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その名はカフカ Modulace 14

その名はカフカ Modulace 13


2014年11月エゲル

 エゲルと言えばワインだろう、買い出しは任せてくれ、と言って自転車で街へ飛び出していったペーテルを待ちながら、エミルは以前はIT技術者の研修所だったという無機質な建物の一室で仕事をしていた。
 二日前、レンカとアダムはオーストリアへ向かったが、エミルはレンカに「カーロイの指示に従うように」と言われ、一人ブダペストへ車を走らせた。そしてブダペストでカーロイから受けた最初の指示は「ペーテルを連れてエゲルへ向かうこと」だった。
 ブダペストからハンガリー北東部にあるエゲルまでは車で二時間もかからない。すぐに出発するのかと思いきや、ペーテルが「僕はいろいろ忙しいんだ」と言いだし、エミルは二晩ブダペストで足止めを食らった。やっと出発する段になって、ペーテルはエミルの車に積み込むべく自転車を牽きながら姿を現した。そこで初めてエミルはペーテルが自動車の運転免許を取得してないことを知った。「何でもできる君が、意外だね」と言うとペーテルは「高校の時好きだった子がすごいエコロジストだったんだ。車なんて乗るな、空気を汚すなって息巻いてた奴でさ。それに影響されて、機会を逸した」と答えた。「今からでも遅くないんじゃないの」と聞くと「僕はいろいろ忙しいんだ」と返ってきた。それ口癖だね、という言葉を飲み込み、エミルはペーテルの自転車をどう詰め込んでやろうかと思案した。
 カーロイが用意してくれた当面のアジトである小さな建物は元々IT技術者の研修のために使われていたと言っても、その関連の物はきれいさっぱり何も残っておらず、電気と水が通常通り使えて基本的な家電製品が揃っているだけで、これと言って普通の家屋と変わったところはない。エミルはまだエゲルでの任務の内容を何も聞かされていなかった。今回は自分の能力のどの部分を期待されて遣わされたのかも分かっておらず、今はパソコンを広げて雑用をしているものの、武器は長い物も短い物も取り揃えての出張だった。
 ブダペストで会った際、カーロイは「エミル君の次の動きはアダムをどう説得するかによるんだ。申し訳ないけど連絡があるまでエゲルで張っていてくれるかな」とだけ言った。つまり次に連絡をくれるのはアダムさんということかなと思いながら、エミルは前日のレンカとのやり取りを思い出していた。
 レンカがグラーツでスラーフコと会っている最中はいつもの録音機付きイヤホンで繋がっていた。しかし、スラーフコがその場を離れるとレンカは「後はサシャの助手の人が付いててくれるから大丈夫よ」と言ってイヤホンの電源を切ってしまった。確かにその時点でブダペストにいた自分はレンカに危険が迫ったとしても何もできない。しかし、エミルは嫌でもレンカの僅かな心の動きを声から感じ取ってしまう。レニは僕に何か隠しているなとは思ったが、尋ねる前に通信を切られてしまったし、あえて追及する気もなかった。
 正午前にエゲルに着いてすぐに出かけて行ったペーテルは午後二時を回った今も戻る気配はない。そもそもカーロイがペーテルに大学を休ませてまでやらせたい仕事は何なのかもエミルには知らされていない。とにかく僕は言われたことを余すところなく遂行すればいいのだけど、今回はいつにも増して分からないことが多いな、と思ったところでポケットの中のスマートフォンが振動した。
 エミルはすぐさま電話を取り出し
「ジョフィ?」
と話しかけた。ジョフィエは少し興奮気味に
「エミルのいじり方、やばかったかも」
と言った。エミルは背筋の辺りが僅かに冷たくなったのを感じた。
 九月に身分証明書の偽造品を手に入れて以来、エミルは仕事の合間に一人でその偽造品に隠された機能を詳しく知ろうと調査を続けていたが、さすがにこの忙しさでは落ち着いて取り組めないと観念し、今回プラハを出る前に恐る恐るジョフィエに相談してみることにした。
 エミルの心配をよそに、ジョフィエはその顔写真付きの偽造品を「面白そうな研究対象」としてしか認識しなかったようだった。そこに記載されている情報は、「エミルをたぶらかした怪しい素性の女」のものではなく、「新しい玩具」を形成する一部分でしかない。偽物の身分証明書を手に目を輝かせているジョフィエから感じられたのは、そんな印象だった。
