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その名はカフカ Kontrapunkt 1

その名はカフカ Prolog

その名はカフカ Preludium 1

その名はカフカ Preludium 14


2014年5月リュブリャーナ

 スロヴェニアの首都リュブリャーナの街中を細く流れるリュブリャニツァ川沿いにある老舗のカフェの、とりわけ爽やかな風が吹き抜けるテラスの席は、早めにやって来た夏らしい気候を楽しもうと集まった客に占領されていた。スラーフコ・マヴリッチはそのカフェの常連だったが、この日ばかりは見ず知らずの他人と相席にならざるを得ず、閉口していた。しかしスロヴェニア人たるもの、朝の上質なコーヒーを欠かすことは許されない、と幼いころから父親に聞かされ続けたスラーフコは、浮かれた顔の観光客と相席になったからと言って、その上質な一杯を諦めるわけにはいかなかった。
 普段からの習慣で、他人が近くに寄ってくると必ず迅速な視診をする。玄人か、素人か。敵か味方かを診るのはその後だ。スラーフコは浮かれた観光客に一瞬だけ目を走らせた。それからコーヒーに口をつけ、新聞に目を落とした。
 スラーフコはこの一瞬の視診に絶対的な信頼を置いていた。いや、正しくは、置いていた、だ。半年ほど前、国際列車で移動中にひどい目に遭った。相手は何とも掴みどころのない若い男で、怪しいのか怪しくないのか、頭が切れるのかネジが飛んでいるのか、そんな判断もつかないうちに大切なものを奪い取られた。挙句の果てに、まるでスラーフコの上司から遣わされたかのような口をきいたが、実際には彼の上司には何の関係もないようだった。
 嫌なことを思い出したな、と顔をしかめ、スラーフコはコーヒーの最後の一滴をすすり上げると、席を立った。テーブルの上の汚れたカップを改めて見下ろし、コーヒーを飲まないスロヴェニア人だっていくらでもいるのに、妙な仕付けられ方をしたものだな、とふと思った。それから踵を返すと、なじみのウェイトレスに軽く会釈をしてから、スラーフコはカフェを後にした。

 スラーフコが15年ほど勤めている組織は、1991年にスロヴェニアがユーゴスラヴィアから独立を果たした後、主に「秘密裏にバルカン半島の情勢に関する情報を西側へ流す」ために結成された。結成当時は情報を売るだけの小さな団体だったが、今では薬物や銃器の非合法売買を取り扱う犯罪組織に成長した。90年代の彼らの働き方を面白く思わず根に持ち続けている組織もバルカン諸国に多く存在していることから、敵も多い。
 勤め始めて二年目にしてチェコの首都プラハでの約10カ月に渡る任務を任され、このまま順調に組織の上層部まで昇りつめていくものだと思っていたスラーフコは、どこでどう間違ったのか、未だに新入りと机を並べてパソコンのモニターを睨みながら雑用を片付ける毎日を送っていた。
 この日もカフェでの朝の一杯をすませると、職場に直行した。最初の雑用に手を付け始めたところで
「ねえねえ、スラさん、今晩空いてます?飲み行きません?」
と向かいのデスクに座るゴランが話しかけてきた。昨年組織に入ったばかりの若い男だが、初対面の時から妙になれなれしい態度だった。
「私はそんなに飲まないんだ」
とスラーフコが答えると
「生粋のスロヴェニア人とは思えないセリフですね、僕がそんなの信じると思います?先約でもあるんですか?」
と返ってきた。
 どうしてこの国の人間はどいつもこいつも独りよがりな国民性を他者に押し付けてくるのだろう、と思いながらスラーフコは
「こういう業界にいるんだ、君にも飲酒はあまり勧められた習慣ではないな」
と答えた。
 ゴランはスラーフコの言葉に吹き出した。
「それが下っ端の特権じゃないですか。確かに組織の偉いさん達は飲めない。飲んでも酔っ払っちゃいけない。組織のトップになっちゃうとそれはまた違うみたいだけど。あと、ボディガードと殺し屋ね。僕の知り合いで高給取りの殺し屋がいるんだけど、ほんと、飲まないの。24時間しらふで目をギラギラさせてんのね。ああいう稼業はごめんだな、僕は」
そう言うとゴランは足で床を蹴って自身の座っている椅子をぐるっと一回転させた。そんなゴランを呆れ顔で見やりながら、スラーフコは
「君は緊張感が足りないな。いくら下っ端でも、どこで隙を狙われて組織の内部事情を吐かせるために拉致されんとも知れんではないか」
と言った。何を言ってもゴランはニヤニヤしているだけだ。これも演技なのだろうか。こういう人間が実は内側に想像を絶する人格を隠しているものなのかもしれない、と再び昨年秋に遭遇した不可解な車内販売員を思い出しながらスラーフコは心の中でため息をついた。
「何だかんだ言って、スラさん、今夜は先約ありなんでしょ。四十過ぎたこんなイケメンが独り身って、すごいモテそう」
と軽口をたたき続けるゴランに何か真面目な言葉をひねり出して返してやろうとスラーフコが眉間に皺を寄せたところで、二人が座っている事務室のドアが開き、ボスの秘書のマーヤが顔だけ室内に突っ込んだ。
「マヴリッチさん、ボスがお呼びです」
マーヤはいつものあだっぽい顔でそれだけ言うと鼻につく香水の香りを残して立ち去った。スラーフコがこの組織で働き始めてから、ボスの秘書は何度か入れ替わっていたが、いつも型にはめて作った人形のように、同じタイプの美人だった。一度は本物のスパイで、内部情報の一部と共に逃げられたこともある。懲りないよな、と思いながらスラーフコは立ち上がった。

