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その名はカフカ Modulace 1

その名はカフカ Prolog
その名はカフカ 第一部第一話
その名はカフカ 第二部第一話
その名はカフカ 第三部第一話
その名はカフカ 第三部最終話


2014年9月リュブリャーナ

 三ヶ月ほど前から急激に従業員が減り始めた組織の建物の中は閑散としていた。長年使い続けた本拠地を失うのは惜しかったが、こんな大きな建物を保てるほどの経済力は、今のイリヤの組織にはない。イリヤはため息と共に煙を吐き出すとタバコの火を揉み消し、別室に待たせてある来客の元へ向かうべく重い腰を上げ、自室を後にした。
 最初に消えたのは側近の一人と秘書だった。大して難しい任務ではなかったはずなのに、任務遂行に失敗した二人は戻らなかった。側近のほうは半月ほど後見つけ出し袋叩きにしてやったが、側近本人も任務地のグラーツで何が起こったのか理解していないようだった。
 あれからたったの三ヶ月。元は単なる情報売りの団体だった組織を大きくするのも速かったが、崩れる時はそれ以上に速いのだな、と心の中で独り言ち、イリヤは苦虫を噛み潰したような顔をしながら廊下を歩いた。この三ヶ月間、イリヤは自分をこのような状況に陥れた女を始末することばかりに気を取られていた。確実に消せるようにと幾人かの名立たる殺し屋に話を持ち込んだが、標的の名を出すと大抵断りの返事が来た。最終的にはプラハに住むほぼ無名の若手を見つけて依頼したが、標的と同じ街で生活していながら、その若い殺し屋は手も足も出ないようだった。
 女を潰すための浪費だけだったら、組織がこのように急激に傾いてしまうことはなかったのだろうが、並行して数年来のオーストリアでの取引も、それまで得ていた支援も立て続けに断絶され、イリヤの組織の経営に大きな打撃を与えた。どう考えてもあの女からの制裁という名目の営業妨害だ、とますますイリヤは女の始末に躍起になった。
 女が棲息する街で殺れないのなら女が街の外に出たところを狙うしかない。しかし、情報収集に大金を注ぎ込んでやっと掴んだチャンスだったというのに、プラハから呼び出したくだんの殺し屋は消息を絶ち、殺し屋の道案内のために遣わした部下はそれから数日経った今も戻ってくる気配はない。
 イリヤは来客の待つ部屋の扉の前に立ち、もう一度ため息をついてから扉を押した。この日のイリヤには同伴する側近もボディガードもいなかったが、来客も一人で来ていた。
 ドイツから来たその来客は、イリヤの開けた扉に背を向けるように中央のテーブルの席に座っていたが、イリヤが入ってくると静かに立ち上がり体をイリヤのほうへ向けた。
「ご足労をおかけしまして。イリヤ・ドリャンです」
と言いながらイリヤは来客に右手を差し出した。来客は小柄な男で歳はイリヤと同じくらいかもう少し上かといった印象で、にこやかにイリヤの右手を取った。物腰は上品なのに室内でも黒い山高帽を被ったままなのが不思議だったが、そういった礼儀作法に頓着しないイリヤはさして気に留めることもなく来客に椅子を勧め、自身も向かいの席に着いた。
 来客は既にテーブルの上に用意してあった厚さにして一センチメートルはあろうかという書類の束をおもむろに半回転させてイリヤのほうへ向け
「昨日お送りしたものと同じ内容ですが。こちらにご署名をいただければ全て完了です」
と笑顔のままゆっくりとしたドイツ語でイリヤに話しかけた。
 イリヤは組織の建物の売却に国外の業者を仲買人として入れることにした。国内でイリヤの組織を面白く思ってない連中にも、イリヤの現状は幾らかは嗅ぎつけられているのかもしれないが、それでも大っぴらにスロヴェニア国内の人間相手に直接売りに出す気にはなれなかった。
 この業者が声をかけてきたのはつい三日前のことだ。殺し屋とも遣いに出した部下とも連絡が取れず、女を殺ったのか殺っていないのかも分からない状況にイリヤがこれ以上ないほど苛ついていた時に降ってきた、好条件の申し出だった。
 来客は書類の上に手を置いたまま
「ご提示いただいたご条件にありましたように、引っ越しを急がれる必要はございません。建物と一緒に売却してしまいたい調度品などはすべて残していっていただいて結構です。何にしても、貴重品などは今すぐ移動されることをお勧めします」
と続けた。
 イリヤは来客の手の下の契約書の束に目を落とし
「その辺りは、既に手配済みですので」
と返した。スラーフコとの一件の後すぐに、金庫も金庫を置いていた重要書類専用の小部屋にため込んでいた貴重品も全て自宅へ移した。警護を徹底していた仕事場より自宅のほうが危険が多かったのは以前の話で、今はこの職場も充分不安定な状態だ。不愉快な回想を振り払うように、イリヤは来客の顔のほうに目を上げた。
 来客はやはり笑ったまま
「昨日お送りしたものと、同じ内容です」
と先ほどの台詞を繰り返した。
 イリヤは「電子媒体でもあんなページ数だったのだから、このくらいの厚さになるのは当然だろう」と思いながらも、なぜか落ち着かない気分になってくるのを抑えられなかった。
「ご署名いただければ、全て完了です」
 来客は再び同じ台詞を繰り返すと、最後の署名のページを丁寧に開いてイリヤのほうへ差し出した。
 契約書はドイツ語と英語の二ヶ国語で作成されている。いくらどちらの言語も堪能なイリヤでも、この場で複雑な契約の全文に目を通し直すのは困難だった。昨日全項目にしっかり目を通したはずだ、お前は何を不安になっているのだ。そう自分に言い聞かせ、イリヤは胸ポケットからペンを取り出し、来客の差し出した契約書のページに署名をした。
 来客はイリヤの署名の書き込まれた書類を素早く自分のほうへ引き寄せ
「こちらがドリャン様のお控えとなります。この場でご署名願います」
と微笑みながら言って、控えとなる契約書の署名欄を提示した。
 イリヤが控えに署名するのを見届けると、来客の男は音もなく立ち上がり
「では、ここからの具体的な手配については今夜にでもご連絡差し上げます。私どもにお任せいただければ、ドリャン様は何の心配もなさることはございません」
と言ってもう一度イリヤに握手を求め、出口のほうへ向かった。
 扉を開けたところで来客はしばし立ち止まり、イリヤのほうを振り返った。
「ご多幸をお祈り申し上げます。この業界で大切なのは、共存、ですからなあ。何よりも共存、ですよ。余計な血は流さない、分不相応に足は引っ張らない。これに限りますなあ」
と来客は、イリヤにとっては全く面白くない言葉を、さも可笑しそうに口にすると、その場を後にした。
 残されたイリヤは、手の中の契約書に目を落とした。なぜか、それを開いて内容を確認するのを怖れている自分を感じていた。

