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僕の原体験① ~大好きなおばあちゃん~

僕のおばあちゃんは二人いてる。そりゃ誰だってそうか。
オトンのオカン(おばあちゃん)は僕が小学6年生の頃に他界した。

その後オトンのオトン(おじいちゃん)と同居するために、一家で自営業をしている会社の上に引っ越しをした。

記憶には残っているけど、何せ約30年前の記憶である。
正月にたくさんお年玉をくれたなーとか、そんな程度の記憶しか正直残っていない。

そしてもう一人のおばあちゃん(オカンのオカン)。
今日は僕が大好きな近江八幡のおばあちゃんの話をしようと思う。

近江八幡のおばあちゃん

僕の両親は2歳違いで、お見合いで結婚をしたのだけれども実は同じ小学校に通っていたという、これまた珍しいパターンの夫婦。
※オトンと、オカンの兄貴が同学年にいてるパターン。笑

通っていた小学校は今は淀屋橋odonaになっている愛日(あいじつ)小学校。俳優の内藤剛志や、元阪神タイガースの岡田彰布が通っていた小学校だ。

オカンの実家は今も博労町というところにある。
本町・堺筋本町・心斎橋・長堀橋という4つの駅の丁度ど真ん中。
良く言えば4駅からアクセスできる好立地、悪く言えば中途半端な場所で、今でもタオルや軍手などの卸を行っている。

おじいちゃんとおばあちゃんは滋賀県近江八幡市の出身で、その当時はまだ近江八幡に住んでいて、毎年夏休みと正月は何故か博労町ではなく皆で近江八幡に帰省をしていた。

当時はまだ僕から見て「ひいおばあちゃん」が生きていたので、ひいおばあちゃんに会いに行っていたようなものだった。

「大ちゃんが一番賢いやん」

僕は男3人兄弟の真ん中。次男坊。2つ上の兄と4つ下の弟に挟まれて育った。

今になって思うのは、兄貴に負けたくないという想いがめちゃくちゃ強かったんだと思う。習い事も同じ、2つ上の兄との(勝手にこっちが挑んだ)ライバル関係は、もう少し大人になるまで続くことになる。
※兄貴との関係は、また別noteにて長文掲載予定。

おばあちゃんは何かにつけていつも僕のことを誉めてくれた。きっと勉強の出来る賢い兄と比べると負けている僕のことを気遣っていたのかもしれない。

「大ちゃんが一番賢いと思ってるで」

何かのタイミングで、いつもおばあちゃんは僕にこんな言葉をかけてくれていた。今思うと、他の兄弟にも同様の言葉をかけていたのかもしれない。笑

でもその当時の僕はその優しい言葉に救われて、色々なことに頑張れていたのかもしれない。

オトンのオトンが亡くなってから会いにいく頻度を意識的に上げた

思春期の頃は、おばあちゃんよりも恋やスポーツその他諸々に精を出していたので、わざわざ会いにいくこともなく、おばあちゃんに会うのは年に2回程度だった。

そんな中、同居していたおじいちゃん(オトンのオトン)が癌で亡くなったのは2005年1月のこと。僕が24歳の時。

父方のおじいちゃん、おばあちゃんを亡くした僕に残されたのは母方のおじいちゃん、おばあちゃんだけになってしまった。

おじいちゃんの死は、思春期を過ぎて青年になった僕にとって初めての身近な人の「死」だった。初めての「死」のリアルな体感に、僕はその時、「人はいつか必ず死ぬ」ということを学んだのかもしれない。

それ以降、僕は特に用事もないのに博労町まで会いにいく回数を意識的に上げることにした。

理由は一つ。
「おばあちゃんに会いに行って誉めて欲しかった」から。

たぶん僕は人生の岐路に立たされた時や迷っている時、誰かに背中を押してもらいたかったんだと思う。
そしてそれは誰でも良いわけじゃなくて、きっとおばあちゃんに背中を押してもらいたかったということに気付く。

結婚式をホテル日航大阪でしたのはおばあちゃんのため

自分の結婚を決めたのは2011年秋のことだった。当時、結婚式の仕事をやり始めていた僕は、色々な場所も知っていたけど、どこで挙げるかというのだけはこだわりたかった。

