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[妄想] リアルとバーチャルの一体化の奨め(ドール認証っていうの?)

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(パート1) 何とも、パソコンで、良いことをしていても、悪いことをしていても、回りからみれば、キーボードをたたいて、画面を見ているだけの作業であり、区別が付かないといこと自体、IT技術が、法律の仕組みを無視して、場当たり的に普及してきたてん末ということだ。だから、情報が盗まれたということが、容易に、定義できない。もし、情報を盗む行為が、はたから見て、まさに、情報が盗まれているように見えれば、現法での扱いも、窃盗罪で、方が付くのであろう。せっかく、ハードウェアなどの性能は、飛躍的に高くなっているのだから、技術者は、このリアルとバーチャルの一体化に関して、配慮しても良い時期に来ていると思う。また、例えば、キャッシュカードは、現物が盗まれで、盗まれた本人が、紛失に気づくことによって、カード会社へ利用停止を申請できるのである。つまり、盗まれたことを、気づく仕組みがあって、初めて、その事象は、法的にも定義ができ、処分を決めて、執行できることになるのである。人が人を裁く社会システムを、もっと自覚するということでもある。

(パート2) PEACH-PIT著のコミック「ローゼンメイデン トロイメント」をパロって、以下、引用「真紅『私の名は真紅。おまえはこれより真紅の下僕となる』」
 これは、将来、サイバー世界と、リアル世界の一体化の儀式かもしれないと、ふと、頭をよぎっている今日この頃、サイバー世界とリアル世界の一体化のためには、まず、サイバー世界の実体と、リアル世界の実体の対応関係を確定して、検証可能として維持する必要がある。そうしないと、サイバー世界で、成りすましが、可能となり、結局、一体化とは、程遠いこととなるからである。この問題は、リアル世界での本人確認の方法論に帰着するのである。さて、以降は、1つの可能性(モデル)であり、これが必ずしも、良いソリューションとは限らないことは、頭の隅に置くべきだろう。また、面白みのある要点のみ、紹介するので、細かい点の実現方法などのつめは、仕事でやる人が、ちゃんと考えれば良いことだろう。
 リアル世界の実体は、それがサイバー世界のその実体と対応関係にあるかは、リアル世界の実体が、予定されている実体と同じかどうかを確認することに他ならないだろう。この手段として、もっとも分かり易いのは、顔写真付きの証明書というものが、現世界では、ポピュラーな手段に1つであるが、その偽造や改ざんなどので、不正も耐えないようだ。
この顔写真という観点を、もっと推進すると、やはり、リアル世界の実体にそっくりなドールという発想も、それほど不思議でないと、最近、頭をよぎっているのである。本人確認のために、どうそっくりさん人形を使うかは、なんとなく、文化水準の高低を問われそうでもある(^^;。
 2つの方法があるかとも思う。1つ目は、もっとも基本的な方法として、他人に、人形に似てますねと言われることであろう。これによって、リアル世界の実体が、メタファである人形と対応付けされるのである。仕事場の机にあるパソコンを使うときは、隣に、お人形さんも置いておくことにするのである。これによって、予定されていない人が、パソコンを使っているかどうか、他人が、見た目に分かるようになるだろう。人形に似ていない人が、そのパソコンを使うことや、人形なしで、パソコンを使うこと、文化様式的に、不正を働いていると感づかせるだろう。つまり、日常、いつも肌身離さず、そっくりさん人形を携帯して、生活するのである。まあ、可愛い人形をもって歩くのは、まだ、現在でも、それほど不自然ではないかと思うが、自分のそっくりさん人形を持ってあるのは、大分、高い心理的な壁もありそうだ。
 2つ目は、応用的な方法で、自分を、人形とそっくりさんと言ってくれる他人の本人認証もされていないと、大分、不完全であるので、全員が、そっくりさん人形を持っていることとすると、あらかじめ、自分を認証してくれる相手のそっくりさん人形のコピーを、相互に交換する文化様式を追加するのである。これよって、他人のそっくりさん人形を介して、自分が、自分のそっくりさん人形に似ていると、言われるようなことになるのだろう。
 以上のようなそっくりさん人形は、当然、普通の人形でなく、サイバー世界との対応関係を検証するための仕組みが備わっていることは必須なものである。この仕組みの1つの可能性として、ABCさんの人形との最初の対面は、「私の名はABC。おまえはこれよりABCの下僕となる」という人形の台詞から始まるのであろう。(笑)

