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組織ファシリテーション試論②|組織開発は誰のものか?

ここに書いていることは試論であり私論です。特定の組織の見解ではありませんので、ご了承ください🙇

組織開発は誰のものか?

組織ファシリテーションという概念について極私的に考えていくにあたって、私が手がかりにしたいのが「組織開発は誰のものか?」という疑問でした。組織開発の主体を求める、ということの困難さが、この問いから立ち上がってきて、それを考えたい、というのがこの「試論」を書いている動機になっています。

組織開発に潜む「対立」と「変化への希求」

「組織開発」や「組織変革」と呼ばれるプロジェクト・活動体がどのように始まるのかはさまざまです。経営側の課題から始まることもあるし、現場の課題感から始まるということもあります。

むしろ、「経営」と「現場」という二元論に分けるという言説を作り上げてしまう状態こそが、組織開発の動機そのものとつながっている、かもしれません。

なぜ「組織開発とは誰のものか?」という問題を、わざわざ問題にしたいのか?と考えると、この「二元論」に象徴されるように、何かと何かの「対立」が、組織開発の根底に無意識に潜んでいる、というように思うからです。

また、潜んでいるのは「対立」だけではありません。「改革」「変革」といった「今の状態からの変化」への希求というものもありそうです。

つまり、今あるものが良いものであれ、悪いものであれ、とにかくそれを否定し、破壊(少なくとも再構築)することが望まれている状態、も組織開発の動機にはありそうということです。

この「対立」と「今の状態からの変化」が根底にあると考えると、「組織開発とは誰のものか?」という問題は、複雑な様相を呈します。特に私のように、外部からのエージェントとして関わる場合、「誰の代理人になるのか?」というポジション定義は、さらにセンシティブになります。

組織開発は「みんなのもの」なのか?

もしかすると、良い答えとは、「組織開発とはみんなのものだ」ということになるのかもしれません。しかし、しつこく考えると、本当に「組織開発はみんなのもの」なのか、ということについては、よくわかりません。少なくとも「みんなのもの」になるには、いくつかの条件や段階があるだろうと思います。

先ほど述べたように、組織開発は、「対立」「今の状態からの変化」が根底にありそうです。具体的に言うと、まず抽象的に感じられる経営的な課題(組織存続上の課題)があり、組織開発の動機はそこから始まることがほとんどです。

そのよくない状態がどこから生まれるのか、という課題のリサーチが次に始まります。経営的な課題の背後にあるのは、例えば、事業構造、業務フロー、市場変化といった構造的な課題であったり、機能しなくなってしまった組織文化であったり、経営者や従業員のマインドであったりします。

しかし、それは始まった段階ではわからないわけで、まず「組織開発」は、違和感を唱えた人の視点・動機から始まるものであり、始まった段階では、「組織開発はそれを始めた人のもの」であると言えるのではないでしょうか。

多くの場合、最初の段階では「組織開発はみんなのもの」ではなく、「誰かのもの」です。そして、理想的にプロジェクトが進んでいくと「みんなのもの」になっていく・・・という軌道が描けるかもしれません。

組織開発がいつまでも「みんなのもの」にならないこともあり得る

しかし、理想的に行かない場合もありえますし、組織開発が途中で頓挫してしまうことも大いにありえます。

組織開発の出発点にあるのは、多くは「不信感情」です。今の状態への違和感、誰かから誰かへの、あるいは相互の不信があり、誰かがそれに対して異議を唱え、その状態を良くしようとし、組織開発が始まる、ということになりそうです。

その「不信」の問題が残り続け、いつまでも組織が対立状態から抜け出せない場合、いつまでも「あいつが悪い」「あの部署が悪い」「経営が」「現場が」という言説が残り続ける以上、組織開発はいつまでも根本の課題にアプローチできず、うまくいかないでしょう。

そしてそれが大いにありえるのが、その「不信」自体が組織開発の出発点だからです。それがいつまでも言説として強く「正しさ」として残り続ける以上、組織開発はずっと「それを始めた人のもの」という状態から抜け出せないでしょう。

もしかすると、外部のエージェントは、組織開発のプロジェクトを進める際、特定の誰かの味方であり続けてはいけない、ということになりそうです。このエージェントとしての視点や立ち位置の移動、という軌道をどう描くのか、というところに、「組織ファシリテーション」の動きの一端がありそうな気がします。(つづく)

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