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AIに奪われない役割=推し、インフルエンサー、教祖

CHATGPT、NovelAI、数々のAIにまつわるサービスが台頭した。
AIがちょっとした雑談相手や相談相手になってくれる光景や、AIが指示通りに理想のイラストを受注生産してくれる光景、かねてから我々が夢見ていたそれがついに実現された。

AIがクリエイティブを担う

ただし我々は、AIのいる社会に対して親しみや憧憬だけを覚えてきたわけではない。
「人類が殲滅対象として認識される」というのは荒唐無稽だったとしても、人間の存在価値が脅かされかねないと畏怖するのも、親しみや憧れと常に並行していた。

AIは既に様々な分野で人間を圧倒した。膨大な情報の処理や計算、ルールや結果の明快な将棋や囲碁やチェスなどだ。
そしてその「驚異」はさらに次の段階へと進んだ。
問題点はあるものの、話し相手、相談相手として流暢にそれらしく言葉を操り、問題解決への糸口を披露し、「絵」の生成にまで至った。

クリエイティブが人間の聖域だとする常識は、衰退しつつある。
既に以前から、「AIと人間の書いた譜面の楽曲を聞き分けることができなかった」といった話はあった。所詮芸術と呼ばれるものも、少なくともある程度「パターン」によって成り立たせることができるというのは、いまや常識といえば常識だ。

その場その場でまだAIには解読できない曖昧なパターンの判断が連続し、「身体」が必要な領域、それが現状AIやロボットに代替できない人間の聖域だろう。しかしその筆頭は、一般的には低賃金労働だ。
ロボットがどれだけ低コストになったとしても人間の労働力はそれよりもさらに安く買い叩かれるという悲劇的な見立てもある。

「人工知能が働いて人間はぐーたらできるっていうのを私たちは求めてたのに、人工知能が芸術に精を出して人間があくせく働かされてるのが現状」などと皮肉っている人がいた。
人間にしかできない仕事というのはキラキラした領域には存在せず、むしろキラキラした領域ほどAIに適正があり、当初の想定とは正反対に、誰もやりたくない作業こそ人間が処理しなければならない。

「知的労働がAIに席巻される」という失望の予測が、真実味を帯びてきた。

AIの成果が人間を上回ったとしてもAIは人間に勝てない

だが、俺はそうなるとは一片たりとも思えない。
人々が想定する「知的労働でAIが人間より上位に立つ」状況というのを、もっと具体的に表現するなら、「人間よりも優れた成果や作品をAIが提供するようになる」というあたりだろうか。

しかし考えてもみてほしい。我々は既に、他者の実力や作品の出来不出来を正確に判断しているだろうか?
我々の価値判断は印象に操作されている。「あの人の言うことだから多分正しい」「あの人の言うことだから聞くに値しない」といったように、印象に基づいて価値判断のコストを省略している。

「物事は公正に正確な判断を受ける」というのが、そもそも幻想なのだ。我々は、印象や信用という曖昧な基準に判断を委ねている。誰の作品が見られるか、どういった人物に仕事が振られるか。
それは、「既に高い評価を得ている人間」に他ならない。

では、人間よりも成果や品質に一定、一律の保証のあるであろうAIの方が、信用度も高いのではないか? それも全否定はできない。
しかし、例えばだが、どれだけAIが能力面で人間を凌駕しようとも、スティーブ・ジョブズやジョン・レノンや手塚治虫がそのポジションを失うことは絶対にありえない。

それは、彼らの生み出す成果が素晴らしいからではない。仮にAIが全く同じレベルのことを出来たとしても、人々は彼らを称える。
「物語」ありきだからだ。ジョブズやジョンレノンの名言や半生がありがたがられていることから、それは明らかだ。
彼らのバックボーンや苦労の果ての成功などを聞いて、しみじみと感動に浸り、彼らと同化できたという陶酔を得られるコンテンツ、自分が優れた人物のフォロワーであるという自負、彼らに寄せられる評価はそれ込みだ。

AIがどれだけ精巧な仕事をやってのけようが、人間はそこへ大した興味を持たない。作品を提供するAIは、爽健美茶を排出する自動販売機と大差ない。自販機に人間が憧れるはずもない。便利な機械だと見なして当然のようにその恩恵を享受するだけだ。

ましてや、将棋やチェスや囲碁と違って、脚本や音楽や漫画やイラストに明確な優劣や点数はつけられない。この曖昧さのおかげで、仮にAIが人間のポテンシャルを上回っていたとしても、それに知らんぷりを続けることができる。

淘汰はそもそも人間同士で起こっている

AIのせいで肩身の狭くなるクリエイティブの領域の人、というのもいるにはいるだろう。
ただしそれは、一般的に「クリエイター」という文字列から想起されるような一線級の人々ではない。先程も述べたように、彼らのポジションが脅かされることはない。

AIの台頭が驚異となりえるのは、その人の生み出すコンテンツにしか価値がないと見なされ、「中の人」に対する注意を払われない人々だ。例を上げるなら、こういったケースだろう。

とあるYOUTUBERがいる。彼は特定の分野の解説動画を制作して、一定の再生数を毎回確保できている。しかし、彼が度々放送する雑談のライブ配信には、数人しか人が集まらない。

少々極端だが、これが「コンテンツにしか価値を見出されていない」状況のひとつだ。YOUTUBEにはただ食事をかき込んで駄弁っているだけの動画でも視聴される人もいる。「中の人」に価値がある場合の極端な例だ。
もちろん、両者は明確に区別できるわけではないが。

しかし、結局のところ趨勢としてAIの影響は軽微なのではないかな、と思う。
ポジションを持つ人と持たない人の二極化などというのはとっくの昔から発生している現象だからだ。これについては、AIよりも情報化社会が競争を加熱させた原因の方が遥かに重大だろう。

AIによる代替可能性。よく考えてみれば、今更だという気もする。
そもそも人間の大部分は代替可能なのではなかったか? AI以前に、人間の存在は人間によって代替可能だ。
既に俺たちは様々な商品、サービス、作品を、それらに携わった人々を特段の敬意を払うこともなく使い潰している。一方で、名だたる面々を惜しみなく称えている。
称えることによって、実存や承認や所属の手応えを得る。
これからAIに踏みにじられると身構えているもののほとんどは、既に人間によって踏みにじられてきたか、あるいは人間を踏みにじってきたものらだ。

この不均衡は、AIが進歩しようとしまいと変わらないだろう。
仮にAIが人間味(のあるそぶりだけでもいい)や身体を獲得し、一個の存在として、AIに対して人間と同じように親しみを覚えるようになってしまった場合、そのときこそ人間の立場は本当に失われてしまうかも知れない。

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