声を見つける前に死んでしまったからです。彼は非の打ちどころのないセンスと、そのような知識を得ることが非常に困難だった時代にオブスキュアな音楽に対する膨大な知識を持っていました。ときに彼はジミー・リード、ボブ・ディラン、ルー・リード、トム・ヴァーレインになりたいと思ったこともあった。どのアーティストでも影響を受けないことはないが、ピーターはこれらの影響を克服したり、あるいはそれらを組み合わせて独自のヴィジョンを形成するまで、長生きできなかった。」(アントン・フィアー)


もちろん連中は個人的な関わりのなかでラフナーの印象が固まってしまったんだろうから、そうじゃないとか云っても無意味だしその発言自体はじつはどうでもいい。
ただ「ファン資質を乗り越え」るべきとか「影響を克服し」「独自のヴィジョンを形成」しなければならない等の「紋切型」(フローベール)には抗っておきたい。だが、どうやって?


【ロビン・ヒッチコックの言い分】

「時は円形に進むものではなく、スパイラルだと思っている―自分が居た場所に、後に辿り着く。時の地図があるとすれば、らせん状に動くバネのようなものかもしれない。私は自分の亡霊を再訪している。あるいは、私自身が亡霊として自分を再訪しているのかもしれない、どちらかは不透明だ。」
「解釈するのは自由だと思う。人生の大半歌い続けていれば、自ずと自分の曲になっていく、たとえ出版権がないとしても。自分の中で成長し、体の一部になる。私がこういった類のシンガーソングライターであるのは、これらの曲を長らく聴き続けてきたからだ。ドアーズやロキシー・ミュージックの曲(「To Turn You On」)は、慣れ親しんできた曲なので、私の音楽DNAが入り込んでいる。それに、どんなものでも、どれだけ本当に発明することができるんだ?多くのものは、拝借、借用されている。とある特定のメロディの作り手が誰かなんて、誰にもわからない。ボブ・ディランの曲の多くは、フォーク・ソングやトラディショナル・ソングと呼ばれるものだ。彼らはそれらを誰も聞いたことがないものへと変形させていった。我々が口にする言葉も、元々は他の誰かの言葉だ。たとえばイギリスで、今建っている家は亡くなって長らく経っているような人々によって作られたもの、我々が今あるものを作ったわけではない。自分達に合うように適応させているだけなんだ。」
「もちろん若い頃は、そうしていた。レザー・パンツを持っていた。別に彼になりたかったわけではないが、ジム・モリソンのファンだったからね。レザーの服を買うぐらいのファンだったけれど、髭を生やしていたことで台無しにしていた。ブライアン・フェリーの曲での私は、自分がハンフリー・ボガードと思い描いているブライアン・フェリーを思い描いている。みんな真似ばかりしている、そう思わないかい?全員、自分ではない他の誰かになりたいから、存在しているんだ。マイケル・スタイプは、パティ・スミスになりたくて、そんな彼女は、アルチュール・ランボーやキース・リチャーズになりたいんだ。私になりたい人、またはなりたかった人も数人いるはずだ。我々は他人を自分の中に取り込み、他人から自分を作っていく。人間は歳を重ねると、もう長らく生きることは出来ないと悟り、自分の過去に興味を持つようになる。歴史的な背景に自分を置きたいんだ、まるで額を求めている絵画のように。」(ロビン・ヒッチコック)
ーQ&A by Chris Payne 訳者不明ですが訳文お借りしました(一部原文に照らして訳文変更しました)。感謝。

↑ですべて言い尽くされてるので、多言は無用だとおもうが、ヒッチコック氏は近年霊に?とりつかれたようにビーフハート(『クリア・スポット』)、ビートルズ(『サージェント・ペッパ-~』)、ボウイ(『ハンキー・ドリー』)等々をライヴでまるまるカヴァーするという「活動」をしている。(まあこの手の活動は1996年のディランの『ロイヤル・アルバートホールライヴ』の再現ライヴー2002年発売の『robyn sings』に収録ーという「奇行」に端を発しているので、近年というわけでもないか...)

「他人を自分の中に取り込む」だけではなく、その他人(=亡霊)が自分自身になってさらに自分に再帰していくというスパイラル!そこは「成長」も「独自のヴィジョン」もなく、自分と他人を分かつ境界線も限りなく曖昧(オブスキュア)な地帯(ガレージランド?)だ。ピーター・ラフナーは「オブスキュアな音楽に対する膨大な知識」を持っていたとアントン・フィアーが云っていたが、ラフナー自身が限りなく「オブスキュア」な音楽に近づいていこうとしていたのではないか?例(霊?)をあげると、ロバート・ジョンソンのカヴァー(Me & The Devil Blues)、テレヴィジョン(Venus)のカヴァー、リチャード・ヘルのカヴァー(Blank Generation)などはそれぞれの歌い手に声を寄せてるし(しかも『マーキームーン』も『ブランク・ジェネレーション』も発売されてない1976年にカヴァーしているという...プライベート録音だけどね)、ビーフハート風の自作曲(Life Stinks)では完全にビーフハートの声だ。ディラン風の自作曲(Baudelaire)の節回しは完全にディランしている。ヴェルヴェッツの「ヘロイン」に対する反歌として「アンフェタミン」なんて曲もあったりする。(ちなみにロビン・ヒッチコックの生年は1953年でラフナーの1歳下だが、早生まれ(3月3日)なんで日本の学年でいえば同級生ということになる。まあ余談ですね...)


「俺はクリーヴランドのすべての人物のなかでピーターが一番ヒップだったと確信している。ピーターは俺に自信をもたせてくれた。」(スティーヴ・ベイターズ)

「ラフナーは自分を深く信じていたわけではないが、どんなところでも可能性をもった人々を認め、それを励ます寛大さでクリーヴランドの伝説となっている。」(リチャード・ヘル)

「ピーターと一緒に仕事をするのは最高だったよ。実際、ピーターはバンドのリハーサルの仕方を教えてくれたんだ。」(チーター・クローム)


ピーター・ラフナーの高校生時代のバンドMr.Charlieの 「Waiting for the Man」カヴァー

おなじく「FerryBoat Bill」(この曲は今はみな知ってるけど、ブートも未発表音源集もない1969年に高校生がカヴァーしてたとはおどろきだ...)


「ブライアン・ウィルソンがカリフォルニアで、ルー・リードがニューヨークでやった事をクリーヴランドでもやりたい」(ピーター・ラフナー、1974年の手記より)

こんな手記が残ってしまうのは本意ではないかもしれないけど、1975年にテレヴィジョンをクリーヴランドに招聘し、自身の参加バンド、ロケット・フロム・ザ・トゥームズで前座もやっている(この話はバズコックスがマンチェスターにピストルズを呼んで前座した話を連想させますね)。その後、リチャード・ロイドがテレヴィジョンを一時脱退した際、その後釜として候補にあがりリハーサルまでやったそうだ。トム・ヴァーレインによると「うまくいかず」却下されたとのこと。もしロイドが戻ってこなくて、ラフナーが正式メンバーとなって当初の予定通りルディ・ヴァン・ゲルダーの録音で『マーキームーン』が製作されてたらどんな「音楽」になっていたか...


※注文しているBOXセットの到着が遅延しているので、この文章の続きはそれを聴き込んでからにします。


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