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著作300冊以上の人気作家が分析!読者の反応から見えてきた、求められる“面白さ” 森博嗣『面白いとは何か? 面白く生きるには?』本文試し読み

読んでいる漫画が「面白い」
好きな芸人のネタが「面白い」

「面白い」の使い方は色々あるけれど、そもそも「面白い」って…?
そんな疑問に寄り添ってくれる書籍が2019/9/10に発売になりました!

今回は『面白いとは何か? 面白く生きるには?』(著:森博嗣)の試し読みを公開します!

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(書影はAmazon Kindleにリンクしています)

はじめに


「面白い」はよく使う言葉だ

「面白い」という形容は、いろいろな意味で使われている。毎日、誰でも何度もこの言葉を口にするのではないだろうか。人にいう場合は、褒めたり、あるいは共感を求めるときに、また自分一人でも、ふと呟きたくなるときに、この言葉が出る。もちろん、それ以外に、皮肉を込めていうときもあれば、喧嘩を買うような場合の台詞でも使われる。
 だが、基本的に「面白い」は、笑顔を連想させる状況を示している。楽しいもの、好ましいもの、自分が欲しかったもの、満足できるものに対する感想である。
 大きく分けると、笑えるような「面白さ」と、笑うわけではないが興味をそそられる「面白さ」があるように思われる。きっちりと分かれてはいないし、両方の要素を持っているものも沢山あるだろう。

「可笑しい」という意味で使う場合

 まず、見ただけ、聞いただけで笑えるようなものを、「面白い」という場合、これは、「可笑しい」と同じ意味だ。
 たとえば、漫才や落語などは、笑うことを楽しみにして観るものだろう。笑わせてくれる人に対しても、「面白い人だ」という。逆に、さほど笑えなかった場合は、「面白くなかった」という。漫才や落語に対して、「笑えないけれど、面白い」という評価はあまりない。あくまでも、可笑しさが、面白さとイコールなのだ。
 人が笑うのは、泣いたり、怒ったりするよりも良い状態であることは、誰もが知っている。笑っているから良い状態なのではなく、良い状態だから自然に笑う。そういうふうに人間ができている。「笑う門には福来る」という諺があるとおり、幸せを連想させる感情でもある。

「夢中になれる」という意味で使う場合

「面白い」には、それ以外の意味もある。たとえば、なにかに嵌っている状態のとき、人はそれを「面白い」と感じる。「嵌る」というのは、最近使われるようになった形容だが、「夢中になる」という意味だ。夢中とは、興味が集中する状態であり、ある対象に「興味を持った」ときに、それを、「面白い」と形容することになる。
 この「面白い」は、ギャグで大笑いする「可笑しい」とは、明らかに違う。笑顔になることはあるかもしれないが、どちらかというと、知的好奇心を掻き立てられるような場合だ。たとえば、数学の問題やパズルなど、一見難しそうな問題に直面したときにも、「面白い」という人たちがいる。顔は笑っていないかもしれない。真剣に考えようとして、眉を顰めているかもしれない。そんな場合でも、「面白い」という言葉で表現する。「夢中になれそうだ」と感じているからだ。
 実際に、その種の問題を解く行為が好きな人も多い。ミステリィに登場する名探偵も、難事件に遭遇し、不可解な状況に直面するほど、「面白い」と呟いたりするものである。この台詞を聞くと、読者や視聴者もわくわくして、「面白くなってきた」と思うのではないか。

それ以外に「面白い」を使う場合

「面白い」の使い道は、だいたいこの二つに集約されそうだが、実際には少しニュアンスが違う「面白い」もある。たとえば、「珍しい」、「趣がある」、「気持ちが良い」といった意味で、「面白い」というときがある。
 コレクションをしている人が、今まで見たことがない品物に出合ったときなどに、目を輝かせて「面白い」と呟く。日本庭園や茶室などで、凝った造形を見て、「面白い」と思う。また、スポーツをして、一息ついたときなどに、「面白い」と感じたりするだろう。
 長閑な自然の中で写生をするときには、絵を描きながら「面白い」と思うだろうし、登山をしている人は、山頂が近づいてくると、疲労も忘れて、「面白い」と感じる。「面白くない」ことは、人間は続けられない。何度も同じようなことをするのは、「面白さ」をまた味わいたいからだ。
 共通しているのは、どれも、自分にとって好ましい状態であること、自分が好む状況になること、といえるだろう。ほかの言葉にすれば、「満足」が近いかもしれない。
「面白い」に似た言葉としては、「楽しい」がある。
 人によってさまざまなものを楽しむことができるので、たとえば、「楽しいもの」とは何か、どういう意味なのか、と尋ねられても、簡単に説明ができない。だが、面白いものは楽しいし、楽しいものは面白いものだ。
 もっと複雑な「面白い」もある。
 たとえば、映画やドラマなどでは、それを見ると悲しくて泣けるようなものがある。あるいは、恐ろしくて、目も開けていられないものもある。さらには、ジェットコースタのように、スリルを味わうための遊具さえある。それに乗っている最中は、笑ってなどいられないのが普通だ。悲鳴を上げて接することにもなる。それなのに、人間は、そういったものまで「面白い」と感じるのだ。

