見出し画像

その名はカフカ Modulace 6

その名はカフカ Modulace 5


2014年11月ウィーン

 秋のウィーンが好きだ。そんな言葉がプラハからウィーンまでの直行列車を降りたレンカの頭に浮かんだが、瞬時に「春でも夏でも冬でも自分はウィーンが好きだけど」と言葉をつけ足して、人々が行き交うプラットフォームを眺めた。
 プラハにはもちろん愛着があるが、ウィーンに来るとプラハでは味わえない解放された空気を堪能できる、とレンカは常々思う。レンカがプラハに住み始めたのは大学に進学した十九の時で、あと四年ほど経てばプラハでの生活が人生の半分を超えることになる。しかしレンカは未だにプラハ生まれのプラハっ子の気質に違和感を覚えることがあった。彼らはあまりにもあの街を誇りに思いすぎている、というのがレンカの見解だったが、そう言えばエミルにもアダムにもプラハ出身であることを鼻にかけるような態度を取られたことはないな、やはり人によるのか、そんなことを考えながら、レンカは地下鉄の入口までの長い地下通路を歩き始めた。
 サシャには先月、ハンガリーのケストヘイにあるカーロイの別荘で会っている。しかしサシャがウィーンに落ち着いてからレンカが一人でサシャに会いに来るのはこの日が初めてだ。嬉しさに表情が緩んでしまわないよう気を付けなくては、と思いながら地下鉄に乗り込んだ瞬間、「付けられている」と肌で感じた。よりにもよってウィーンで、自分にとってプラハとほとんど同じくらい安全が保障されているウィーンで、どうしてそうなるかな、と思いながらも、あまり危機感はなかった。この尾行には、殺気のようなものが欠けている。少々面倒くさいが、下車したところで適当に撒いて、サシャとの約束の時間には遅れないようにしよう、そう思った直後に電車が停車し、扉が開いた。まだレンカの降りる駅ではなかったが、尾行の気配が消えたのを感じた。浮かれた気分に水を差された感じだ、と心の中で独り言ちて、レンカはそのまま車内に立っていた。
 結局用心をして最初の予定よりも一駅前で下車したレンカは路面電車トラムに乗り換え、約束の時間きっかりにサシャの事務所兼住居の入っている建物の前に到着した。教えられた部屋番号のインターホンのドアベルを探していると、レンカの背後から何者かが片手を伸ばしてインターホンの上部に設置してあるモニターにチップをかざし、入口を開錠した。誰かがそんなに傍にいることに気が付けなかったことにレンカは愕然とし、その人物のほうを振り返った。そこには年の頃は三十代半ばかと思われる、がっしりとした体格の男が立っていた。
 男はほとんど正方形に見える顔で大きく微笑むと
「サシャがお待ちかねです」
と言って、扉を押し、レンカを建物の中へ促した。レンカに続いて中へ入った男はレンカを案内するように半歩先を歩き出した。
 レンカは男に遅れないよう歩調を合わせながら
「貴方は、あの時の……」
と話しかけたが、男は
「お話はサシャのところに着いてからにしましょう」
と返して再びレンカに微笑みかけ、エレベーターの前まで来ると上りのボタンを押した。
 サシャの部屋のあるフロアでエレベーターを降り、廊下の一番奥にあるドアの前で男が立ち止まると、ドアは内側からひとりでに開いた。レンカが男に促されるまま先に中へ入ると、サシャが微笑みながら立っていた。
 サシャは「よく来たね」と言ってレンカを抱擁した。レンカは「今この瞬間には表情の緩みも気にしなくていいのだな」と思いながら満面の笑みを浮かべた。それからサシャはレンカの体を優しく離すと、レンカがコートを脱ぐのを手伝いながら、レンカをここまで案内してきた男のほうを指し示して
「レンカ、この男は今までスロヴァキアとオーストリアの国境辺りに潜伏していろいろ動いてもらっていた人物なんだが、あまりに優秀なんで、これからはここで働いてもらうことにしたんだ」
と言った。男はサシャの言葉を受けてレンカに右手を差し出し
「スルデャンです。初めまして」
