見出し画像

その空間に「林檎」は要らない

その図書館は、水の要塞の中にあった

朝からの豪雨と、工事中なのも相まって
侵入にやたらと困難を極めた

入口へ続く砂利道を、川石を飛んで渡るように入った


その図書館は、知る人ぞ知る名図書館らしく
蔵書数は日本有数。予約でしか入れず
そして本は借りて帰ることができなかった

しかしこの制約が、かえって「行きたさ」を駆り立てていた


かくして念願の聖地に到着したわけであるが
それは期待していた、大理石みたいな重厚な空間ではなくて
小学校のころに良く行った、地元の公民館によく似ていた

入り口ではスタッフのおばちゃん二人が
「動かないわねぇ」なんて、アルコールの台の前で途方に暮れている
灰色の、湿気た絨毯の匂いがした

その図書館は、二階から三階が蔵書室なのだが
コロナのため、四階から本を注文して、受け取る仕組みになっていた

矢印に導かれるまま、工事中のエレベーターに乗る
上がっている筈なのに、ゆらゆらと頼りない
何故か下がっていくようにさえ感じた


四階に着くと、そこは市役所みたいな空間だった
奥に窓口と電光掲示板、そしてパイプ椅子の列が見える

どうやら、手前のパソコンで注文を印刷して
スタッフにお願いする仕組みらしい

ここへは、柳田國男を読むためにきていた
「文章を書くなら、柳田國男は必読だ」と言われていたのである

パソコンのキーボードはカバーに覆われていて、
動かすと、ふかふかと音がする

変換結果には「邦夫」と出た。惜しい
そして検索は期待した通り、遅かった


本を待つ間、いつもの癖でパイプ椅子に座ってMacbookを開いた

時間を効率的に使いたいという、いつも通りの行動だったのだが
今日はどうにも居心地が悪い

キーボードを打鍵する度、パチパチと嫌な音がした
音自体は小さい筈なのに、周りへの申し訳なさが妙に積った

まるで「林檎」が似合わない

どうにも居た堪れなくなって、やめて周りを見渡した
雨の音に混じって、スラリ、スラリと音がする

いつの間にか辺りは、雨とページを捲る音の空間になっていた

しっとりと湿った空間を、ページを捲る音がスラリ上品に切り裂いていく
切り裂かれた空間は、切られたことも知らないように泰然としていて
やがて切り口が薄い膜になって、そっと地面に落ちて地層をつくる

なるほど、こうやって図書館ってできていくんだと思った

一層、自分のパチパチがみっともなく思えてきた
何をやっているんだろう自分は

もうやめだ
この空間に、林檎は似合わない

諦めた自分を待っていたように、電光掲示板がついた


窓口にいくと、スタッフが奥から本を運んできた
青い布地に「柳田國男全集」と堂々とした黒字で書いてある

妙な既視感。そうか

自分はこれとよく似た本を、小学校の図書室で見たんだ
たまに図書委員が前を歩くだけの、だいぶん奥の方に並んでいた本だ

その本が、今目の前にある
「林檎」を初めて買った時より、大人に近づいた気がした
赤子を抱くように受け取った

同時に、やっとこの図書館の一員になれた気がした

今から自分はこのページを捲る音の、一員に加われるのだ
本を抱えて、空いたテーブルを探す時間を、この上なく豊かに感じた

きっと自分はここに、ただ本を捲りにきたのだとさえ思った
タブレットでは絶対に味わえない
懐かしさと、好奇心が同居する空間

これが「本を読む」ということかと

ああよかった。まだ本がある世界にいれて

いつもより子供に戻って、大人な本を読む
これほど贅沢な時間が、この世にはあるのだ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?