曲折した「面白さ」もある

 僕は、ミステリィ作家である(これは自称ではなく、そう呼ばれることが多いという意味)。
 ミステリィというのは、読者を騙す仕掛けを持った物語(小説や映画などのフィクション)のことだ。なんとか読者の想像の裏をかき、意外な結果を見せることが、ミステリィの使命である。この場合、読者は予想外のことに出合うのを楽しみにしている。「騙された」と溜息を漏らすことが「面白い」ことなのである。騙されるのは、普通は「悔しい」ことのはずだが、その「悔しさ」も、ミステリィでは「面白さ」になる。笑えたり、興味を持たせる、という単純な「面白さ」ではないように見える。
 ミステリィに限った話ではない。小説というのは、「面白い」ことが求められる商品である。読者は、面白い作品を求め、面白い作品を書いてくれる作家のファンになる。したがって、作り手である作家は、常に、「何が面白いのか」「どうすれば面白がってもらえるのか」を考え、頭を捻って作品を執筆している。「こういうものが面白い」と、もし明らかにわかっているなら、是非教えてもらいたい、とみんなが切実に思っているのは、まず確実である。

「面白さ」は、会議からは生まれない

 ほとんどの場合、何が面白いかは、多分に「感覚的」なものであって、こうすれば面白くなるという技術的な手法は存在しない。そんなマニュアル化が可能ならば、誰でも人気作家になれるし、今頃、それに従って、ベストセラ小説が量産されているはずである。
 何が「面白い」のかが、わかっていれば、こんなに楽なことはない、と考えている人は沢山いるだろう。世の中には、「面白さ」を作ることが仕事の人たちが大勢いる。みんなが試行錯誤して、つぎつぎと新しい「面白さ」を世に問う。
 大衆に受け入れられれば、大儲けができるし、一躍人気者にもなれる。でも、けっして簡単ではない。やはり、「これが売れる方法だ」というノウハウは存在しない。
 大勢の知恵を集めても実現しない。なにしろ、会議をしても、意見が合わない。わかっているのは、「過去に売れたもの」がある、というデータだけだ。それと同じことをすれば、また売れるという保証はない。「面白い」ものも、同じものでは厭きられてしまう。
 知恵を集めても解決しないのは、個人によって「面白さ」が少しずつ違うからだ。となると、最終的には、個人の感覚を頼りに手探りで求めるしかない。実際、過去のヒットは、そんなふうにして生まれている。

アートとエンタテインメントの違い

 自分が「面白い」と思うものを作るのは、比較的簡単な作業である。これを実行しているのが、芸術家だ。アートというのは、基本的に個人の「面白さ」を形にする行為であり、それを評価するスポンサを一人見つければ、その作品が売れる。これが、アーティストの仕事の成立条件だ。
 エンタテインメントと呼ばれる分野でも、アーティストという呼び名がときに用いられるけれど、この場合は純粋なアートではない。何が異なるのかといえば、受け手が大勢になる、という点だ。
 音楽や小説や映画などは、その作品を大勢が「面白い」と感じることが大前提だから、作り手は自分が「面白い」と思うものを作れば良い、というほどシンプルではない。大勢の人たちが、商品を買ってくれるのだから、大勢が何を求めているのか、大勢に注目されるにはどうすれば良いのか、と考える必要がある。これは、一般のメーカが商品開発を行うときと、ほとんど同じだと考えられる。

