「東大を舐めている全ての人達へ」の作者より50年前の世代の記録(1)

私は1970年3 月に小学校を卒業しました。つまり、「東大を舐めている全ての人達へ」の作者より50年前の世代に属すると思います。前述の作者と私の小学校時代におけるスペックの違いは次の点です。(1)私は京都市上京区の公立小学校(仁和小学校)に1965年4月に入学し、小学校5年の9月から、郊外ベッドタウンの団地の小学校(大山崎小学校)に引っ越しました。(2)私の親は教員で私にとって学校での世界も家庭内の世界も価値観はまったく同じでした。つまり、「表と裏」という日本社会の基本的文化を実社会に出る前に身につける機会がありませんでした。(3)親は教員という立場上、自分の子供を塾に行かせるわけにはいかなかった。つまり、当時の文部省は学校での時間外における学校教育の補完的役割をする教育機関の存在を極めて好ましからざるものとみなしており、ある意味、塾や予備校は日陰の存在であったので、教員が自分の子供をそういったところに行かせることは自分の教員としての立場に負の影響を及ぼすものであった。(4)前述の仁和小学校において、塾に通っている生徒は100人に1人くらいでした。その理由は、この小学校に通学している生徒の家庭には塾に通わせる経済力があるところは1%程度でしかなかったこと。また、教育環境として私の学年にヤクザの組長の息子がいてみんな怯えていて、その生徒の暴力沙汰に対処することに先生方のエネルギーの多くが注がれており、ともすれば教育は二の次になってしまう傾向があった。(5)以上のことを踏まえると、塾に通って成績を競うといった競争原理がほぼ不在の環境に私はいたと思います。そして、通知簿は5段階評価で理科だけが4、後の教科は1、2、あるいは3でした。ただし、小学校2年までには100冊くらい「科学ブック」(世界文化社)などを読んでいました。3年からは「次郎物語」、や子供向けに易しく書き直した世界名作全集(特に「ジェイン・エア」は強烈な印象を持ちました)などを暇があれば読んでいました。一方、小学校の授業はクラスの雰囲気自体がいやで、あまり聴いていませんでした。(6)結局、大学受験にいたるまで、私は学校の授業は生徒がうるさく集中しにくかったというのもあって、ほとんど真剣には聞いていませんでした。その結果、私にとって勉強するということは、学校で集団環境の中ですることではなく、一人で本を探してするものだという、現在の人から見ればやや特異なスタイルになりました。

それでも、一応、東大に入学したわけではあります。

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