 ボスの部屋の前まで行くと、ドアの隣にボディガードのヴクが立っていた。モンテネグロ出身で常にサングラスを外さない二十歳そこそこの無口な男で、2メートルはあろうかという身長に筋肉質な肉体を備えた、ボディガードを絵に描いたような青年だった。スラーフコがヴクに挨拶をすると、ヴクは聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をし、ドアを開けた。スラーフコが中に入ると、ヴクは静かにドアを閉めた。
 一人の人間が仕事をするのには無駄に大きい部屋に設置された無駄に大きいアンティークの書斎机の向こうに座っているボスのイリヤ・ドリャンがタバコを口にくわえたまま
「よく来た、マヴリッチ。まあ座れよ」
と言って、スラーフコに自分の向かい側の椅子をすすめた。
 ヨーロッパ内で喫煙者に対する圧力が強くなって久しいが、イリヤはヘビースモーカーを貫き通していた。まるで90年代を切り抜いて現在の時空間に張り付けたような男だな、とスラーフコはことあるごとに思う。イリヤはこの組織の創始者ではなく、90年代半ばまでボスニア・ヘルツェゴヴィナに滞在し、主にこちらに情報を流す役割だったという。スロヴェニアに戻ってきてすぐに組織のトップの座を譲り受け、組織を今の大きさにまで成長させた。今は側近と呼べる存在を三名ほど抱えてはいるが、結局全てを決定するのはイリヤ一人で、独裁的な人間だった。スラーフコ自身はイリヤのやり方を信頼していた。内部情報と共に逃げた件のスパイに関しても、彼女の購入した菓子にマリファナ入りのクッキーを混入させて、病院送りにした上で盗品を取り返したという。どうしてそんな回りくどいことをしたんだと聞くスラーフコに、イリヤは、体を傷つけるのはもったいないと思ったんでな、と笑って答えた。
 椅子に腰を下ろしながらスラーフコは
「直々に呼び出しとは珍しいな、ドリャン」
と言った。上司と部下の関係でも、未だ名字で呼び合う仲で年齢もイリヤのほうが十歳ほど年上でも、敬語を使う間柄ではなかった。
 イリヤは灰皿でタバコの火を揉み消すと身を乗り出し
「マヴリッチ、四月のベオグラードの件は聞いているか」
と尋ねた。スラーフコは顔をしかめて
「何も知らんよ。どうもその話しぶりからして、私のような組織の下層部より、側近と話したほうが良さそうな気がするが?」
と答えた。イリヤはニヤリとして
「知らないのも無理はない。今のところごく一部の情報通にしか知られていないが、知っている奴らはその話題で持ちきりだ。側近どもにはこれから話す」
と言った。スラーフコはますます不審そうな顔をした。
「それをなぜ、私に教えるんだ?」
「まず聞け。そのうち合点がいくだろう。四月にベオグラードの史料保管施設アーカイブで戦争犯罪の証拠品の一部が盗難に遭った。セルビアとしては半永久的に外に出すつもりはなかったものだ。95年までのものか、その後のものかは未だ知られていないが」
イリヤは一旦言葉を切ると、スラーフコの顔をじっくりと見つめた。スラーフコは表情を変えなかった。
「四月の時点では、完全に行方知れずだった。五月に入って、それがリュブリャーナに持ち込まれたという噂が立った。それがどうも噂ではすまないらしい。これから様々な組織や集団が国内外からこぞってこの街にやって来ることが予想される」
