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教えるのが下手な人には、人を楽しませる才能がない

数値化は困難だが、世の中には明らかに、「わかりやすい話」と「わかりにくい話」があり、「教えるのが上手い人」と「教えるのが下手な人」がいる。
「わかりやすい教材」と「わかりにくい教材」もあるだろう。

一般的にその「わかりにくさ」の理由とは、ふたつに分類されている。

ひとつは、そもそもの筋道が立っていない。
ふたつめは、相手のレベルに話を合わせられていない。

ひとつめはさておくとして、相手のレベルに話を合わせられないというのは、よく耳にする分析だ。

高いレベルにいると、低いレベルの景色が見えない。
頭のいい人は苦も無く飛び越えられた程度のハードルだったので、それを段差とすら意識しておらず、頭のよくない人が躓いている理由を把握できない。

「教えるのが下手な人」というバッドステータスであっても、こう書けばなんとなく聞こえがいい。

しかし、だ。
彼らには、美点のネガではなく、純粋な欠陥が存在する。


自分語りが大好き

「話がわかりづらい」以外に、彼らは特徴を持っている。

自分の興味関心について、とてもよく話す。
卑俗な例えを用いるのなら、「隙あらば自分語り」だとか、「オタク特有の早口」とかいうやつだ。

(脱線するが、「話が下手かつ興味も持たれていないことを話し続ける」人物に限って「オタク特有の早口」といったような嘲笑を多用するので、これらの言葉が好きではない)

何故両者が相関するのだろうか。

「相手に必要な情報を与える」というのと、「相手の興味のないことを話し続けない」というのには、実のところ同じ適正が必要だ。
目の前の人間の立場や機嫌を想像し、表情や反応を見て、興味を持っているかどうか、理解しているかどうか、手ごたえを確かめながらコミュニケーションを進行する。

話がわかりやすい人も、楽しませるのが得意な人も、やっていることは同じだ。

教えるのが下手な人のパターン

つまらない自分語りばかりしている人がものを教える立場に立ったとき、どうなるのかの一例を経験から出そう。

以前、友人たちと「通話しながらネットで麻雀をやろう」という話になったことがあった。確か、雀魂がリリースされてすぐの頃だ。
二名が経験者で、俺を含めた残りは全くルールのわからないド素人だった。

経験者のうちの一名が、「自分が教えてあげるから心配しなくていいよ」と言った。
俺は入門向けの解説動画を視聴してから当日を迎えた。

さて、俺以外のメンバーは経験者が教えてくれるというので、気負った様子はなかった。しかし嫌な予感がしていたので、グループチャットに解説動画のリンクを貼り付けた。
(麻雀は四人参加のゲームだが、我々は合計四人以上いて、卓につく人間を入れ替えながらやっていた)

「自分が教えてあげるよ」と頼もしそうにしていた人物は、「いらないいらない。教えるから」と煙たそうにしていた。

俺が参考にさせてもらった麻雀の解説動画は、非の打ち所がないほどよくできていた。
「麻雀は条件を満たした牌の組み合わせを一番最初に揃えられた人が勝利するゲームです」
「順番が回ってくるたびに手元に来た牌と手持ちにあった牌をひとつずつ入れ替えます」

一方、彼の教え方の拙さは極まっていた。

「同じ牌か一、二、三、とか三、四、五って順番に三つ揃うとメンツになる」
「鳴くと人が切った牌でメンツを揃えられるんだよ。鳴きっていうのはポンとかチーとかのことね」

いきなりこのようなことを言い始めた。
もちろん、「メンツ」という単位がどうして存在するのか、「鳴き=ポンやチー」なのはいいが、ポンとチー自体がなんなのか、そもそも麻雀は何をするゲームなのか、まだ明らかにしていない。

当然、これでルールなど把握できるはずもない。
彼に教わっている人間はずっと釈然としない様子で、全く面白くなさそうだった。

彼は段々「なんで俺の言っていることが理解できないんだ」という態度になっていった。

「教えてあげるから心配しなくていいよ」という言葉を俺が無視したのは、この結果が目に見えていたからだ。

普段の会話から、彼は話が分かりづらい人物に該当するのがわかっていた。そしてご多分に漏れず、自分の感想や興味関心について、空気が白けているのに気づかず話したいように饒舌に話すタイプでもある。
よく人の話を遮り、自分の興味関心へ話題を逸らしていた。
みんなで麻雀をやるという流れになったのも、彼が強く訴えたからだ。


ただ話していれば興味を持ってもらえるという錯覚

彼が麻雀のルールを指南するのに長けていないのは、彼の頭がいいからでも、彼の麻雀の腕が優れているからでもない。

それらとは全く別の問題だ。
何故なら、麻雀が下手でその上麻雀を教えるのも下手な人間が存在しているからだ。

それを「頭がいいから、馬鹿な人の気持ちがわからないだけなんだ」とするのは間違いだ。そこにある事実は、「教えるのが下手」というただそれだけだ。

わかりにくい話の普遍的な共通項に、文脈の共有不足が挙げられる。

具体的な例だと、「麻雀は役を作ると勝利できるゲームであり、メンツは役を作るためのパーツになる」ということを説明せずに、メンツをいかにして揃えるかという話を一生懸命している、というようなものだ。

