子ども好きと言わない話

誤解を恐れてそれでも敢えて言うと

「子ども好きなんだよね」って言う奴が嫌いという事について死ぬまで語り尽くします

自分とレッテル

調子こいて早速謝らせてもらうと、〇〇言う奴が嫌いな過激派じゃないです
出だしなので出来る限り過剰にしましたすみません

正確に言うと「子どもが好き」という言葉が嫌いな場面が多い

なぜ嫌いなのか簡単に言うと自分が小さい頃そう言われるのが凄く嫌だったから

「小さい子」とか「〇〇さん家の子」とか「10代」とか「連邦のパイロット」とか
誰しも環境や時の流れに応じて自分を表すレッテルを勝手に貼り付けられながら生きていると思います 

そのレッテルで表されるのが嫌だという話ではなく

明転
小さい子と遊ぶA
そこにAの友人のBが通りかかる
(トロイメライFI)
B「わ〜A君って小さい子に気に入られやすいネ。」
A「俺小さい子好きなんだよね(笑)(子どもに優しいので良き父になると思わせ結婚をちらつかせ交際を得る)」
B「そうなんだ〜(子どもに優しいんので円満な家庭を築けると思わせたいんだな。要観察)」
(トロイメライFO)
暗転​

こういう何気ない会話の中で

何かをアピールするために必要なレッテルとしてたまたま自分が使われた
という構図を嫌でも感じ取ってしまうのがどうしても嫌だった
これを嫌だと感じる理由は二つあって

・相手から向けられている意識の対象として自分よりもレッテルの方に重きが置かれている
・主語が話し手(「私は子どもが好き」の私)であるので、
話し手が話す(目的)ために自分(小さい子)が
消費(自分がその場限りに使い“捨てられた”感覚)されているように感じる
 その上レッテルはとてつもなく大きな力で外側から貼られたものであるので、
“強制的に消費された”という気分になって余計に寂しくなる

大学生で例えると

四年生「一年生かぁ若いねえ俺なんてもうオッサンだからさ」

俗に言うオッサンマウントである

大人が大人にマウント取る分には全然いいと思うんです
というかマウント取る分には良いんじゃないんですか
マウントは取るか取られるかだから

「小さい子が好き」という言葉は
(小さい子がその場にいる時)
AがBに放つ言葉の道具として“小さい子”が使われ
しかもそれが強制的に消費されている
所に寂しさがあるのです

自分がどう振る舞うのか

成人というレッテルに変わった今自分がどうするのか
無自覚に誰かを消費してしまわないようにどう振る舞うのか

きっと誰であれ、人対人の関係を上手く築ければ
危険性は減るのではないかと考えています

俺はお前を小さい子レッテルで扱うぞ〜

というテンションの奴が近付いてくると
「ぼくは...いつかアイツに消費されるんだ...l
て気持ちになってしまうので、人と接する時になるべくレッテル越しに会話しないようにしています

目の前に人が居てコミュケーションを取るために話しかけ
話しを聞き   考える

その相手が小さい子でも同年代でも目上の方でも
全員同じ場所から出発する

なるべくこれを心がけるようにしています

これは単に自分の小さい頃の嫌な経験だけに基づいているわけではなく
小さい子から年配の方まで幅広い世代の方と交流する事を
三年ほど行なっているのですが

小さい子でありながら、ある分野において明らかに自分より博識である人と話すタイミングが多々あり
小さい子というレッテル越しに接さなかったおかげかコミュケーションが円滑に進んだ

という成人後の経験にも基づいています

ここで注意していただきたいのは
レッテル越しに人を捉える事はコミュケーションという戦において
初動を担う重要な戦術だと思っているという事です

ただ、“レッテル越しに接するかどうか”というもう一段階別の選択肢があると考えていて
多くの場合捉えてから接するまでを
無意識に繋げているのではないかという気がしてなりません

恐らくこの二つの段階の違いを認識する事が
「レッテル貼られるのはまあしょうが無いけど、この人は俺じゃなくて俺の持ってるレッテルと会話してんな」

と感じさせない秘訣でなかろうかと思っています

レッテル越しに接するというのは序盤に述べた二点の嫌な理由のうち
一点目の原因と言ってしまっていいと思います

そしてレッテル越しに接するのを辞めてしまえば
二点目は未然に防げるという構図です

多分そうだと思う

こういう話をすると
「みんながみんなそうじゃ無い」
「学校の先生は無理だろ」
って話に繋がっていくのが世の摂理
実際自分がそう思っています

ここ小見出しが響いてくるポイントなんですけど
自分の考えを他人に強制したいわけじゃなく
「間違いだらけの人生の中自分が嫌だって思った事は少なくとも事実だし、せめて同じことを嫌だと感じる人に嫌な思いをさせないように生きてみよう」

と考え

「君が嫌だって感じた事もしかしてこれじゃない??僕もそうだったから、同じ事しないよう今こうしてるんだけど、君の考えを聞かせて」

が目的で文字にしている

学校の先生が一人一人を隈なく見るなんて事は
少なくとも自分が先生になったとしたら出来ないと思うし
だからこそ
この先生は自分を群衆の中の12番目じゃなくて一人の人間としてみてくれているな
と感じた人の事を恩師と呼ぶのだろう

自分には学校という環境でそれが出来ないと思い
学校の先生になりたいとは思わなかった

代わりに
「レッテル越しに接された〜キッツ」とか「消費された〜」
というダメージを追った“小さい子”
が自分のダメージを認識したり対策出来たりする学びの場所が
公式に提供されているものとして学校外にたくさんあればいいんじゃないか

というような事を考えながら、出来る事があればなるべくするように生きています

基本的に色んな事に対してそういう姿勢で居たい
出来ていない時は周りの監視の元反省し落ち込み寝て元気になっていこうと思います


追伸

横槍メンゴみたいなイカした名前良いですよね




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