「それで?国外で微量な経験を積んだだけの私も使いようがあるとでも思ったわけか?」
「名誉挽回の機会を与えてやろうと言ってるんだ」
 スラーフコは自分の手元に視線を落とした。組織の中で一向に昇進していかない自分を「どこでどう間違ったのか」と言い表して、自分も周りも誤魔化そうとしてきた。しかし、スラーフコ自身は原因を痛いほど理解していた。2000年の秋も深まったころ、ある匿名の組織からイリヤのもとに「こちらにバルカン情勢の詳細を流せるよう、誰かプラハに派遣してくれないか。金に糸目は付けない」という要請が来た。そこでイリヤはスラーフコを選んだ。そして表向きは相手の意向に従うように、しかし任務遂行中に相手の正体を暴いてくること、というのがイリヤからの指令だった。
 プラハでのその任務は簡単そうだった。しかし相手組織から連絡係に遣わされていたのは、素人もいいところの何も知らされていない大学生で、彼女を脅したところで何も出てこないであろうことは明白だったし、それ以前に、そんな若い女子大生を脅迫するなどといった行為はスラーフコの流儀ではなかった。その大学生以外は誰も姿を現さなかったので、何度か彼女を尾行したこともあった。しかし、あらかじめ外国人を惑わすような道順を教え込まれていたのか、いつもふとした瞬間に見失ってしまうのだった。結局、10か月間の滞在を終えても、相手組織のためには満足に働いたものの、自分のボスのためには何の成果も上げられずにプラハを後にすることになった。
 イリヤはスラーフコを観察しながら話を続けた。
「昔は俺たちも情報を売ることを主体にやってたからな、今回の件も俺たちが何か知ってるに違いないと目を付けてくるんじゃないかと踏んでいる。そこには、あの時の奴らも含まれるかもしれん」
「何度も言っている。私は13年前、向こうの組織の人間とは何の接触もできなかったんだ」
 イリヤは大きくため息をついた。
「理由は何でもいいんだ。俺がお前に特別な役目を与える理由を、他の古株どもに納得させられればな」
 結局、あの時の失態に憤慨しているのはイリヤ以外の組織の重鎮だ、ということか、とスラーフコは改めて苦々しく思う。
 昨年の秋、古い資料の間からかの大学生が書き残したメッセージを発見したとき、もしかするとチャンスかもしれないと思った。既に12年経っている。しかし、今なら何か話してくれるかもしれない。何も知らされていなかったとは言え、聡明な子だった。生真面目な感じがスラーフコと似ていて、ああいうタイプは同じような人格のまま年を取っていくものだ、という根拠のない確信があった。今更あの時の相手組織の正体を暴いたからと言って、自分の立場がよくなるとも思わなかったが、スラーフコ本人もずっと気になっていたことで、ほとんど衝動に駆られるように休暇を取ってプラハを訪ねたのだった。
 後になって、スラーフコは自分の単純さ加減に呆れた。12年前プラハで大学に通っていたからと言って、プラハにそのまま残っているとは限らないではないか。出身は別の街で、故郷に帰っているかもしれないし、海外で仕事を見つけた、ということもありうるだろう。プラハ内で「ああいう生真面目なタイプの人間」が仕事に就いていそうな場所は片っ端から調べてみたが、本名のファーストネームさえも知らない一人の女性を見つけ出すのはほぼ不可能だった。