(パート3) リアルとバーチャルの一体化を実現するための方法論として、色々、あろうかと思うが、1つの分かり易い方法をご紹介しよう(^^;。前回の投稿で、人形認証の1つを説明したのだが、これのバリエーションの1つだろう。本人が、自分を本人であることを、証明することは、出来ないことは、お分かりであろう。本人が本人であることは、他人がいて初めて意味があることであり、他人が、認知するすること、そのものなのである。この意味論のなか、自分のために、他人が、四六時中、自分を本人であることを、証明できるようにすべく、努力するこては、あり得ないことも、誰もが感じるところである(まあ、実の親は、これに近い努力をおしまない存在であろう)。
 さて、方法論の1つとして、紹介するのは、ロボット(人形)によって、生まれた時から、その本人を、トラッキング(見つめさせる)させることが、何とも、分かり易い方法論ということである。生まれらときに、人形が与えられて、それに、見つめ続けもらうことで、生まれた時からの世界線の連続性を証明したもらい。出生届において、定義された情報と、本人を、絶えず結びつかせる機能を、人形が担うのである。これは、1つには、アニメ「ロックマン」に出てくるようなナビのような存在かもしれないし、本当に、動かない人形なのかもしれない。要は、生まれた時から、現時点の存在まで、1つの世界線でむすばれている存在かどうかを証明する存在を実現すれば、誰もが、その本人が本人であることを、認知できるようになることである。
 他人が、他人のことに、関心を失っている現在では、人間が実現していた機能を、上記のような技術で補完していくことも、まじめに考えなければならないのだろう。ただ、このような技術が開発されるとともに、より利便性の高いサービスの検討も、代償として、実現されてくるとも期待したいところだ。

(パート4) サイバーワールドの実体と、リアルワールドの実体の対応関係が、確立したとしても、それで安心かというと、そうでも無さそうだ。リアルワールドの実体に関して、その実体が何を指しているのかが、今ひとつ、明確ではないということだ。つまり、暗黙の了解があって、リアルワールドの実体 (肉体)に、コミュニケーションの一端の当事者たる意思が、その外にもれず、存在しているという了解なのである。現代社会において、心理学的な観点では、不運にも、1つの肉体に、複数の意思が存在するケースが認められているのである。これは、世に言う「多重人格」というものであり、病的なものの他に、現代人は、少なからず、多重人格であるとも言われている。1つの肉体に同居する多重人格の全てを総称して1人と判断するのも難があるようだ。海外の判例では、顕著に異なる人格が同居する場合で、1つの人格が犯罪を起こした場合、犯罪を犯した人格が、罰せられるような雰囲気でもあるようだ。
 一方、サイバーワールドの実体は、多重人格を反映できていない状況である。また、反映すべきことなのかと疑問もある。正確には、サイバーワールドの実体は、リアルワールドの実体に同居する人格の1つと対応関係を確立すべきとも思える。異常でない多重人格では、端から見ても、1つの人格と見える訳で、特に区別する必要も無いようにも思われるが、本当に、無条件に信じてよいものか、大分、懐疑心も湧いてくる時代とも言えよう(^^;。
 また、人格(意思)が、肉体の外に離脱することがないのかどうかも、疑う必要もありそうだ。1つの可能性としては、AI技術の活用で、意思の一部を実行するプログラムの断片が、どこか別の場所で実行される場合、本人に、ある条件下で、成り済ます危険性も、考慮する必要もあるのかしれないが、この懸念は、まだ、先の心配と思いたね。
 なんとも言っても、ゲーデルさんの不完全性定理は、釈迦の掌のようだね。一貫性(つじつま)と完全性(すべての網羅)は、同時に、満たされないと言う定理だが、言葉を使う人間の限界というべきものか? これと裏腹に、可能性でもあるのだけどね。また、PDCAサイクル(向上サイクル)の手法は、この定理から見ても、理にかなっているものだね。

(2006年2月記事)

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