見出し画像

人間関係の維持のためには、勉強の継続と同じような工夫が必要という話

「人と人とが友達になるために一番大切なのは何か」とほとんどの人が一度は考えたことがあるだろう。
縁というのは不思議だ。何故、私とこの人は、あるいはあの人とあの人は仲がいいのか。そこに繋がりが保たれているのか。
あるいは何故、私は誰との繋がりも持てないのか。

世界中に膨大な人口がいる中で、何故か私はこの人と仲がいい。
ロマンチックに捉えれば、これは運命的だ。「世界で最も魅力的な人たちと、自然に引き合った」のような説明をされたりだってする。例えば自分の所属する集団を「濃いメンツ」と称するように。

単刀直入に「縁が何故生まれるのか」の答えを言えば、それは偶然だ。

我々の持っている縁とは、パーソナルな情報をつぶさに照合して、理論上最も都合のいい組み合わせを導いたような最適解ではない。
AIはTwitterの「いいね」の履歴を調べることで、知人友人よりも、家族よりも遥かに、その人の人物像を鋭く洞察できると言われている。
これを応用し、昇華すれば、おそらく人間同士の最適のマッチングというのが可能だ。ビッグファイブなどの性格類型なども駆使して、「好感を持ちやすい人間」を技術が仲介してくれるだろう。

しかし、我々の友人たちは決してそのような存在ではない。
現実の人間関係では、よく考えればなんで自分はこんな人間と付き合っているのだろう、と思う方が多い。
けなしているわけではなく、あくまで相性の話だ。
これは大いに個人的な偏りも含んではいるだろうが、俺は友人たちと趣味趣向も主義主張もほとんど一致しない。

「理想の友人像」とやらが趣味趣向や主義主張に「のみ」あるのかと言えば大きな疑問が残るが、一般的には欲を言うならそれらを求めたいところだ。

しかし友人関係で第一に求められるのがそれらであるというには、実態としてはあまりにも達成されていなさ過ぎる。だからこそ我々はいつも「趣味の合う友達が欲しい」と口にしている。

おかしな話だ。友人とは趣味趣向を共通させるものだ、という先入観を抱きながらも、「趣味の合わない友達」が既に存在している矛盾。

何が人と人とを友人たらしめるのか。その最も強力な要因は接触の頻度だ。
中学、高校、大学と、あれだけ毎日顔を突き合わせて話していた相手とも、環境が変わって散り散りになると嘘みたいに音沙汰がなくなる、なんていうのはごくありふれた話だ。

このことから何が言えるか。友人関係の成立において、趣味趣向や主義主張の共通、相性などは二の次だ。第一の要因は、顔を合わせる機会と場の有無だ。
高校時代にクラスメイトと友人でいたのは、校舎や学業という毎日の場と機会があったからだ。だから卒業すると、クラスメイトたちの多くとは連絡を取らなくなる。取っていたとしても、優先度は明らかに低下する。

もちろんその機会や場というのは学校だけだとは限らず、もっと不定形な場合もある。夜寝る前にLINEのやり取りを交わすという日課だったり、SNS上だったり、ビデオゲームのマルチプレイだったり、麻雀だったり、様々だろう。
しかし、機会と場がなければ人間関係は維持されない。「また飲みに行こうな」が達成される確率はそれほどではないし、達成されたとしても、せいぜい年に数回会うくらいだ。

人間関係を維持するためには、先に述べたような日課を作ることだったり、こまめに連絡を取ることだったり、それなりの注意を払わなければならない。

ふと、これは「努力」に似ているなと気づいた。まあ、人間関係を維持するための「努力」なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、そういうことではない。

俺はずっとひとつの物事に熱中するような人間ではなく、様々な興味関心を梯子しているような人間だ。
何も長続きしない。そのため、習熟したスキルや高い水準でまとまった知識というのをほとんど持っていない。
つまり、怠惰で飽き性だ。

ほとんどの人間がほとんどの物事に対してこのような態度だろう。だからスキルや知識には希少性がある。その希少性の価値は、難しさや門口の狭さだけに由来しない。
我々は問題解決をかなり苦手としているが、「継続」もそれと同じか、ひょっとするとそれ以上に不得手だ。

だから巷には、習慣化の重要性が囁かれ、習慣化のためのライフハックが生まれては流通する。いかにして物事を継続するか、それは、ただ生きているだけでは、胸を張って「生きている」と宣言できなくなってしまった現代人にとって、どうしても解決したい課題だ。

努力と人間関係の維持が似ていると思ったのは、ここだ。
例えば継続のライフハックは、「いかに毎日課題に着手するか」に焦点を当て、その方法論を提示する。

これはまるきり人間関係の維持のための努力と同じだ。

どちらも、放っておけばなくなってしまうのが前提に置かれている。

やる気というのは待っていても湧いてこない。今日やらなければ、昨日やったことすら忘れてしまう。時間を有効に活用しなければ、習熟する前に人生の終わりが来てしまう。
同様に人間関係は、機会と場がなければ維持されない。
努力に必要な「課題に着手する」工夫と、人間関係の維持のための「機会と場」の考え方はこんなにも似通っている。

縁というのは奇跡のようだ。事実、奇跡である一面もあるだろう。
しかし縁を維持する、という話を掘り下げると、現実性を帯びてくる。そこから先は「努力によって維持する」か、「偶然に全てを委ねて維持されるのも失うのもよしと考える」かのふたつだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?