「面白い」という機能の曖昧さ

 商品であれば、「役に立つ」ことが第一の機能といえる。これは「面白い」に比較して、具体的でわかりやすい。目的が明確だから、それを見定めて商品を作れば良い。
 エンタテインメント商品の機能は、「面白い」ことだが、この機能は、茫洋としたものであり、少なからず抽象的である。何をどうすれば「面白い」のか、と、制作者は悩み続けることになるだろう。
 一例を挙げると、小説が大好きで、沢山の小説を読んでいる人が、自分も小説家になりたいと決意し、執筆活動を始め、作品を書き上げて出版社に送ってくる。新人賞などにも応募がある。ほとんどのアマチュア作家は、もとは小説の読者だった人たちだ。彼らは、面白い小説を沢山読んでいて、何が面白いのか知っている人たちのはずだ。それなのに、ほとんどの人は、デビューができない。作家になれない。何故だろうか?
「面白さ」を知っていても、それは曖昧さを包含している。つまり、知っていても、それを作ることができない。

「才能」とは何か?

 よく聞かれる理由として、「才能がない」というものがあるが、これは具体的にどういう意味なのか、僕にはわからない。何の才能がないのだろうか。文章は書ける。たとえ間違った文章でも、編集部が正してくれるし、技術的な問題は指導もしてくれるだろう。そんな問題はまったくの小事だ。作家になれないのは、技術的な問題ではない。理由は明らかで、作品が「面白くない」からである。「才能がない」というのは、「面白いものが作れない」とほぼ同義である。
 極端な話、文章などむちゃくちゃでも、面白ければデビューできる。そういう作家も現に沢山出ている。小説というものは、面白ければなんでもありなのだ。
 出版社に勤めていて、小説を扱っている編集者は、何故小説家にならないのだろう? 彼らはほぼ例外なく高学歴であり、文章を書く能力を確実に持っているし、どんな小説が当たるのかも経験的に知っている。もしベストセラ作家になれるなら、出版社の給料よりも稼ぐことができるだろう。もちろん、編集者出身の作家は、現に何人もいるにはいるが、しかしほんの一部であり、百人に一人もいない。

「面白さ」の設計図が描けるか?

 もっと注目すべきことがある。
 編集者の中には、数々のヒット作を手がけた、いわゆるカリスマ編集者と呼ばれる人たちがいる。大勢の才能を見出したことが彼らの業績である。つまり、応募してきた作品や作家に注目し、「これは売れる」という目利きができた。言い換えれば、「面白い」ものを誰よりも知っている人たちなのだ。でも、そういう人が自分で小説を書き始めることはまずない。僕が知っている範囲では一人もいない。面白いものがわかっていたら、すぐにも書けそうなものだが、どうしてできないのだろうか?
 そんなカリスマ編集者と話をしたことが何度もある。たしかに彼らは目利きができる。面白い作品が出てきたら、ぴんとくるものがあるそうだ。一目見て、その判定ができる。けれども、そうでない作品に対して、何がいけないのか、どう直せば良いのかは、的確に説明ができないという。
 技術的なことや、間違いを正すことは簡単だが、面白さが足りない理由を、具体的に説明できない。こういう作品を書いてほしい、と詳細に述べることもできない。設計図さえあれば、ものを作ることは可能だ。しかし、面白さを知っている人でも、そういった設計図が描けるわけではないのである。

「面白さ」は、偶発的なものか?

 では、「面白さ」とはいったいどういうものなのか?
 世の中には、「面白い」といわれているものが沢山ある。それらは人気を博し、多額の利益を生産者にもたらした。面白いものさえ作れば、成功者になれる。
 こういった「面白さ」の成功例を「ヒット作」と呼ぶ。人気が出ることを「当たる」と表現する。すなわち、なにか偶然性のようなものが作用している、と認識されているのだ。そうなるのは、具体的に「面白さ」が何かを示せないし、誰も確実に再現することができないからだ。

本書の内容について

 本書は、この難題「面白いとはどういう意味なのか」について書かれている。詳しく考察しているわけではなく、データに基づいて分析したわけでもない。「面白さ」について、僕が思うところを素直に述べただけだ。
 また、後半では、「面白く生きる」ことについて書かれている。これも、具体的な生き方のノウハウなどは出てこない。非常に抽象的な記述になっている。そうなる理由は、「面白さ」が曖昧であり、個人的であり、そもそも抽象的にしか把握できないものだからである。
 もし、「面白さ」とはこうだ、こういう手順で作れ、面白く生きるにはこうしなさい、面白く生きるコツはこれだ、などと具体的に書かれているものがあったら、まずまちがいなく役に立たないだろう。それは、「面白さ」を見縊っているといえる。その程度の面白さは、僕は「面白い」とは思えない。
 だから、そういった具体的な期待をしないように、ここでお願いをしておく。あくまでも、あなたの「面白さ」は、あなたしか作れないものだからだ。