抽象的な例では、「因数分解なんて社会に出て使い道があるんですか?」というやつだ。

ここでは、因数分解の知識が子どもたちに本当に必要なのかどうか、日本の教育についてどうこう言いたいわけではない。

そうではない。
因数分解の知識が本当に必要なのかどうかはともかく、用途もわからない物事をひたすら学ばされることに対して、身が入るのかどうかということだ。

最もはっきりした用途は「テストで点が取れる」ことだろうが、多くの場合はそれに納得した人間は勉強するし、納得しなければ勉強しない。

これが文脈の共有だ。
「話を聞く動機を持たせる」と言い換えてもいい。

メンツが役のパーツになるということを知っていて、ようやく「どうやってメンツを揃えればいいか」ということを検討できるし、テストで点を取りたいという動機を持つことで初めて勉学に前のめりになれる。

さて、これを話のわかりにくさから、話のつまらなさへ置き換えてみよう。

話がつまらない人は、「私が話すことには価値があるに違いない」という文脈を前提条件もなしに勝手にでっちあげてしまっている。

もちろん、それは相手に共有されていない。
そして右から左へ素通りするだけの言葉が中空を漂う。

推しのアイドルやキャラクターの話がしたいのなら、そこへの興味と結び付けられる導線を用意しなければならない。もちろん、相手がご同輩であれば文脈は共有されているのでその限りではないが。
(念のため補足しておくが、「推しを語る」というのはその実、推しという活動をしている自分を語っているのと同義なので自分語りに該当する)

教えるのが下手な人が「なんで俺の言っていることがわからないんだ」という態度になってしまうのは、当人の中には完全無欠の文脈が存在しているからだ。
役のことを教えてもいないのにメンツを作る手管について熱く語るのと、聞かれてもいないのに延々と主義主張や趣味趣向について話し続けるのはとても似ている。

件の彼とは別人だが、俺も「前に言ったよね?」と言われたことがある。
こいつは馬鹿なのかと思った。

一度言っただけのことを覚えていて当然としているのも愚かだが、そもそも話を聞いてもらえているのが当然だと思っているのはもっと愚かだ。
(聞いていて忘れたのか、そもそも聞いていなかったのか、もちろん俺にはわからない)

仕事や責任の発生する機会であれば、話は別だ。「話がつまらないから聞いてませんでした」では通らない。
ただしこれは、「教えてあげるから」と誘われて始めただけのテレビゲームの話だ。

また、言うまでもないことだが、俺はその人物の持論や自分語りを普段聞き流していた。

これを書いていて思ったのだが、彼らの営為を「教える」と表現するのはあまり的を得ていない気がする。
彼らは、教えているというよりも、「語っている」という方が実情に近い。

件の彼についても、麻雀を教えているというよりも、麻雀を語っているという方がしっくり来る。

彼らが気分を害するのは、相手の物覚えの悪さに対してではなく、「なんでちゃんと私の話を聞いてないの」ということなのかもしれない。
確かに、ただ単に覚えの悪い人間を忌避しているだけなのなら、教えたがりにはならないだろう。

彼らは教えたがりであることが多い。

面白い自分語り

くどくどと言っているように、「話がつまらない」というのは、相手からのフィードバックを反映していないということだ。

それの何が問題なのか、よく考えればまだ論じていない。
まず思いつくのは、誰もが皆、自分の話を聞いてほしがっていることだろう。
自分のことを話したいのに、時間が「他者のくだらない話を聞く」という無駄に割かれてしまうのは耐え難い。だから延々と自分語りを聞くのは面白くない。

そして、これは「つまらない人」の典型的なパターンだ。
何故自分語りをするのか? 自分の話を聞いてほしいからだ。
何故人からの反応に気を配らないのか? 自分が至上で、他者の話になど価値がないからだ。

だが、それほど人に話を聞いてほしいという動機の強くない人間もいる。
彼らは、聞き手に回ることそのものにはさほど苦痛を覚えない。

では、彼らは聖人のように、優しく相槌を打ちながら自分語りをずっと傾聴してくれているのだろうか。

大きな間違いだ。
自分語りには面白い自分語りとつまらない自分語りがある。

そもそも、こう思った方もいるのではないだろうか。
「話がうまくて、自分語りの多い人だっているでしょう」と。

その通り。ただ、自分語りの多い人間同士を比較しても、ものを教える適正のある人とない人の差は歴然としている。

「自分語り」という言葉をひとたび用いると、どうしてもそのネガティブな印象から、「つまらなさ」と直結させてしまう。

しかし、面白い自分語りは実在している。
我々は「面白い自分語り」を「自分語り」だとは呼ばないのだ。成功した暴力が革命として取り扱われ、失敗した暴力がそのまま暴力だと呼ばれているように。

