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チン騎士嫌いの女性は「チン騎士2.0」が現れないことに怒っている

チン騎士叩きとは、チン騎士的行動だ。

女性の顔色を窺った行動様式を持つ男性を軽蔑を込めて、チン騎士、あるいはフェミ騎士と呼ぶ。
女性はチン騎士を嫌う。
彼女たちによれば、彼らから透けて見える下心が醜いから、あるいは、それは優しさではなく弱さだから、とのことだ。

そしてチン騎士は女性はさることながら、男性からも袋叩きに遭い、晒し者となっている。
その光景に薄ら寒さを感じる。理由はふたつ、男女それぞれにある。

女性はチン騎士を蔑むが、女性に対して冷淡な男性への批判も惜しみない。

彼女たち、あるいはフェミニストたちの言い分としては、「女性を性欲の対象ではなく、一人の人間として取り扱って欲しい」といったものだろう。搾取するために接近したりするのは対等な人間関係ではないし、見捨てたり唾を吐いたりするのは倫理的に許されることではない。
まあ、言葉の上では妥当な要求ではある。
しかし、これは繊細にオブラートに包まれた表現方法だ。

あなたには、チン騎士とされる人々が非難を浴びているのは、彼らが「対人関係で義理を通さなかったから」に見えるだろうか?
これは公開処刑が起こるときに頻出する詭弁だ。
「秩序を保つために罰を与えている」のではない。罰そのものが目的化している。罰そのものに快楽がある。

罰というのは、騎士的行動を取る男性を指さして「キモい」と集団で嘲笑することだ。ここに「秩序を保つため」などという使命感は一切宿っていない。使命というには随分楽しそうに遂行されている。

男性たちは「チン騎士」だとみなされ、チン騎士に与えられる罰に恐怖し、いくつかの逃げ道を選ぶこととなった。
その内のひとつは「女性に優しくしない」というものだ。中には、「ミソジニー」「ミソジニスト」と揶揄されるような、ことさら攻撃的になっている男性も存在する。

もうひとつは、「チン騎士を叩く側に回る」というものだ。
女の顔色を窺いながらチン騎士を叩く。

女の顔色を窺いながらチン騎士を叩いている男のもとへ女が集っている様子というのは、そこら中にありふれている。
その光景からは、女の要求と男の願望の両方が見えてくる。

女性がチン騎士を嫌う理由についての説明は「なんかキモい」「なんか弱そう」で事足りる。長々とした建前は聞き流していい。というより、そんなことをわざわざ改めて言うまでもなく誰もが知っている。
男性は卑屈な笑みを浮かべて「優しさ」とやらを提示するよりも、女性が害虫だと思っているものを駆除して権威を誇示するほうが効果的だと気づいた。かつての同胞を生贄に捧げて、女性との関係や女性からの承認を得ようとする。

ここには共犯関係がある。

「チン騎士に消えてほしい」と言っている女性は嘘をついている。
彼女らにはチン騎士が必要だ。「チン騎士1.0」の駆除を担ってくれる、油汚れがすっきりと落ちていくような爽快感を味わわせてくれる「チン騎士2.0」が。

「性欲由来の優しさなんていらない」と言いながらそれをアテにし、助けられ、快楽を得ている。別にチン騎士1.0を叩いて欲しいという願望に限った話ではない。様々な場面で、不快な男性を遠ざけながら、結局のところ彼女たちは「早く助けろ」と叫んでいるし、彼女たちはチン騎士もミソジニーも嫌いだ。

チン騎士みたいに不快ではない。でもミソジニストのように私たちに冷たくない都合のいい存在。それがチン騎士2.0だ。

しかし、彼女たちを「結局その優しさが身体目当てであることに気づいていない」とあざ笑うのは的外れだ。何故なら、「性欲由来の優しさはいらない」というのは、ほとんどの場合「キモい男に◯んで欲しい」という本音を隠すための建前だからだ。
より正確には、「キモい男が◯んでいるところを見たい」といったところだろうか。

そんな女性たちの要望に応えるべく、チン騎士2.0を目指す男性は多発している。
別にチン騎士1.0を無害だとも善人だとも言わない。思いもしない。しかし少なくとも表面上、誰かの助けになろうと働きかけた者が、ただ他者を嬲ろうとする者らと、リンチの快感で股を弄っている者ら、どの角度からどのように見ても美点のない奴らよりも格下のような扱いになっているのはあまりにも理不尽だ。

現代社会は「暴力反対」というキャッチフレーズが好きだ。
にも関わらず暴力が大好きだ。いくら目標がアップデートされても価値観は太古からアップデートされなかった。
そこでの適応的な行動とは、いかに道徳的であるかのようなそぶりを見せながら、水面下で攻撃を行うか、というものだ。
我々は動物的な暴力衝動を発散するための言い訳を探し求めている。



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