僕自身について

 僕は作家であり、「面白い」ものを作る作業を仕事にしているけれど、しかし、大当たりするような作品を書いたことは、残念ながら一度もない。そこそこのヒット作しかない、わりとマイナな作家として位置づけられているだろう。
 こうなったのには理由がある。まず、僕はメジャなベストセラが嫌いで、みんなが面白いと思うものを、面白がれない人間である。天の邪鬼だといっても良い。僕が面白いと思えるものを、みんなは面白くないという。その確率が非常に高い。したがって、僕は自分が面白いと思えるものを優先せず、みんなが面白いと思うだろうものを書くようにしている。仕事なのだから、当然だろう。でも、自分では全然わからない領域なので、メジャは狙えない。まあまあの人数の人たちが面白いと思えるものを手探りで書いている、といって良いだろう。

今という時代について

 ヒット作がないのには、もう一つ理由がある。それは、かつてほど大勢が一つのものに集中しない時代になったということ。ベストセラといっても、そもそも小説自体が超マイナなジャンルになってしまった。十万部も売れるような作品は滅多にないが、それだけ売れたとしても、日本人の千人に一人が読む、という程度の数字なのだ。テレビの視聴率みたいに数字にしたら、〇・一パーセントになる。この程度ではたちまち番組は打切りだろう。
 たまたま、小説は制作費がかからないという強みがあって、一万人の読者がいれば、なんとか仕事になっている。なかなか一万部だって、売れない時代なのである。
 ある意味、「面白さ」の不況といえる。みんなが、どうすれば「面白い」ものが作れるか、と日々考えていることだろう。もしそれがわかったら、人にノウハウを教えるような真似はしないはずだ。自分でそれを作って大儲けすれば良い。

具体的にではなく抽象的に

「面白い」が何かということは、ぼんやりとしか論じられない。具体的なディテールを示せても、すべてが過去の「面白さ」の分析になり、同時にそれは、「既に面白くなくなったもの」でしかない。
 あるいは、「こういうものが面白い」と具体的に示せるものは、既に存在する「面白さ」であり、それを作ることは人真似になるし、著作権の侵害として訴えられることになりかねない。「面白さ」は、具体的になると、法的に守られた価値なのだ。
「抽象的」というと、「わかりにくい」という意味に受け取られるかもしれないが、実は、面白さを作り出すには、この「抽象的な思考」が非常に重要になる。「なにか、こんな感じのものを」というフィーリングが、面白さをクリエイトする基本的な姿勢だからである。
 本書では、「面白さ」が何なのか、どうやって生まれるのか、というメカニズムを考察し、それを作り出そうとしている人たちのヒントになることを目的として、大事なことや、そちらへ行かないようにという注意点を述べようと思う。
 同時に、「面白さ」を知ること、生み出すことが、すなわち「生きる」ことの価値だという観点から、「面白い人生」についても、できるだけヒントになるような知見を、後半で言及したい。
 そのヒントを知ったら、面白いものが作り出せる、面白い人生が歩める、という保証はない。だが、なにもしなければ、面白くはならない、ということだけは自信をもっていえる。

二〇一九年一月 森 博嗣

***

第一章 「面白い」にもいろいろある


「面白い」と感じる人間が凄い

 小説という限られたジャンルの中でも、面白さにはいろいろな方向性がある。ある一人の作家の作品でも、面白さは一種類ではない。ある作品は、読むだけで笑いが込み上げてくるようなコミカルなものだったのに、別の作品では、シリアスな問題を扱った内容で、けっして笑って読めるものではなかったりする。
 それどころか、ある一作の中でも、笑える場面があり、また泣かせるシーンもある。そのどちらに対しても、「面白い」と読者は感じることができる。これ自体が、人間というものの凄さを示している。
 またあるときは、感情は揺さぶられないけれど、生き方に対する真面目な議論を投げかけてきて、考えさせられるものもあるだろう。さらには、読んでも何がいいたいのか、わからなかったりするのに、それでも、なんとなく美しさが感じられたり、これまでに接したことのない新しさに気づかされたりすることもあるだろう。このようなものにも、「面白い」と感じる人はいる。
 人間は、いろいろいるし、また個人の中にもさまざまな価値観が混在し、非常に複雑に絡み合った反応をする。それなのに、大勢が同じものを「面白い」という現象が観察されるのは、とても不思議なことだ。この「共感」も人間の凄さの一つかもしれない。