おばあちゃんに結婚式に出席してもらいたい。

その気持ちだけで結婚式場を決めたと言っても過言ではない。

事実、沖縄で結婚式を挙げた兄の時、さらには帝国ホテルで結婚式を挙げた弟の時も、おばあちゃんは「皆に迷惑をかけてはならぬから」という、訳のわからない理由で結婚式を欠席していた。腰が曲がってきていて、歩くのが少し遅いくらいの程度でも、本人からすると迷惑をかけていると思ってしまうのだろう。

僕はどうしても大好きなおばあちゃんに出席して欲しいから、博労町から一番近い、そして施設の設備が整っている結婚式場という理由だけで、ホテル日航大阪を自分の結婚式場として決めた。

嫁さんには「場所以外はやりたいようにするから、場所だけはわがままを聞いてくれ」とお願いした。

※おじいちゃんは結婚式の数か月前、自宅で転んで足を痛め、欠席することに。「おじいちゃんが行かんのであれば私も欠席しようかな…」と弱気な発言をするおばあちゃんをなんとか説得して出席してくれることになった。

僕の晴れ姿を見て欲しかったから。
そしておばあちゃんの喜ぶ顔が見たかったから。

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結婚式の中座を、僕は大好きなおばあちゃんとすることが出来た。
※一応、オカンも一緒にしてあげた。笑

怪我から約半年で亡くなるまで

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その後、長男/次男が産まれ、何かのタイミングを作っては、おばあちゃんの喜ぶ顔が見せたくて、ひ孫を見せにいった。

そんな生活が続いていた矢先、2016年のGWくらいだろうか。
おばあちゃんが自宅で転倒して、入院することになった。

それ以降、入退院を繰り返し、自分で歩くこともままならないようになって入院してからは早かった。運動しないとボケていくし、何より体力が落ちていくんやろうな…

入院してる病院に行っても、もう僕か弟かの判別が出来なくなってきた時は、さすがに死を覚悟した。

そして2016年の12月。

少し覚悟していたけどいきなり訃報を聞くと、それはやっぱり驚きと悲しみが同時に攻めてきた。

亡くなった病院が僕の仕事場からすぐ近く、そして僕や息子たちが生まれた病院だったので、仕事を少し抜け出して近江八幡に帰る前に顔を見ることができた。

そして近江八幡までお葬式に長男と二人で行くことに。長男も4歳だったけど、なんとなく「死ぬ」ということを直感で理解しているのかという感じで。

「(滋賀まで)行くか?」と聞くと、「おおばあばに会いに行く。」と自分の意思で言ったので連れていくことに。二人での滋賀までドライブは、まぁまぁ大変やったけど。笑

最後のバイバイの時はさすがにボクも泣いてもうたけど、それまで息子の前で泣いたことないので、それを見て何かを察したのか僕の傍には寄ってきませんでした。
※家に帰って、ママに「パパ、泣いていたよ」と報告してたらしい。

そのお葬式の時に感じたことがあって。お葬式の時におばあちゃんのことが大好きだった皆が集まってるんだけど、それをおばあちゃんは見れてんのかなーって。

僕はまだ頻繁に会いに行ってたから、色々な想いも伝えることが出来ていたほうだと思うけど、感謝の気持ちを伝えれなかった人もいてるだろうし、何よりおばあちゃんも元気なうちに皆に会いたかったんちゃうかなーって。

その時の想いを胸に、新事業を始めるのはまた別noteにて。

最後に

おばあちゃんとの思い出って一緒に住んでたわけじゃないから実はそんなにないんだけど。

でも、おばあちゃんはいつでも僕の味方だったし
誰よりも誉めてくれて、応援してくれてたな
ーって。

今でも天国から、このnoteを見てくれてるかな?
そしてたまには幽霊になって出てきて、俺の耳元でささやいておくれ。

「大ちゃんはやっぱり一番やで」

ってさ。

原体験、振り返ってます。
他も気になる方は是非ご覧ください。


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