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田中一次師年表

能楽タイムズ昭和56年10月号、梅若昭和56年11月号に田中一次師の追悼記事が掲載されていた。
いずれも充実した記事であり、特に梅若の方は佐伯実師、松山長昭師、井上基太郎師、山崎英太郎師が観梅問題でシテ方として入門しながら囃子も勤めていた頃など往時を偲ぶ内容となっており、一読を勧める。
以下にメモがわりに師の芸に関する出来事を年表形式で簡単にまとめる。
なお、人名は敬称略していることを了承されたい。

昭和3年(18歳):師は姫路に生まれ、14歳の頃から梅若の後援者だった本城亀作のもとで小鼓を始める。神戸の幸流佐竹征一郎に入門し、小鼓方としてキャリアを始める。
昭和5年(20歳):腱鞘炎で小鼓方から笛方に転向。この時の師匠は阪神間在住の黒田東明(素人だが森田操、光風によく習ったとのこと)。
昭和7年(22歳):かつて小鼓を習っていた本城が梅若のシテ方となり、その勧めで梅若家の門に入る。当時は観梅問題で梅若の能に能楽協会の囃子方は出勤できない時代。昭和7年11月に春栄の役がつき、万三郎をして「久しぶりに森田流の笛を聞いた」と感激させしむる。しばらくして翁の役がついたが、詳細がわからないため、習える人を探す。縁あって、永瀬直義に半年ほど習えることになる(この人は森田光風と同級生で森田操によく習っており、素人ながら玄人に引けを取らなかったとのこと)。
昭和8-9年(23-4歳):結婚。奥様は鼓のお弟子さんだったとのこと。
昭和15年(30歳):清経恋ノ音取、鸚鵡小町、江口平調返といった大曲を勤めるにあたって、森田光風につくことになる。当時森田光風は広島の宮島で療養中であった。九州での行き帰りや光風が大阪に行った機会を捉えて教えを受けた。稽古内容は玄人である以上、笛の譜や指使いは自ら書物で習得し、吹き方要領や息の弾み方、コミの取り方等を指摘するというもの。短期間ではあったが最奥の秘曲、九様乱曲まで習う。
戦後:梅若が観世流に復帰するにあたり、師も梅若以外の演能に呼ばれるようになる。金春惣右衛門曰く、初めて師の笛を聴いた印象は「青竹の割れ目から風が吹きだす如き、鋭く突き刺すような笛であった」とのこと。森田光風直伝の替手を駆使するため、当初東京の囃子方は戸惑ったらしい。
梅若家では四拍子全てを稽古しており、当時の内弟子は皆田中師に習った。それは現当主の実についても同様である。
昭和41年(46歳):「唐船」の笛で芸術祭奨励賞受賞。
昭和54年(69歳):芸術選奨文部大臣賞受賞。

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