たまたま作家になってしまった

 作家をしていると、読者がどう感じたかを知ることができる。今はインターネットがあるので、そういった声が直接届くようになった。よく観察される「ズレ」として、読者に「これは作者が楽しんで書いている」と感じさせる作品が、むしろ書くのが大変で、作者は全然楽しくない、という事実がある。逆に、「精密に考え抜かれたストーリィだ」と読者が感じるものが、実は書くのが簡単だったりする。
 僕は、ミステリィでデビューをしたのだが、もともと小説など書いた経験がない人間だった。それどころか、小説を読む趣味もなかった。当然ながら、小説家になろうと思ったことなど、子供のときから一度もなかった。それが、三十代の後半になって、たまたまバイトのつもりで書いてみた小説を出版社に送ったら、編集者が「本にしたい」と連絡してきたのだ。
 新人賞などに応募したわけでもない。一作書いたあと、出版社へ送るにはどうすれば良いのかと思案し、書店で小説雑誌を探してみた。すると、編集部の住所が載っていたので、そこへ送ってみることにした。

ミステリィを選んだ理由

 ミステリィを書いた理由は、この種の小説は、構造がだいたい決まっているので、書きやすいと思ったからだ。なにしろ、小説など書いたことがないから、どうやって話を作れば良いのかもわからない。ただ、小説を読んだことはあったので、小説がどんなものかくらいは知っていた。学科の中で国語が一番苦手だったけれど、少なくとも日本語の文法は学校で習っていたし、ワープロで打てば漢字が書けなくても変換してくれる。小説は、職人の技のように、弟子入りしてノウハウを学ばなければならないわけでもないだろう。誰にでもすぐに書けるものだ、と思っていた。ちょっとしたバイト感覚で、まずはこれを試してみようかな、と思いついて始めたのである。
 ほかのジャンルの小説だったら、読者が「面白い」と感じるものを書かなければならない。そうしないと、最後まで読んでもらえないし、悪い評判が立てば売れなくなる。それ以前に、編集者が駄目だと判断して、本にはしてもらえないだろう、と想像ができた。
 ミステリィは、謎が提示され、最後には意外な展開があって、その謎が解ける、という構造を持っている。謎があれば、読者は答を知りたいから、最後まで読んでくれる。
 したがって、トリックや意外性を考えれば良い。クイズを作るようなものだし、ある意味、数学の問題を作るような作業である。実は、僕は大学の工学部の教官だったので、数学や物理の問題を作ることは何度も経験していたのだ。
 クイズというのは、一定数の人たちが「面白い」と感じるジャンルである。数学の問題を解くことを趣味にしている人もいる。解けるのが面白いし、また、解けなくても不思議であれば、それもまた面白い。
 ミステリィの面白さは、小説の面白さに比べて、非常に特定的というか、狭い範囲に的が絞られているから、その面白さを作る側にとっては、何を考えれば良いのかが明確で取り組みやすい、と僕は考えたのだ。

ミステリィの次に来る壁

 それで、小説を書いてみたら、あっという間に小説家になってしまった。ここで、僕は次の壁を破らなければならなくなった。何故なら、同じミステリィのジャンルで作品を発表し続けることには限界があるだろう、と思えたからだ。デビューまえから、それについて、打開策を考えた。
 ミステリィの面白さは、一言でいえば「意外性」である。読者が予想もしなかった展開を見せることが、ミステリィの面白さである。しかし、僕がデビューする以前からミステリィは沢山存在するわけで、それらの古典というか名作がいずれも健在だ。小説というのは、古くならない商品なので、過去の作品はコンテンツとしてずっと蓄積している。新作は、それらと競合することになり、よほど面白いものを書かないと、商品としての価値が認めてもらえない。
 だから、とりあえず二十作ほどミステリィを発表したあとには、違うジャンルの本を作らなければ、仕事として続かないだろう、と予想した。
 そこで考えたのが、小説の「面白さ」とは何だろうか、という問題だった。ただし、小説家として数年過ごすことで、以前の僕のように、小説のことはほとんど知らない素人ではなくなっていた。少なくとも、自分の作品を読んでくれた読者が何万人もいるわけだし、また、多くの編集者とも話ができて、どんな作品が市場で望まれているのか、すなわち「面白い小説とは何か」ということを抽象的に知ることができた。それさえ知れば、あとは、自分なりに具体化していく作業をするだけだ、という立場だったのである。

