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セラーナ、結局なんで人気なのか

過去数回にわたってセラーナの記事を書いてきましたが今回で一区切り。
表題の通りです。我ながらセラーナへの執着心はちょっと異常なのですがこれは私に限った話ではなく国内外性別問わずそういう人がたくさんいます。
私の記事を読まれた方には『それは違うんじゃない?』『そのMODは邪道だ!』なんてことを思った方もいるかもしれませんし、中には『セラーナは嫌いだ!』という人もいるでしょう。
ただ『Skyrimにおいてセラーナは人気キャラクターである』ことに異論がある方はいないと思います。Skyrimには魅力的なキャラクターがたくさんいますがセラーナに関するMODの数は一人だけ群を抜いてますのでそこからも人気の高さが窺えますしね。
とはいえそれは元のセラーナが人気だからこそであり、じゃあなんでそんなに人気なのか?を考えていきたいと思います。

というか私の独断と偏見で語るただの感想文。

セラーナが登場する公式DLC:Dawnguardは人間と吸血鬼の戦いを描いた物語であり、吸血鬼狩りを生業にする一団『ドーンガード』の一員となるか、吸血鬼の王であるハルコン卿が率いるヴォルキハル一族へ迎え入れられるかでストーリーは進行します。とはいえ過程の差異はあれど最終的な着地点が一緒というのも面白いですし当記事の肝にもなってくる部分だと思います。
あ、ちなみに私は吸血鬼側でプレイしたことないです。なんであんなヒゲ親父に咬まれて吸血鬼にならにゃならんのだ、という理由で。セラーナに咬まれるならいざ知らず。
物語の終着は一緒ですが開始も同じでドヴァキンことプレイヤーはドーンガードの一員として吸血鬼が調査している遺跡に偵察へ趣き、そこで長い期間封印され眠りについていたセラーナと邂逅します。
目を覚ましたセラーナはプレイヤーに気づくとまず対話によるコミュニケーションを取ってきます。ここがセラーナという人物を最も表した部分なのではないかと。
通常Skyrimでは吸血鬼がプレイヤーを確認すると問答無用で襲ってきます(例外はいますけど)。吸血鬼にとって人間は捕食対象、殺すべき相手なので対話の必要がない。ところが同じく吸血鬼であるセラーナはそうではありません。プレイヤーが人間であり、あまつさえ吸血鬼殺しの一団であると知ってもあくまで対話で意思疎通を試みようとし襲ってくることはありません。その様子を見て(互いに警戒しつつも)ドヴァキンも敵対ではなく対話を選択します。
吸血鬼と吸血鬼殺し、対局の立場に位置し殺しあうのが当然の間柄にも関わらず両者は行動を共にします。
この両者による『相互理解』こそセラーナが人気キャラクターたらしめる最大の理由だと思います。正直ね、外見がどうとか美化MODとかどうでもいいんですよ、中身が大事。
プレイヤーの留守中、ドーンガードの本拠地にセラーナが訪れた際もドーンガードのリーダーである頑固オヤジのイスランに殺されることもなく招き入れられてることからもそれが分かります。普通の吸血鬼ならば当然イスランに殺されていたでしょう。
もちろんそれはセラーナに目的があるからですが、どんな相手でもまずはコミュニケーションを試みる器量があることに相違はないはず。

一方Dawnguardを通しての宿敵でありセラーナの父親でもある吸血鬼の王ハルコン卿はどうでしょうか。人間である頃から広大な土地を治める領主であることは過去の記事でも触れましたがその頃から圧政を敷く暴君であったとされており性格は尊大不遜、力を得て不老不死の吸血鬼になり、さらに磨きがかかったのか残酷非道、馬耳東風、眼中人無し。ぶっちゃけ私はハルコンが大嫌いなんですね。傲り昂り態度は横柄、忠告・人の話は一切聞かない、そのうえ自己顕示欲は人一倍で自分の主張が絶対的に正しいと信じて疑わない。ロクなやつじゃねぇ。
これをお読みになられてる方は既にDawnguardをプレイしていると思いますのでお分かりでしょうが結局この人間性が(人間じゃないけど)災いしてドーンガード・吸血鬼、いずれのルートでもドヴァキンと実の娘であるセラーナの手で葬られることになります。
少しでも人の話に耳を傾ける謙虚さがあれば自分がヴィルスールが作り出した予言に踊らされているだけのピエロだと気づき『太陽を消す』などということは諦めたでしょう。実際はそれすら気付くことなく実の娘の手にかかって死ぬわけですが。ハッキリ言ってマヌケなんですよね、ハルコンの末路って。これ大事なことだと思うんですよ、プレイヤーとセラーナがどっちの側であろうがハルコン卿は結局のところ『自分のせい』で死ぬんです。

こっから急に世相を批判するセンシティヴな話をしますので苦手な方は遠慮せず閉じていただきたいのですが





昨今、どうもハルコンが多いような気がするんですよね。
現実社会・ネットの世界、いずれにも関わらず『自分の押し付け』が散見される。SNSひとつ取ってもアレとかアレとかアレとかで日夜戦いが繰り広げられております。国内外に限らずどこでもそう。たまに遠くのほうからそれらを眺めることもあるんですが延々繰り返される水掛け論に飽きたりしないのでしょうか?私は正直ちょっと不思議に思う。
誰でも容易に自分の主張が発信でき、また可視化しやすくなったためにそういったことが起こりやすくなったのか私には判断ができないのですが明確に現代社会を蝕む病気だと考えております。
無論、私は聖人ではありませんし性格に難がありますので他人のことをとやかく言える立場ではないのですが少なくとも『そういった』ことからは極力距離を取るようにしていますし自分の発言にもある程度責任を持っているつもりではありますが稀に『そういった』ことに巻き込まれてしまうこともございます(まあせいぜい一度二度くらいですけど)。
ハルコン卿同士の戦いになればどうなるか。これは考えるまでもありませんよね。主張の押し付けでは何も解決しないのはDawnguardで描かれていますし自分の身も滅ぼしてしまいます。
セラーナとドヴァキン、両者は当初の立場は真逆でありながら互いの意見を尊重し理解を深めることでパートナー・運命共同体のような存在にまで関係を築くことができました。
skyrimが発売されたのが2011年、ベセスダが意図して制作したか分かりませんがセラーナが世界中で人気なのはハルコンだらけの世の中に辟易した人が大勢いたからなのではないか。『話が通じる』、『話ができる』セラーナは昨今を取り巻く環境に必要とされているのではないか。
立場や考え方が違う相手でも対等にコミュニケーションを取ろうとする柔軟な姿勢、それでも芯の通った自分の強い信念、高貴なお嬢様ではあるけど冗談を言い合えるユーモラス精神。
セラーナが今もなお絶大な人気を誇ってるのってこういうことなんじゃないですかね。私はそう思う。というか俺はそう。

とりあえずは一通りセラーナに関して書きたいことは書いたからこのnoteってやつしばらく使わんなあ。
まあ、またなんか書くかも。そんじゃまた。

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