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『パラレルワールド演技法』のススメ

俳優が役づくりをする際、よく「説明的に演じるべきか」「パッションで演じるべきか」という2択を迫られます。

これって一般的には「役に寄せるか」「自分に寄せるか」というカッコいい言葉で表現されたりしますが、ようするにそれは「説明的に演じるべきか」「パッションで演じるべきか」というコトだとボクは思います。

たとえば総理大臣の役を演じるとします。

俳優はそれを、
①説明的に形態模写的に演じることもできるし、
②俳優自身のパッションを使って演じることもできます。

①はドラマとかでよく見るやつですね。
総理大臣や政治家の特徴をうまいこと捉えて、ちょっとデフォルメして演じます。喋り方、動作・・・政治家は今も昔も形態模写のネタの宝庫ですよね。面白人間が多すぎます。
映画『バイス』の政治家たちがまさに形態模写で演じられてましたよね。サム・ロックウェルのブッシュ大統領、似過ぎてて大爆笑でした。

②は個性の確立した俳優やタレントが演じるやつですね。
たとえば諏訪太郎さんは総理大臣を演じても八百屋を演じても諏訪太郎さんのままですよねw。米倉涼子さんもきっと総理大臣を演じてもクラブのママを演じても同じ演技、ていうか同じ米倉涼子さんだと思いますw。

でも①にも②にも欠点はあります。
じつはどちらもなかなか本物の総理大臣には見えはしないんですよねー。
だって①の総理大臣は見た目だけで中身は空っぽだし、②の総理大臣の中身はタレントさん本人ですからね。

どちらも実物より薄っぺらというかウソくさいというか・・・いや実際の政治家もかなりウソくさいのですがw、それとはまた別種類のウソくささというか・・・ようするに「実際に総理大臣という職に就くような人生を歩んできた人間」とはちょっと違った人物に見えてしまうことが多いんです。

で、ボクはじつはこの「役に寄せるか」「自分に寄せるか」以外の第3の選択肢があるんじゃないかな?と思っているんです。

だってたとえばこの総理大臣という役・・・ただの国会議員ではなく、市長でもない、大企業のCEOとも違う日本の総理大臣という人物を上手いこと演じている俳優って、そのどちらでもない第3の演技法で演じているように見えるのですから。

ボクはこの第3の演技法を『パラレルワールド演技法』と呼んでいます(笑)

浅野忠信さんって、ホント多種多様な映画に出演してますよね。

そしてどの映画の浅野忠信を観ても「あ~浅野さんって実際もこういう人なんだろうなー」と思わせてしまう説得力があります。いつも演技に見えない瞬間があるんですよ、素に見える。

でもね、彼は映画ごとにまったく真逆の人物像を演じてたりするんですよ!

『沈黙 -サイレンス-』での彼はもう何十年もあんな官僚的な仕事をしてきた人間にしか見えなかったし、『殺し屋1』での彼は生まれつきの凶暴なマゾヒストに、『地球で最後のふたり』での彼はもう何年も毎朝自殺未遂している男そのものに、『孔雀』での彼は鬱で壊れたサラリーマンに、『地雷を踏んだらサヨウナラ』での彼は報道写真家・一ノ瀬泰造に、『マイティ・ソー』での彼は生まれながらの戦士に見えました。

でもこれってどれも「形態模写」の要素はゼロだし、「いつもの浅野忠信」の要素もゼロです。つまり役に寄せてもいないし、自分に寄せてもいないんですよ。

ボクはこれら全てを「浅野忠信の別バージョン」だと捉えています。

もし浅野忠信さんがこの世界でこの人として生まれて、この環境で生きてきたらこんな感じに育つんだろうなあという・・・彼らはパラレルワールドでの浅野忠信だ!と。

役所広司さんもそうですね。

『ShallWeDance?』でのまじめなサラリーマン役も、『ドッペルゲンガ―』での不真面目な男の役も、『ユリイカ』での繊細なバス運転手も、『孤狼の血』での悪徳警官役も、『いだてん』での嘉納治五郎も、それぞれがぜんぜん違う人格なのにどれも役所広司そのものにしか見えない説得力があります。「形態模写」でも「いつもの役所広司」でもない、まさにパラレルワールドでの役所広司です。

これって「説明的に演じる」でも「パッションで演じる」でもない、どんな方法で役づくりしているのでしょうか?

たとえばファッション・デザイナーの役を演じるとして、ほとんどの俳優がまずは気取った演技をしようとするでしょう。「形態模写」ですね。
でもそれってコントみたいで、人物像が薄っぺらく見えること甚だしいw。ともすると映画全体のリアリティまで怪しくしてしまいます。(危険危険)

ではファッション・デザイナーという存在についてもっとよく考えてみましょう。

彼/彼女はアーティストであると同時にビジネスマンでもあります。もしデザインした服が売れなければ社員達が路頭に迷うことになります。彼/彼女にはそんな責任がのしかかっていることをまず前提として体感してみましょう。

彼/彼女はデザインします。頭の中にある服のアイデアを紙に書きます。
そしてそのデザイン画を元に素材が選ばれ、布が斬られ、縫い上げられた服をモデルが上手いこと着こなしてショーで発表されるのですが・・・このどの過程でも最初のひらめきのニュアンスが消えてしまって、すべてが台無しになるような可能性や罠が待ち構えています。

なのでそうならないようにデザイナーは各工程をチェックし、各工程で発生する不具合と戦ってゆかねばなりません。そのデザインが斬新であればあるほど想定外の領域が増え、失敗する確率はどんどん上がります。

スタッフたちを焚き付け、勇気づけ、叱りつけ、彼らと一丸になって次々と襲いかかってくる罠を回避回避また回避・・・この過酷なミッションを乗り越えるためにデザイナーたちが情熱的にふるまう必要があったとしたら!?

もし自分がこの状況下のファッション・デザイナーだったらどんな風にスタッフやモデルと接するだろうか? どんな風にマスコミと接するだろうか?

それを実感と共に考えてみると、なぜ彼らが「気取ったように見える」ふるまいをするのか分かるような気が・・・してきませんか?

彼/彼女らが「何を願って」「何を恐れて」「何を努力して」いるのか

・・・それがなんとなく実感できたらこっちのものです。その役は演じられます。

もし自分がどういうわけかファッション・デザイナーとして活動しているパラレルワールドがあったとして、その自分が「何を願って」「何を恐れて」「何を努力して」いるのか・・・これを実感してそれに従って演じるのが『パラレルワールド演技法』です。

いま俳優として頑張っているみなさんも、もしあの時あの人と結婚して俳優をやめていたら・・・もし親が倒れて自分が家計を支えていかなきゃいけなくなっていたら・・・もしあのバイト先で正社員になってサラリーマンになってたら・・・様々な自分の別人生が想像できますよね。その人生はありえたものも多いじゃないですか。自分には様々な別バージョンの可能性があったんです。

そしてその別バージョンは、自分の身体と心で演じることができます。だって自分だからw。

総理大臣なら、サラリーマンなら、板前なら、警察官なら、お金持ちなら、貧乏人なら、病弱なら、2児の母なら、親を介護中の娘なら・・・それらを他人事として考えないで、パラレルワールドの自分の事だと思って考えてみてください。
他人事と考えると形態模写になってしまいます。
自分のことと考えてみてください。そのパラレルワールドでの自分自身の人生として想像してみてください。うん。その想像力こそが、俳優の一番の武器になるのかもしれません。

演技の中で別バージョンの自分の人生を生きる・・・すごく楽しいですよw。

小林でび <でびノート☆彡>

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