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僕の原体験⑦ ~就活放棄からのバンド活動~

仕事をする意味がわからなくなった大学3回生

就職活動が本格的に始まり出すのが3回生の夏休み終わりだっただろうか。(それすらももはや覚えていない。悲)

2ヶ月振りくらいに大学へ行くと、そこには「はじめまして!」と言いたくなるような、見事なまでの変貌を遂げた同じ学部の友人たちで溢れていた。そう金太郎飴がどこで切っても同じ顔なように、金髪だったあの子も、髭もじゃもじゃだったあいつも、みんな見事なまでのリクルート仕様に変身を遂げていた。

今までずっと勝負を(勝手に)挑んできたアニキは医者になるという明確な目標があるからそれに邁進すればよいが、ここまでアニキに負けたくない一心で成長してきたボクにとって、いきなりの壁が現れた。

「俺は一体何を仕事にしていきたいんだ?」

塾講師のアルバイトをして、教育自習には行って教員免許を取得しようとはしていたけど、是が非でも先生になりたいわけでもなかった当時。今思えば見事なまでのモラトリアムだったんだろうなー。とにかく尾崎豊じゃないけど、大人になることに必死で抵抗していたのかもしれない。

みんなと似たように就職活動をして、したくもない仕事をすることに何の面白みも見い出せなかったボクは、ついに就職活動を放棄することを決めた。

一度もやらなかった就職活動

僕は初等教育学コースという、言わば先生になるためのコースに所属していた。3回生になってどこかの教授のゼミに入らなければならない。しかし僕は既に2回生後半から中学社会・高校地歴公民の免許を取得するべく進路変更をしていたので、ゼミは正直どこでもよかった。

それなら好きな音楽に関われるゼミにしようと、リトミックを専門にしている五味ゼミに入ることとなった。人気のゼミは抽選とか試験とかで選抜されるのだけれど、五味ゼミはすんなり入ることができた。笑

結果、僕は就職活動をしない選択を取った(だからと言って何か他のことでお金を稼げる状況になっているわけではない)のだが、そのことを五味先生に報告した時にこう言われたことを今でも覚えている。

長いこと(神戸大学で)教員生活してきたけど、就職活動をしない(だからと言って何かやることが決まっていない言わばニート)学生はおまえが初めてやわ。

しかし先生は僕を見捨てるわけでもなく、なんなら僕が当時活動をしていたライブに見に来てくれたこともあった。4回生になってからは研究室に入り浸り、先生にエロ動画を見れるサイトを教えてあげたり(笑)、ピアノを少し教えてもらったりコーヒーをご馳走になったり。

大学に行くことが初めて楽しくなったのは五味先生のおかげだった。

本気で活動しようとなっていったバンド、デビューを目指すも…

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大学卒業後、僕は働かせてもらっていた学習塾のフリーターとしてアルバイトを続けさせてもらいながら、バンド活動に精を出していった。自主制作でCDを作り、定期的にライブハウスで出演しながら地方からく来阪するアーティストの前座をしたり。

夕方前から塾講師、夜0時から朝5時までスタジオで練習。そして帰って朝ごはんを食べて寝て、昼に起きてまた塾に行く。そんな生活をしばらく続けていた。今思えば実家で生活していたから出来たことでもあるし、遠征ライブなどで塾を休まないといけない時も、塾長は融通を利かせてくれて応援してくれた。

そんな卒業してフリーター生活から約1年。事件は起こった。ドラムを担当していたメンバーが付き合っていた彼女を妊娠させてしまい、実家がある富山に戻って就職をするから脱退したいと申し出てきたのだ。

自分の人生は自分で切り拓くと決める

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(北陸ツアー途中で東尋坊で撮影した1枚。みんな若い!笑)

その報告を聞いた時は、正直頭の中が真っ白になった。大阪で仕事を続けながら結婚してバンドを続けることは出来ないかと何度も皆でミーティングを行った。ただ、世の中はそう甘くはない。実家を離れアメリカ村で一人暮らしをしていたそのドラムは、経済的に余裕があるわけでもない。結果、彼は抜けることになり富山へと帰っていった。

何故、他のやつのせいでボクの人生を進路変更せなあかんねん!

当時はこんな思いで胸がいっぱいだった。自分はバンドで生きていくと決意したのに、どうして他のやつのせいで断念しないといけないのか。他のドラムを探して続けるという選択肢もあったのだけど、当時ドラムは一番見つかりにくいポジションでもあった。残された3名で何度も話をするうちに、僕の心の中が少しずつ変化していっているのに気づいた。

バンドマンから鮮やかなまでの転身

僕は何故バンド活動をしたいんだろうか。

音楽が好きだから?
観客の前でパフォーマンスをすることが好きだから?
モテたいから?
売れてお金持ちになりたいから?

出てきた答えは、『僕はバンドをしたいんじゃなくて、人前で目立てれば他のことでも良いんじゃないか』ということだった。

バンドを始めたのは高校2年の文化祭の時に目立ちたかったから。楽器ができなかったボクはボーカルしかやれるポジションがなかった。その延長線でずっと大人になった僕は、大事なことを忘れていたということに気付いた。

そして何より、他の人に自分の人生を左右されたくない。この思いが一番強かったのかもしれない。そこで自分一人でもできることはなんだろうと考えるようになり、出てきた答えのひとつが「俳優」になることだった。

そう思うとやらないと気が済まないのが当時のボク(その性は残念ながら今も変わってないかもしれないが)。他の2人のメンバーに「俺は俳優になるからバンドは解散しよう。」といきなり切り出し、結果的にバンドは解散することになった。

どうやったら俳優になれるんだ?

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(当時の宣材写真!恥ずかしいが過ぎる!笑)

どうやったら俳優になれるかなんて当時のボクには全くわからず。とりあえず本屋さんで購入したオーディション雑誌に目を通し、23歳でも受けれるオーディションに応募を繰り返した。でも結果はもちろん不合格の嵐。

そんなある日またまた本屋さんで開いた雑誌に、井川遥さんが所属する芸能事務所が大阪営業所を立ち上げることになり、その1期生募集のオーディションがあった。

https://www.fmg.jp/

なんとボクはそのオーディションに合格してしまったのである。300名近い応募からの5名に選ばれたのである。奇跡が起きたとしか言いようがないそこからボクの塾講師と、俳優の卵としての二足のわらじ生活が始まったのです。

最後に

大阪ってやっぱり芸能の仕事って少なくて、オーディションは東京が圧倒的に多くて。日帰りで東京へオーディションを受けによく行きました。結果的に事務所は大阪営業所を閉めることを決意し、僕たち大阪メンバーはヤル気があるなら東京へ来いと言われ、一大決心をして東京へ向かうことになるのが24歳の春。東京生活はまた次回のお楽しみにということで。

振り返ってみても、常にもがいていた20代前半だなと。笑

今ではこんなボクが、入社希望の子たちの面接をすることもあるのですが、若いのに自分のやりたいことが明確ですごいなーと思う半面、やりたいことなんてこれから社会に出ていけば色々な刺激を受けて変わっていくぞ!と心の中では思いながら面接をしています。

さて次回はいよいよ上京編。お楽しみに!

お時間です。
ピース。

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