ユーザの反応が見える時代になった

 作家になって、自分が作ったものに対する感想を知ることができる立場にもなった。ちょうどネットが普及し始めた頃に僕はデビューしたので、読者の生の声が自然に耳に入った。それまでの小説家には、なかった環境である。
 ファンレターというものは以前からあったので、好意的な感想はある程度は知ることができたはずだ。だが、批判的な意見というのは、評論家の意見しかないし、評論家もそれほど悪口は書かないものだ。作品を読んで、面白くないと思った読者は、わざわざ手紙を書いてこない。売れない作品のどこがいけないのかも、わからないのが普通だ。
 とはいえ、読者の反応が正解かどうかは、まったく保証されていない。多くの批判は、おそらく見当違いだろう。なかには、読解力不足で誤解している人もいるはずである。それに、そもそも面白いかどうかは、読んだ人の感性に支配された判断なのだから、一般的なものとはなりえない。
 ただし、それが多数になって、どういう意見が多いのか、という傾向は、一つの事実と受け止める必要がある。個々の意見に左右されず、全体像を把握することが重要だ。このような観察において、最も重視すべきなのは反応の数、すなわち数字である。

「面白さ」は集計できるか?

 たとえば、僕の場合でいえば、本の売行きが一番信頼性のある数字である。今はネットを見ていれば、売行きのランキングも毎日観察できる。何が影響するのかも、これらの変化を観察していれば、かなり精密な分析ができる。
 面白い例を挙げよう。ネット販売のAmazonには、商品に対して消費者が評価をするシステムがあり、この集計結果が表示されている。☆五つが高評価になる。大勢の人がこれをわざわざ入力しているので、商品を買おうか迷っている人には参考になるかもしれない。ただし、性能がすなわち商品の価値であるような製品ならば、誰が評価してもだいたい同じになるかもしれないが、ある人には役に立ったが、別の人には役に立たなかった、という場合も当然ある。使用する目的が合致しているかどうかで、評価が違ってくるからだ。そういった要素もひっくるめて採点してしまうから、数字の信頼性は下がる。
 特に、小説などのエンタテインメントは、個人の感性に合致するかどうか、すなわち「面白さ」が評価基準だから、読者によってさまざまに感じられるはずだ。みんなが良いというものが無条件に好きだ、という人ならば多少は参考になるかもしれないものの、自分の感性は一般大衆と少しずれている、と感じている人には、まったく意味がない数字になってしまう。

評価点が高いものほど売れない?

 Amazonの評価点と本が売れた部数の相関を調べたことがある。売れた本の部数がわかるのは、自分の本だからだ。こういった観測は作者しかできない。それによると、驚いたことに、「負の相関」が顕著だった。つまり、Amazonで評価が低いものほど、売れているのである。
 どうしてこんなことになるのかというと、売れていない本ほど、熱心なファンが割合として多く買っているから、評価が高くなる。売れる本は、好意的でない人にまで広く知られる結果になるので、マイナスの評価をする人の割合が増える、ということだ。理屈がわかれば、当たり前のことだが、評判の良いものは売れている、つまり「面白い」ものだ、と勘違いする人が多数いるはずである。
 自分以外の人の意見を聞く、という姿勢は大事ではあるけれど、それは自分が何を求めているかによる。大勢が好むものを求めているのなら、参考にすれば良いし、多く売れているものが欲しいのなら、むしろ世間の評判の逆を選択した方が確率が高い、という場合だってあるということ。

最近流行の「面白さ」は「共感」

 ビジネスとしては、少しでも沢山売ることが成功となる。それを目指すには、現代の大衆は、どんなものを「面白い」と感じるのか、という話になる。もちろん、既に書いたように、その明確な答は存在しない。何が当たるのか、わからない。それでも、幾つかの傾向を挙げることは可能である。
 まず、最近の「面白い」といわれるものに目立つのは、「共感」だろう。
 作品に接したときに、「ああ、そうだよね」「それ、わかる」と頷けるもの。自分も同じことを考えていた、同じことを経験したことがある、それを自分も知っている、その気持ちが自分にはよく理解できる、というような意味で、「共感」という言葉が、とてもメジャになった。感動するものは、すべて「共感」だといいきっている人もいるくらい、これが流行っているようだ。
 おそらく、ネット社会になって現れたものだろう。みんなの動向が伝わるようになったからこそ、みんなが同じように感じている、という幻想を見られるようになった、ともいえる。そう、僕はそれは幻想だと思っている。