つまらない、と感じられた場合にだけ、それは「自分語り」という烙印を押される。

これも結局、わかりやすさや教え方の巧拙に繋がる。
「面白い自分語り」とは、ただの自分語りでしかない題材を、できるだけ興味を持って聞いてもらえるように工夫を凝らして、初めて達成される。

その傍ら、話したいことを話したいように話すだけで、話者の感情の発散に終始していれば、「つまらない」と評価される。

「自分語りをしたいという動機が薄い」というのは、その分話を聞き入れる余地のあるということだが、それはあくまで「面白い話だったら聞いてもいい」というに過ぎない。
「聞き上手」とされる人々は、その話がつまらなければ実際のところ半分以上は聞き流して明日の夕飯に思いを馳せているか、内心でそのつまらなさをこき下ろしている。

「本当は私の話を聞いてほしいのに」というフラストレーションが燻っていない人間さえつまらないと感じさせてしまう原因の一端は、相手にボールを投げないことだ。
「つまらない話」は、聞き手にボールをただの一度も投げない。

なるほど。話し手に回っているときも、適度に聞き手にも話させて、自尊心を満たさないといけないんですね。相手が話したがっていなさそうな人でも、やっぱり話を聞いてもらいたいものなんですね。
もちろんそれもある。だが、それだけではない。

話はもっと単純だ。
見てるだけ、聞いてるだけ、というのはただただ退屈だということだ。


話が面白い=演説の才能がある

生徒を指名する授業とただ教科書を読み上げる授業、聴衆に呼びかける演説とただ計画やデータを読み上げるだけのスピーチの違いだ。
「この場で今、自分も当事者である」と意識させられる機会の多寡で、聞き手の集中力や没入感は決定づけられる。

同じ文脈を語っていたとしてもこの差はとてつもなく大きいだろうが、これを意識している人間は、そもそも話題選びの時点で実力差が生じていると思われる。
温度差に敏感な人であれば、「この話は聞いていられないだろうな」と判断した時点で、つまらない話は切り捨てていくからだ。
なので印象以上に、これができる人間とできない人間の差は大きい。

逆に、面白さを究極に追求できる人間はどんなものかというと、その典型例はヒトラーだ。
ヒトラーは演説に長けた人物として知られる。その能力をもって彼は選挙に当選し、市民たちを動かした。

演説の能力とは、そのまま「話のわかりやすさ」、そして「話の面白さ」に直結するといっていい。
多くの人間に理解できる言葉を選び、興味を失わないように話す、これこそが名演説の条件だからだ。
ものを伝える能力、人との温度差を感じ取り、目線をすり合わせる能力を持った、理想的な完璧超人みたいな人物像を体現しているのが、あのヒトラーなのだ。

演説に秀でた人間は危険だ。
彼らは「人々の興味を感じ取り、そのことについて話す」名手でもあるが、最もその才能の光るのは「興味を持たせたい物事に興味を持たせる」ときだ。

つまらない人は、他人が興味を持っていないことを、興味を持たれていないと気付けず闇雲に話す。
面白い人は、他人が興味を持っていないことに気づきながら、興味を持たせるために工夫を凝らしている。

「初心者まで目線を下げられるかどうか」は、あくまでここから派生した一本の枝だ。
反応を探りながらコミュニケーションを進行する、というのを意識しているのなら、後からそれはついてくる。

根本的な問題は、レベルが高いことではない。
人を楽しませる能力が不足していることだ。


補足

まるで人をこき下ろすために生まれたような記事になってしまった感があるので、弁明をしておこう。

まず、話の面白さやうまさやわかりやすさというのは極めて特殊な技能なので、そんなものができて当然ではないということだ。
この記事はまるでつまらないやつは◯ねとでも言っているような語り口になっているが、文字数をできるだけ切り詰めようとしたらこのようになってしまった。

第一、それでは俺が◯んでしまう。

それともうひとつ。
長くなるので簡潔に済ませるが、結局学習というのは講師やメンターよりも学習者の資質の方がおそらく重要だ。
天才は講師がいかに口下手であっても勝手に上達していく。むしろそのような人物を天才と呼ぶ。

それに極論を言えば、ゴリラに空を飛ばせるのは不可能だ。
様々な事情により、資質に問題を抱えてしまっている方々というのは確かに存在する。

露悪的な表現になるが、そのような方々に学習を強いるのと、ゴリラに空を飛ばせようとするのの何が違うのか。
資質に恵まれなかった人に進歩を強いるのも、そのような人を進歩させられなかった人間を無能だと断じるのも、部外者の無責任だ。

ものを教えるのはひどく難しい。

「的確な指導さえ与えられれば、誰もがひとかどの人物に必ずなれる」というのは空想だ。
仮にそれが空想でなかったとしても、的確な指導というのを全人口分用意するのはおそらく不可能だ。

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