 エミルは一呼吸分の間を置いてから
「どう、やばかったの?」
と聞いた。
「たぶんね、これ作った人たち、カードが読み取り機とかにかけられると認知できるようになってる」
「……つまり、僕が触った時に、そういう読み取り機にかけたのと同じように認識されたってこと?」
「うん」
 エミルは空を見つめ唾を飲み込んだ。それは、どのくらい「やばい事態」なのだろう。
「でも、たぶんかすり傷くらい」
とジョフィエはエミルの心の声に反応するように続けた。
「どういう意味?」
「全部予測でしか話せないんだけど、この偽物が正式な機械にかけられると製造元にバチっと情報が行くんだろうって思うの。でもね、エミルの”覗き見”は正式な機械でじゃないから『あれ、もしかして見られた?』くらいで済んでると思う」
 ジョフィエの返事にエミルは一瞬考えるように黙り込んで、それから口を開いた。
「それ、読み取った位置が向こうに分かるような機能、ある?」
「そんなGPSみたいな機能を積んでたりとかはない。もしかすると製造したところは空港とか国境とかの代表的な機械は把握してて、どこで使われたのかが分かるっていう風にしてるかも。これも想像の範疇」
「一回機械にかけられたら機能しなくなるようにしてるかもね」
「そうかも。でも物理的に離れたところに転がってるカードの情報を消すことはできない。だから、これも丁寧に取り扱ってあげさえすれば、中の電子情報はずっと残る」
「……もし製造した人たちが僕がいじったのに気が付いていて、様子見をしているとしたら、ジョフィが今いろいろ調べてるのも向こうに知られてるってことになる?」
 エミルの言葉に、電話の向こうでジョフィエがニヤリとしたのが見えたような気がした。
「やだな、あたしがそんな鈍臭いことするわけないじゃん。安心して任せといてよ」
「うん。ジョフィの仕事はいつも完璧だ。ありがとう」
 そう返したところで、建物の入口の方で物音がした。エミルは
「何にしても、それそんなに急ぐわけじゃないし、学校もちゃんと行くんだよ。じゃあね」
と少し焦って電話を終わらせた。エミルが電話を切ると同時にペーテルがドアをノックもせずに開け放ち、
「さあ、宴会の準備は万端だ」
と必要以上に大きい声で言った。エミルはペーテルのほうを振り返ると、呆れているのが伝わってくれますようにと願いながら
「宴会って、何の話だい?僕は仕事中は飲まないよ」
と努めて白けた声色で言ってみた。
 ペーテルは両手に提げていた買い物袋を床に置くとミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、エミルが仕事をしている簡易な造りのテーブルの側に部屋の隅から椅子を引き寄せ、エミルと向かい合うように腰を下ろした。
「君が乱暴に車に括り付けたから、自転車のハンドルがちょっと歪んだ気がする」
「そんな予定があるんだったら先に言っておいてくれれば、アダムさんから大きめの車を借りてきたのに。車に乗せて来ただけでも感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「あれは車に『乗せる』とは言わない、『縛りつける』が正しい表現だ」
 ペーテルは返事をするのもエネルギーの無駄遣いだという顔をしているエミルの前にペットボトルを置くと、手の中のもう一本を開けて口を付け、また話し始めた。
「エミルさ、サシャおじさんに会った?」
「いや、今のところ会わせてもらってない」
「僕、九月にサシャおじさんがブダペストまで逃げてきた時に会ったんだけどさ、最初見た時はただのオヤジって感じだった。でもあれ、調節が利くらしい」
「どういうこと?」
「普通の人になろうと思えばとことん普通になれて、ただ者じゃないぞって空気を醸し出そうと思ったらすごいオーラを放出する人になっちゃうみたい。これは気配を消す消さないとは、また違った次元の技だと思う」
「へえ、それって、やっぱりスパイだったからなのかな?」
「なんか、普通の中の普通になる訓練とか、あったらしいよ。僕もできるようになりたい。僕って、男のままでも女の子になりきっても、どこか奇天烈な人間の演技しかできないじゃん?」
「そうだね」
 エミルが「そんなことないよ」と言うのを期待していたのか、ペーテルはあからさまにがっかりした表情を見せた。