***

以降の章では、さらに「面白い」について考察しています。
森博嗣さんの「面白い」についてのインタビューは必見です。

<収録内容>
はじめに
「面白い」はよく使う言葉だ
「可笑しい」という意味で使う場合
「夢中になれる」という意味で使う場合
それ以外に「面白い」を使う場合
曲折した「面白さ」もある
「面白さ」は、会議からは生まれない
アートとエンタテインメントの違い
「面白い」という機能の曖昧さ
「才能」とは何か?
「面白さ」の設計図が描けるか?
「面白さ」は、偶発的なものか?
本書の内容について
僕自身について
今という時代について
具体的にではなく抽象的に

第一章 「面白い」にもいろいろある
「面白い」と感じる人間が凄い
たまたま作家になってしまった
ミステリィを選んだ理由
ミステリィの次に来る壁
ユーザの反応が見える時代になった
「面白さ」は集計できるか?
評価点が高いものほど売れない?
最近流行の「面白さ」は「共感」
みんなが「面白」ければ「面白い」
「共感」重視で「面白さ」を見失う
「お涙頂戴」が多すぎないか?
「新しい」ものは「面白い」
計算で生み出せない「面白さ」
「面白い」と感じる好奇心
可能性や成長の「面白さ」
動物は、未来を予測する
「意外性」の「面白さ」は知性による
「思いどおり」か「思いのほか」か?
ぎりぎりで「意外」なものが「面白い」
「突飛」の「面白さ」
「面白さ」の対象はさまざま
「面白さ」は最終的には満足を導く
「面白さ」は自由を目指している

第二章 「可笑しい」という「面白さ」
「可笑しい」から「面白い」
「可笑しさ」の条件
「いないいないばあ」は何故「可笑しい」のか
慣れてしまうと、「可笑しさ」が消える
笑わせることは難しい
「可笑しさ」は人のイメージになる
「可笑しさ」を作る二つの方法
現実の「可笑しさ」を一般化する
「可笑しさ」の手応えを確かめるには
「ユーモア」という「可笑しさ」
「読みやすい」が大前提となった
「可笑しさ」に共通する緊張と解放
適度な「ズレ」が「可笑しさ」の条件
「可笑しさ」は、常に修正が必要

第三章 「興味深い」という「面白さ」
「楽しい」という「面白さ」
「ほのぼの」という「面白さ」
慕情とノスタルジィ
「アクション」という「面白さ」
「動画」が普通になった
「アクション」の「スピード」
「アクション」の「加速度」
「アクション」の「アイデア」
「面白いアクション」とは?
「興味深い」という「面白さ」
「設定」の「面白さ」
「展開」の「面白さ」
「面白さ」を維持するには?
大当たりしたものほど早く衰退する
「考える」「知る」という「面白さ」
「知る」とは、「知らない」ことに気づくこと
「研究」は、究極の「面白さ」
あくまでも「面白さ」は自分で作るもの
「気づく」という「面白さ」
反社会的な「面白さ」も
「役に立つ」という「面白さ」
「面白さ」は元気の源

第四章 「面白い」について答える
「面白い」についてのインタビュー
【一般的な質問】
Q「森さんが考える『面白いもの・こと』ベスト7は?」
Q「今までの人生で『面白かったもの・こと』ベスト7は?」
Q「森さんが考える『面白く生きるコツ』は?」
【現在についての質問】
Q「森さんは今、何をしているときが一番『面白い』でしょうか?」
Q「今世の中に足りていない『面白さ』とは何でしょうか?」
【「面白さ」の種類や定義について】
Q「面白い、愉快、楽しい、に違いはありますか?」
Q「『面白い』はいくつのカテゴリィに分類できますか?」
Q「面白さを『作る』ことと『享受』することについては、いかがですか?」
【面白く生きることについて】
Q「人生に『面白さ』が必要な理由は?」
Q「生きるのが面白くなる考え方、視点はありますか?」
Q「世の中を、面白く変えて良いとしたら、どうしますか?」
Q「好きに天国を作って良いとしたら、何から作りますか?」
【エンタテインメントについて】
Q「今まで読んだ本や観た映画で、『面白さ』が際立っていたものは?」
【人生の悩みへの回答】
Q「『つまらない』はどうしたらなくなるでしょうか?」
Q「『生き辛さ』はどうしたらなくなるでしょうか?」
Q「周りの人から『面白い人』と思われるためにはどうすれば良いですか?」
Q「面白く生きられていない人に共通するものは何ですか?」
Q「生きるうえで最低限必要な『面白さ』とは?」
Q「森さんが死ぬまえにやっておきたい『面白い』ことは?」
Q「面白く生きるうえで、一番大切なことは何でしょうか?」

