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その名はカフカ Modulace 3

その名はカフカ Modulace 2


2014年10月プラハ

 まるでクリスマスが焦って登場のタイミングを間違えたかのような感覚を覚えながら、レンカは卓上の幾種類もの茶菓子を並べた大皿を見つめていた。同時に用意されたまだ湯気の立つ淹れたての紅茶にも菓子にも手を付けないレンカをちらりと見て、レンカの斜め向かいに座るジョフィエは
「遠慮なく始めてよ」
と言いながら直径三センチメートルほどの花型のジャムサンドをつまみ上げ口に放り込んだ。
 ジョフィエが謝りたいと言っている、とエミルがレンカに告げたのは先月ハンガリーの温泉地ビュクから戻ってきてすぐ後のことだった。ジョフィエに謝ってもらうようなことをされた覚えもないし、だいたいあの娘が人に謝るなどということができるのだろうかと思いながら、レンカは「会うのは構わない」と答えた。しかし問題はどこで会うのか、だった。事務所の場所を教えるのは必要最小限の人数に抑えておきたい。この間のように協力者に余計な心配をかけるのも避けたいから、公共の場で安全が確保されている場所、というのも難しい。そこで結局、ジョフィエがレンカを自宅へ招待する、という形になった。
 エミルの雇い主が来ると聞いて、エミルとジョフィエの祖母は甚く感動し、山のような菓子を焼いてレンカを迎え入れた。レンカが訪れると、祖母はどれだけ深くレンカに感謝しているかを熱心に伝えた後、エミルの上司がエミルの不在の時間帯に妹のジョフィエだけに会いに来る、という奇妙な構図にも何も言わず「お茶とお菓子のお代わりが必要になったら呼んでおくれ」とジョフィエに言って、奥の部屋に引き上げた。
 通された居間の、上品な彫刻が中央の一本脚に施されたテーブルの周りに置かれた四脚の椅子のうちの一脚に腰を下ろしながら、レンカはふと「この椅子の数は、この兄妹が両親と生活していた頃から変わっていないのだろうな」と思った。今まで外観しか把握していなかったが、確かに子供が二人きりで住むにはこの家は大きすぎる。レンカはこの兄妹の両親が失踪する前、どのような職業に就いていたのかはあえて調べていなかったが、経済的には不自由していなかったのだろうな、と二人に残された家を見て思った。大きすぎると言えば、父が一人で残った実家もアダムの自宅も人間が一人で住むにはあまりに大きい、という思いが頭をよぎって、レンカは変なところに思考が飛んだ自分に心の中で笑った。
 それからレンカは、ジョフィエが彼女の斜め向かいの席に座ったのはレンカと真正面から見つめ合いたくないという意思の表れだろうか、それともその席がジョフィエの普段からの定位置だということなのだろうか、と思いながら視線をテーブルの上からジョフィエのほうへ動かした。ジョフィエは既にレンカのほうを見ていて、
「食べないの?ばあちゃんのは絶品だよ?」
と言った。レンカは少し間を置いて
「こういうもの、食べ慣れてないから」
と返した。
「食べ慣れてるとか慣れてないとか、そういう問題なんだ?何かアレルギーとかあるの?」
「たぶん、ないわ。調べたことがないから分からないけど。……おばあ様は、どうして私をこんなに歓迎してくだるのかしら」
「本人が言ってたの、そのまま受け取っとけばいいよ。ばあちゃんはあの時あのタイミングでエミルに職を与えてくれたお姉さんにこれ以上ないほど感謝してるんだよ」
「あなたは、どうなの?あなたがお兄さんと過ごす時間を最大限に奪っているのは、この私だと思うんだけど?」
 レンカの言葉に、ジョフィエは一瞬動きを止め、また何事もなかったかのように菓子の乗った皿に手を伸ばした。
「そんな風に思ったことはない。エミルは元々すごかったけど、お姉さんのところで働くようになってから、もっとできることが増えた。エミルが能力を伸ばしていくのを見るのは楽しいし嬉しい。だから、お姉さんに時間を奪われてる、なんて思ったことは一度もない」
 ジョフィエの返事を聞いて、この子は本当にエミルのことが大好きなんだな、と思うと同時に、レンカは自分の姉に対する歪んだ感情を思い起こし、少し気持ちが沈んだ。
 暫く黙ってから、指先で紅茶の冷め具合を確かめながらレンカが
「ねえ、その『お姉さん』っていう呼び方なんだけど」
と再び話し始めると、ジョフィエは急にばつの悪そうな顔をした。「そう言えば自分はこの人に謝ろうと思って呼び出したんだった」とでも言っているかのような顔だ、とレンカは可笑しく感じると同時に、何だか可愛いな、とも思った。考えてみれば、ペーテルとジョフィエは歳が一つしか違わない。二人とも特出した才能があるから普段は年齢のことなど忘れてしまいがちだが、まだ社会の決め事によって「大人」というカテゴリーに分類されたばかりの存在なんだな、と思いながらレンカは先回りをするように言葉を続けた。
「別に怒ってるわけじゃないの、ただ何だか不自然な呼びかけだなって思うだけ。初めて会った日のことも、謝ってもらう必要なんてない。あなたはお兄さんのことが心配で、私に教えに来てくれたんでしょう?あまりにも複雑極まりない伝え方をしてくれるものだから、理解するのに時間がかかったけど」