 エミルは以前から話に聞いていたサシャという人物に興味を抱きつつも、自分がサシャにまだ会ったことがないというのは当然のことのようにも感じていた。そもそもエミルは今年の六月にアダムに聞かされるまでレンカの「上」に誰が何人いるのかさえも知らなかった。エミルがカーロイに初めて会ったのはペーテルがレンカの事務所に現れた後だった。ペーテルが迷惑をかけるであろうレンカの秘書に挨拶しておこうと思ったのだろう。そんな理由でもなければ、わざわざエミルの出勤中にプラハの事務所へやって来なかったかもしれない。そして六月のリエカでエミルは初めてティーナに会った。それもレンカやアダムに紹介してもらったのではなく、たまたま仕事が重なっただけだという印象が強い。だからエミルは自分が何の理由もなくサシャに紹介されることはないだろうと思っていたし、ましてやヴァレンティンなど、何があっても自分の前に姿は現さないのではないかと思っている。
 九月にヴァレンティンがビュクにいたことは知っている。エミルが護衛をしていたレンカの乗った車を運転していたことも知っている。そして作戦の指示はヴァレンティンから出されていた。しかし、その指示はすべてレンカを通して伝えられたものだった。
 そう言えば、結局カーロイはペーテルにどの程度教えたのだろう。ヴァレンティンの存在も知っているのだろうか。こんなに好奇心が強いペーテルがヴァレンティンに会えないまま黙っているとは思えない。そんなことを思いながら、エミルはペーテルの目を覗き込んだ。すると瞬時にペーテルは眉を上げ、目を見開いた。
「エミル、君は何かいけないことを考えてるな」
「人聞きが悪いね。今回君はどんなお使いを頼まれているのかな、と思っただけだよ」
 エミルの返事にペーテルは首をかしげて見せ、
「僕が、エミルに会わせてくれって頼んだんだ」
と言った。エミルが不審そうな顔をして
「何それ。君は仕事で僕に付いてきたんじゃないの?」
と聞くと、ペーテルは椅子ごとエミルの隣に移動してきてエミルの肩に手を置いた。
「君を、慰めてあげようと思ってさ」
「……一体、何の話をしているんだい?」
「僕の前で隠し事は意味をなさない。君の失恋の傷を癒してあげようって言ってるんだ」
 エミルは、あの子が一体どうやって知りようのない情報をかき集めているのか全然分からないのよ、と言うレンカの声が頭の中で響いた気がした。レンカの事務所の場所も、レンカが誰と結婚しているのかも、ペーテルは「知りたい」と思ったら必ずその情報を手に入れてきた。エミルにはペーテルがそんなに情報技術に長けているようにも見えないが、そもそもペーテルが欲しいと思う情報はコンピュータ上で耕し得る土壌をほじくり返したところで転がっていないものが多い。きっとカーロイはペーテルにはヴァレンティンのことは一切口にしていないのだろう。そうでなければペーテルは今頃あらゆる手を尽くして「謎が服を着たような五人目」について探り出そうとしていたに違いない。
 そこまで考えて、いや、ペーテルがどんなに頑張ったところでヴァレンティンは自ら望まない限り自身に関する情報は一滴も与えてくれないのだろう、とエミルは思った。それからエミルは今一度ペーテルの目を見つめ直し、
「僕には君に癒してもらわなきゃいけないほどの心の傷を負っている覚えはないのだけど」
と言ってみた。ペーテルは面白くなさそうに舌打ちをすると
「何だよ、ノリが悪いなあ。せっかくかけたハッタリにはもうちょっと派手なリアクションが欲しいところだ」
と返した。
 エミルは小さくため息をついてから
「それで?お父さんには何を頼まれてるの?」
と聞いた。ペーテルはニヤリとすると
「残念ながら、君の助手じゃない。明日から君と僕は別行動だ」
と答えた。そして
「だからさ、宴会は今日じゃなきゃいけないんだよ」
と言うが早いか腰を上げ、床の上の買い物袋を持ち上げるとキッチンへ向かった。


その名はカフカ Modulace 15へ続く


『Výdech a nádech před odletem』 23,5 x 29 cm 水彩
なんとnoteでお披露目する前に買い手がついてしまった一枚。恐るべしカフカマジック……。



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