第五章 「生きる」ことは、「面白い」のか?
面白い人生は、みんなのテーマ
仕事の面白さとは?
仕事で褒められたい若者たち
「面白くない」から仕事を辞める
「面白い人生」と「幸せ」は同じ
人生の満足度は世代によって違う
大人になると、幸せを見失う?
他者がいないと生まれない「面白さ」
「一人の面白さ」が本物
他者に依存した「面白さ」は持続しない
歳を取るほど孤独になる原則
「孤独」から生まれる「面白さ」もある
「孤独の面白さ」こそ将来有望だ
生きるとは、面白さを探す旅

第六章 「面白さ」は社会に満ちているのか?
趣味の充実のために、小説を書いた
社会貢献より自己満足なのか?
「社会のために尽くせ」という教え
集団への貢献は既に前時代的
個人の満足が正義になった
「面白さ」が大量生産された時代
量産化された「面白さ」の価値
「面白さ」が市場に行き渡るとき
「面白さ」は古くなるのか?
「面白さ」いっぱいの楽しい社会とは?
仕事があるから、「面白い」ことができない?
若者は何故「面白い」と感じないのか?
手に入れにくいものほど「面白い」と感じる
「面白さ」の条件は簡単に得られないこと
「面白さ」の理由は、達成感にある
「マイナな面白さ」を目指す方向性
「キットの面白さ」を目指す方向性
与えられた「面白さ」では満足できない

第七章 「面白く」生きるにはどうすれば良いか?
「面白さ」はアウトプットにある
アウトプットをアシストする商品
アウトプットの「面白さ」の広がり
アウトプットが多すぎてインプット不足に
身近な指導者に従う習性
「面白さ」を求めるあまり、炎上する
ネットは実は「恐ろしい」
流行の「面白さ」はいずれ廃れる
ネットのアウトプット専用アプリ
リアルでのアウトプットへシフトする
若者のアウトプット能力は高まっている
アウトプットしたい人が多すぎる時代

第八章 「面白さ」さえあれば孤独でも良い
「寂しい」がマイナスの意味になってしまった
「孤高」こそ、現代人が注目すべきもの
「人情」や「絆」はマイナとなった
現代人は、基本的に一人で生きている
「寂しい」から「面白くない」のではない
外部に発散しない「面白さ」が本物
「退職したら好きなことをしよう」と思っていても
一人で楽しめる趣味は「面白さ」が約束されている
楽しみがない人は、今から種を蒔こう
年寄りはアウトプットに注意しよう
「面白さ」を探すことを忘れないように
「面白い」人生を全うした人たち

第九章 「面白さ」の条件とは
「面白さ」のファクタと構造
「面白さ」の評価は直感的なものになる
アートとエンタテインメントの「面白さ」の違い
エンタテインメントではバランス感覚が要求される
マイナスを排除しても「面白く」はならない
マイナ路線がメジャになるという矛盾
「小さな新しさ」を探すしかない
発明の手法から「面白さ」作りを学ぶ
苦労を讃える「面白い」もある
発想が凄い「面白さ」は天才的
計算的「面白さ」と発想的「面白さ」
自作が「本当に面白いのか」という不安の壁
他者に認めてもらわなければ意味がない?
「面白さ」の競争は厳しい
「宣伝してもらえないから売れない」は間違い
「面白さ」の指標は、「どれだけ売れたか」
「新しい面白さ」はゼロから作り出すしかない?
抽象的な「面白さ」を素材にする
「面白さ」を積極的に感じようとする姿勢

おわりに
父が描いた奇妙な絵
展開された「面白さ」
「突き放し」の教育?
工作少年の日々
勉強が「面白い」と初めて感じたとき
「仕事」というものを意識したとき
「面白さ」の実現のため、バイトをすることに
「面白さ」のために邁進する日々
森の中の静かな生活
夢と希望よりも、計画と作業を

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著:森博嗣『面白いとは何か? 面白く生きるには?
紙書籍定価 ¥830+税 / 電子書籍価格 ¥800+税
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