と自己紹介をしたが、レンカはスルデャンの右手を握りながら
「初めまして、では、ないですよね?」
と返した。それを聞いたサシャは吹き出して
「やっぱりばれたか。そうだよ、この男が君が六月にグラーツから逃げ出した時に君を尾行したんだ」
と楽しげに言った。
「だって、私の前で気配を完全に消せる人って、もう世界中を探してもそんなにいるわけないんだもの。すぐ分かったわ」
 そう言ってから、レンカは少し考えるような顔をしながらスルデャンの目を見て
「今日は、どこから私を付けて……付き添ってくださっていたのですか?」
と聞いた。
「地下鉄の、貴女が降りた駅の一つ前からです。もう一駅乗られるのかと思っていましたが、トラムに乗り換えられましたね。……どうかしましたか?」
 スルデャンの返事に、レンカは「つまり地下鉄に乗って『付けられている』と思った時点ではスルデャンはまだいなかったのだ」と思ったが、ここで黙っていては二人に不審がられるだけだと思い
「いいえ。お出迎え、ありがとうございます」
とだけ言って微笑んだ。
 サシャは笑顔で二人の会話を聞いていたが、レンカが礼を言い終わると
「君たち、その馬鹿丁寧な話し方はやめたらどうだい?せっかく年も近いんだし、俺には君たちがお互いに敬語を使う必要性が見出せない」
と少し呆れたように言った。
 サシャの提案にレンカは少し戸惑ったが、
「ああ、そう、そうよね。迎えに来てくれてありがとう」
とスルデャンにもう一度礼を言った。スルデャンは
「どういたしまして。お礼を言ってもらうようなことでもないのだけど」
と返し、それからサシャに向かって
「俺はこの辺で外すよ。何かあったら呼んでくれ」
と言って彼の持ち場だと思われる玄関ホールの左隣の部屋の中へ消えた。
 サシャが「おいで」と言って先に立って歩き出したのに続きながら、レンカは「スルデャンもサシャと対等に話すのだな」と思い、自分のエミルとの関係と比較して少し羨ましくなった。エミルはレンカに対して一生敬語を使い続けるのだろう。
 レンカはサシャを追いかけながら
「ねえ、彼のあの名前……」
と話しかけると、サシャは少しレンカのほうへ首を回して
「ああ、ボスニア出身だ。スルデャンは、俺の手の内の人間の中では珍しく、ICTY時代に獲得した宝だ」
と返した。
 サシャは応接間にレンカを通すと
「好きなところに座ってくれ。まだこの住処には椅子くらいしかない。今回は本当に体一つで逃亡してしまったからね」
と言ってレンカがソファに腰を下ろすのを待って自身も向かい合うように座った。レンカは「何もないとは言うけど、建物も内装も嫌味じゃない上品さがあるものを選ぶところがやっぱりサシャだな」と思った。
 サシャは
「お茶くらいは出そうかと思ったんだが、せっかくウィーンに来てくれたのだから、少しここで話してから外に出て、どこか美味しいところに入ろう」
と続け、レンカの目を見て微笑んだ。
「改めて礼を言う。まさかレンカにこんなに世話になる日が来るとは夢にも思っていなかった。ハルトマン側からの働きかけで、即座に市民権が許可されただけでなく、同時にオーストリア軍の中に役職まで見繕ってもらった。軍事機密顧問なんていう取って付けたようなポジションで、ほとんど出勤する必要もないお飾りだが、暫くは無職でさまようのかと思っていたのが一応は公務員だ」
「私にお礼を言ってもらうようなことじゃないわ。私がハルトマン家の人間であるのは、アダムのおかげでしょ。私が存在することでサシャを助けることができたのは、もちろんものすごく嬉しいけど」
 そうレンカが返すとサシャは少し悲しそうな目をした。
「俺はアダムが君におかしな婚姻を押し付けたことに憤っていたし、そもそも君がこちらの世界に残ったこと自体にも納得していなかった。どうしてアダムは自分の愛する女性にそんなことを強制するんだ、とね」
 レンカはサシャの言葉に少なからず驚き、それから笑った。