 スラーフコは再び顔を上げるとイリヤの顔を見て尋ねた。
「どうしてそんなに多くの組織がその盗難物を欲しがっていると思うんだ?」
「おい、少し考えればわかるだろう。今のところ誰に関する資料なのかは分からんが、証拠不十分で釈放された奴かもしれんし、どう考えても罪を犯したのに今もどこかで甘い蜜を吸ってる奴かもしれん。そういうのを罰したいという連中ももちろんだが、自分の犯罪に関する資料かもしれん、という心配のある連中も欲しいだろう。その他は、全然あれらの紛争とは関係がなくても、どこかに法外な値段で売り払ってやろうという魂胆の奴も狙っている可能性があるだろうな」
ICTYハーグは動いているのか?」
「表向きは相手にしていない、といった風だな、単なる裏社会の噂話だと。しかし、奴らも裏で使える人間を抱えているはずだ。それこそ俺たちには想像するしかない領域だがな。実際に何らかの動きを取り始めているのかもしれんな」
 スラーフコは暫く黙った後、
「それで、今回私は何をすればいい」
と聞いた。イリヤは再びニヤリとすると
「当面、この件に関する訪問を受けた際、ヴクと一緒に見張りをやってくれ。実は昔見かけていて忘れていた人物、なんて言うのも出てくるかもしれんじゃないか」
と答えた。
 だからプラハでは誰とも接触できなかったんだと言っているだろう、と同じセリフを繰り返しそうになったが、スラーフコはその言葉を飲み込み、立ち上がった。
「話は分かった。具体的な指示は適宜出してくれ」
と言って、スラーフコはドアのほうへ向かった。外の空気が吸いたかった。どうして13年も前のことを今更蒸し返さなくてはいけないのか、という思いと、昨年の自分の行動からして、自分でも未だに拘っているのだ、という思いが交錯して、今回イリヤが与えてくれるという「名誉挽回の機会」をどう自分の中で処理して良いのか分からなかった。
 こちらからは何も合図しなかったにもかかわらず、ドアに近づくとヴクが外側からすっとドアを開けた。スラーフコは「まるで自動ドアだな」と心の中で独り言ちた。


その名はカフカ Kontrapunkt 2へ続く


『Lenka 2001』 DFD 21 x 23 cm、色鉛筆


『Lenka 1991』 DFD 21 x 21 cm、鉛筆、色鉛筆
最初こちらの絵を2001年バージョンとして描き始めたのですが、あまりにあどけない表情になってしまったため、11歳のレンカとなりました。カーロイと初めて会った頃はこんな感じだったということで。



【つぶやき】
今になって、自分の計画した内容を書き進めていくにはものっすごく勇気がいるんだということに気がつきました…。今回も「こんなの書いて公開しちゃっていいのか?大丈夫か?」って悶えながらの執筆。しかし、ここからアレやらコレやらを書くために今まで伏線ばらまいてきたのに、今になって「勇気出ません」とお話の方向性を当初の予定と変えてしまっては、全体がチグハグなストーリーになってしまう。ああ、「このお話はフィクションです」と声高に叫びたい(実際フィクションなんですけど。)

どうか、挫折しませんように。


🦖🦕🦖🦕