 そう言ってレンカが笑うと、ジョフィエもニヤリとして
「さすがに『兄ちゃんがヤバい女と付き合ってる、助けてくれ』なんて言うわけにはいかないよ、あんなところで。それに、録音してないっていうのも百パーセント信用できるか分かんなかったし」
と楽しそうに言った。ジョフィエの言葉を聞いて、「録音されているかもしれないと思いながらあの態度と言葉はどうなんだろう」とレンカは苦笑した。それから
「他に何かないのかしら、『お姉さん』以外に使えそうな呼び方」
と改めて聞いた。ジョフィエは肩をすくめた。彼女なりにいろいろ考えていたという意味なのだろうか、と思いながらレンカは
「エミルは、『レニ』って呼んでくれてるけど」
と言ってみた。ジョフィエはその言葉を聞いて眉を上げた。
「エミル、なんか図々しいな、上司をそんな風に呼んでるんだ」
「でも、私にはずっと敬語で話してくれているわ」
 ジョフィエは再びきまりの悪そうな顔をした。
「言葉遣いを改めてほしいわけじゃないの。その話し方で始めちゃったんだから、今更直しても不自然でしょう」
「でもさ、そんな呼び方して話し方もこのままだったら、あたしたち、お友達になっちゃうよ?」
「何か、問題があるかしら?」
 ジョフィエは探るような顔つきでレンカを見ている。レンカは「私の言っていることはそんなにおかしいのかしら」と思いながら
「私、子どもの頃に十六歳年上の友達ができたの。今でもその人は大切な友達で、そのせいかもしれないけど、友達って言うと、年の離れた人しかいないの。……どうせ私なんて、友達って呼べる人は少ないんだけど、その代わりその少ない友達はみんな素晴らしい人たちなの。だから友達になるのに、年齢の差はあまり関係ないと思うのね」
と言葉を続けた。ジョフィエは表情を変えずに
「変なの。エミルの上司と友達になったら、あたしのほうがエミルより地位が高いみたいになっちゃう」
と言った。
「そこにも、私はあんまり問題を見出せないけど。どうせ私のところで働くつもりなんてないんでしょ?私があなたの上司になることはこれから先もないわ」
 そうレンカが答えると、ジョフィエはやっと笑顔になって
「面白いかもしれないね、お姉さんと友達になるって」
と言ったが、すぐにまた「お姉さん」と口にしてしまった自分に呆れたような、困惑した表情になった。
 エミルと違っていろいろ外に正直に出すところが面白いな、と観察しながらレンカはジョフィエに右手を差し出し
「じゃ、改めてよろしくね。私、レンカ。レニって呼んでくれていいわ」
と言った。ジョフィエもレンカの右手を握ると
「ジョフィエ。そのままジョフィエって呼んでくれればいい。ジョフィンカだけはやめてね。あの呼び方、嫌いなんだ」
と返した。レンカは
「その気持ち分かるわ。私もレニチカって呼ばれるの、嫌いだもの」
と言ってからジョフィエの手を優しく離した。
 レンカは視線をジョフィエの顔からティーカップに移し、カップに両手を回してから、またジョフィエのほうを見て口を開いた。
「ジョフィエ、友達として早速お願いがあるんだけど。あなたがこの間作った盗聴器を見せてみたい人がいるの。この人も私が信用している数少ない友達の一人なんだけど。いいかしら?」
 レンカは数週間前にエミルに渡されたジョフィエが作ったという最新の盗聴器の使い道を見出せないでいたが、その盗聴器を手にしてすぐに「これをサシャに見せてみたらどうだろう」という考えが浮かんだ。サシャはついこの間まで、ロシア軍の現役のスパイだったのだ。レンカもロシア軍が世界で一番良いものを使っているとは思ってはいなかったが、レンカやエミルが「自分たちにとって使い勝手が良い」というだけで高く評価しているジョフィエの作った機器を、サシャだったらどのように判断するのだろう、という興味があった。ジョフィエの腕前を客観的に見られる良い機会になるのではないか、という気がしていた。
 ジョフィエは「どうしてそんなことを聞くんだ」とでも言うような顔をして、あっさりと
「もちろん大丈夫だよ。レニのことはエミルを雇った時から信用してるんだ。エミルを選ぶなんてセンスがいいってね。だからそのレニが信用する友達だって言うんなら、反対する理由がない」
と言い、またテーブルの中央の大皿に目を落とした。
「少なくとも二種類くらいは試してみない?レニが全然食べずに帰ったなんてばれたら、あたしがばあちゃんに叱られる」
 そう言うとジョフィエはココナッツをまぶした小さなボールを口に入れた。レンカは「私の分もジョフィエが食べたって同じでしょうに」と心の中で独り言ちてから
「ジョフィエのお勧めはどれ?それをいただくわ」
と尋ねた。ジョフィエはニヤっと笑うと
「どうせならあたしが食べないやつを食べてくれればいいのに」
と言って、皿の上の祖母の力作の解説を始めた。


その名はカフカ Modulace 4へ続く


『Lenka』 15 x 20 cm 鉛筆、色鉛筆



【追記】
一体どんなお菓子が並んでいたのだろう、という方はこちらの記事の漫画と写真でお確かめください↓


【地図】


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