「サシャ、それはちょっと違うの。何て言うんだろう、前後関係が逆って言うのかな。サシャはあの頃ちょうどプラハにいないことが多くなってたから知らないと思うんだけど、私、2001年にバイトさせてもらって半年経ったくらいの時に……すごく体調を崩したの。それでアダムは同情して私の世話を焼いてくれて、私を傍に置いておいてくれることにしたの。そうじゃなきゃ、アダムが私に興味を持ってくれることなんて絶対になかったの。だから、アダムに思ってもらうためにはこっちの世界に残るのは必然だったって、言えるんじゃないかしら」
「君はすごく勘がよくて観察力があるのに、自分のことになるとほとんど何も見えていないんだなあ」
「……どういう意味?」
「アダムは確かに優しい男だ。しかし、お人好しじゃない。君はカーロイの身内なんだ、君の調子が悪くなったことにアダムが先に気が付いたとしても、気が付いた時点でカーロイに『お前の義妹、なんかおかしいぞ』って報告して終わらせることも充分可能だったわけだ。それをアダムは一時期仕事もおざなりにして君の面倒を見ていたんだろう?彼にとって君がどうでもいい存在だったのなら、ちょっと信じ難いご奉仕だ。俺はアダムが元々君のことが好きだったんだと踏んでいる」
 レンカはあんぐりと口を開けて、サシャを見つめた。
「ちょっとそれ、無理じゃない?私が倒れるまで、アダムは自分から私に話しかけることさえしなかったわよ?」
「君が俺たちのところに顔を出し始めた頃、アダムは離婚するに当たっていろいろ揉めていた。離婚した後も暫くは面倒なことを言われ続けていたようだし、そんな時に職場にやって来た若い女の子にときめいていただなんて、アダムは誰にも知られたくなかったことだろう」
 サシャの言葉にレンカは急にそわそわし始め
「そんなこと、今更言われても……どうしたらいいのかしら」
と困惑した顔でつぶやいた。
「何もしなくていいんじゃないか、アダムに確かめる必要さえない。ただ、それこそ今更言ってもしょうがないんだが、君がアダムと共に人生を歩みながら犯罪組織とは関係ない仕事をする、というのも充分可能だったはずなんだ。実際、ティーナやカーロイ……ペーテル君は別としても、彼らの家族はこちらの世界とは全く関係なく生活している」
 レンカはサシャの言葉を聞きながら、それはやっぱり無理だ、と思った。十三年前のあの出来事がなければ、今度は自分がアダムと一緒にいようとは思わなかっただろう。やはり人生には「もしも」で想像し得る別の道は存在せず、起きたことは全て必然で、そうあるべき姿なのだろう。
 一瞬考えこむような顔をしたレンカは再び笑って
「私、サシャにはそんなに裏社会で活躍する才能がないように見えるのかしら。サシャに認めてもらえるように、もっと頑張らなくてはね」
と言った。
「俺はただ、君に危険な仕事はしてもらいたくないと思っているだけだ」
「こんな話をしていたら、今日サシャを訪ねた一番の目的を忘れてしまいそうだわ」
 サシャはレンカの言葉に軽く微笑んだ。
「そうだな、取り敢えず面倒くさい仕事の話を片付けるか。こちらの準備は既に先月の時点で整っている。後は受け入れ側が日時の最終決定をしてくれればいつでも物は動かせる」
 受け入れ側、ね、と思いながらレンカは視線を宙に浮かせた。
「どうかしたか?」
「どうもしてない、と言いたいところだけど。元々あの密輸妨害は私のところに来た注文で、暴力沙汰にならずに終決したのはエミルのおかげだっていうのに、そこでほとんど棚ぼたで手に入った戦利品の流れる先は私の口を出すべきところじゃない、余計な心配はするなってアダムもカーロイも私を除け者にするの。……サシャには、私が拗ねてるようにしか見えないと思うけど」
 そう言いながらレンカは「今までもそんなことはいくらでもあった。自分は言われた仕事をしていればいい、全貌を見ようとなんてしなくていいんだと自分自身に言い聞かせて働いてきた」とこれまでの自分を省みた。そんな自分を変えたい、と今の自分は思っていて、その変化は必然であるという気がする。もちろん五月から六月にかけて自分が取った勝手な行動は正しい手段だったとは言い難い。しかし今自分が求めている変化は、ハルトマン病院長の「強くおなりなさい」という課題のうちに含まれるのではないか、とも思う。受け身で見るべきものを見ようともせず漫然と過ごしてしまうのはもうおやめなさい。六月の訪問で言われたことの大部分は、そんな一文に縮約できてしまうのではないか。
 暫く黙ってレンカの表情を観察していたサシャは
「ヴァレンティンとは、そのことについて話し合ったのかい?」
と聞いた。
「いいえ。あの人、私と会うと聞かれたくないことは言わせないように話を持っていってる感じがするのよね。悔しいわ」
「この間のケストヘイで少し驚いたんだが、君とヴァレンティンはとても仲が良さそうだね。彼が君の前に現れるようになったのはつい最近だと聞いていたんだが」
 サシャの目はやっぱり誤魔化せない、ヴァレンティンとレンカが三ヶ月かそこら前に初めて顔を合わせたのではないことくらいきっと感づいているのだろう。そう思いながらも、レンカはただ軽く微笑んで肩をすくめた。サシャも笑顔で「聞かれたくないのなら聞かないよ」と言っているかのような表情を見せた。その表情の動きを見て、やっぱりサシャの気の利かせ方は昔と変わってない、とレンカは嬉しくなり、更に大きく微笑んだ。
 そしてレンカは気を取り直したように、再び話し始めた。
「仕事の話をしようって言ったのに、脱線しちゃったわね。今ヴァレンティンの名前が出たから思い出したんだけど、この間ヴァレンティンに呼び出されてブカレストに行った時にヴァレンティンが『未だにカフカの誰もブカレストに招待したことがない』って言ってたの。でも、サシャの所有する武器貯蔵庫の少なくとも一つはルーマニア国内にあって、まさに今問題にしている物品はそこに収納されているのよね。本当に、ブカレストに行ったことがないの?」
「俺自身はブカレストに行ったことはある。だが、ヴァレンティンと知り合う前に軍の任務で十日間ほど滞在しただけだ。……どこの国も、首都というのは特殊なところだな。国を代表する街だが、国全体の縮図なのかというと、全然そんなことはない。たいてい国の中心に浮く独立した島のような印象を与える。俺はルーマニア国内にいろいろ使える場所を持ってはいるが、ブカレストにはあえて触らないようにしている」
 サシャの言葉に、レンカは数時間前にウィーンに降り立った時に浮かんだ自分のプラハに対する感情を思った。長年住んで、こんなに安全が保障されている街であるにも関わらず自分が抱いている「この街の出身ではない」という引け目のようなものを感じている人を発見するのは、どんな街でも可能なのだろう。自分がウィーンで感じている解放感は、所詮よそ者であるからこそ堪能できるものなのではないか。ウィーンに住むウィーン出身ではないオーストリア人も、自分のプラハに対するのと同じような感情を抱いていても、何らおかしくはない。
 サシャはレンカがまた何かを考え込み始めたのを見て取ると
「やっぱりレンカとの話を短く切り上げて外に遊びに行こう、なんていうのは無謀な計画だな。お茶を淹れてくるよ。ここで外では話せないことをしっかり話し合ってから、その後の行動を考えよう」
と笑いながら言って、立ち上がった。レンカはサシャのほうへ顔を上げると
「ごめんなさい。私、サシャの予定を狂わせてばかりいるわね。手伝うわ」
と言って、キッチンのほうへ歩き始めたサシャに続いた。
 サシャは笑いを含んだ声のまま
「お茶を淹れる、というのはレンカに手伝ってもらうほど複雑な行為ではないはずなんだが。幸い茶葉は三種類あるから、どれを淹れるのか選んでもらおう」
と返して、レンカをキッチンへ招き入れた。


その名はカフカ Modulace 7へ続く


『Klidný let jedné vášně』 20 x 29 cm 墨、水彩



【地図】


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。