 車道に出た男は山高帽を少し後方へずらし、ゆっくりと歩き始めた。しばらく歩くと男の傍にKIAのミニバンが止まり、男は助手席に乗り込んだ。男がドアを閉めると同時に、車は再び走り始めた。
「お世話になりますね。韓国車を、お好みですか?」
と言う男に、運転席のルツァは
「全然です。あ、車のほうの話。この商売、やっぱり乗り捨てなきゃいけないことが多いでしょ。だから今日も乗り捨て候補を使ってます」
と答えながら、サイドミラーに目を走らせた。ルツァとは対照的に、男はさして警戒する様子もなく、まるで風景を楽しむかのように窓の外に視線を動かした。
「今回は、まあ付けられる心配はなさそうですね。そんな人材も経済力も残っていないようだし。どうあれ、国境を越えたところで乗り換えの車をご用意しています。気に入っていただけると思いますよ」
「それは有り難い」
 そう返事をして、ルツァは男の山高帽に一瞥を投げた。それに気が付いた男は笑って
「気になりますか?」
と尋ねた。
「いや、座ってると邪魔じゃないかな、と思って。頭を座席にもたれさせられないでしょ、鍔がつっかえて」
「これは主に薄くなってきた頭髪をどうにか隠そうという苦肉の策でして……とういうのは冗談でしてね、この歳にして、まだその心配はない」
 そう言うと男は山高帽を外した。確かに後頭部までしっかり生えている、とルツァは横目で一瞬だけ観察し、また前方へ視線を戻した。
「あなたは完全に裏方のようだから実際に身に付けたことはないかもしれないが、襟元に取り付けた盗聴マイクほど厄介なものはなくてね、後になって自分の声しか拾ってくれていないことに気が付く。カメラもいろいろと問題児です。私のような小柄な人間だと特にね。衣服に取り付けても、相手のみぞおちの辺りしか撮影してなかったりするわけです。その点、帽子は優秀ですよ。今日のように粗雑な男が相手だと、室内で帽子を被ったままでも気にもしないし、そういったことを気にする人間が相手でも『おっと忘れていました』なんて言いながらテーブルの上に置いて好きなように角度調整ができたりしますからね。ま、こんなタイプの帽子を選ぶっていうのも、ちょっとした心理作戦なわけなんですが」
 男は楽しそうにルツァに説明すると、もう電源を切っておきましょうかね、と言って帽子に仕掛けた盗撮カメラをいじり始めた。
 ルツァは「なんだ、今まで撮ってたのか」と思いながら
「それで、今回のお宅の戦法でドリャンは潰れちゃうんですかね?」
と聞いた。
 男は嬉しそうな笑顔を浮かべるとルツァを横目で見た。
「そりゃあ、うちの坊ちゃん……おっと失礼、うちのお頭に間違いなんてございません。この三ヶ月、あの男があの地位を失わなかったのも、ある程度いじめた後は放っておいてあげる予定だったからです。ところがあの男、何とも図々しいことを企てるものだからねえ」
 男はそう言うと可笑しくてしょうがないといった様子で「ひひひ」と笑いを漏らした。
 ルツァは「この得体の知れないオヤジを雇っているのはどんな人間なんだろう」と頭の隅で考えた。長年ティーナのために仕事をしているとは言え、ティーナの仲間で会ったことがあるのは六月にリュブリャーナに来たジャントフスキーだけだ。あの男も一緒にいた二人もかなり真面目な感じだったけどな、と思いながらも、どうあれティーナが信用する人間から遣わされたんだ、俺がどうこう口を出すところじゃないな、と気を取り直し、客人を確実に送り届けるべく、運転に集中することにした。


その名はカフカ Modulace 2へ続く


『Kavka』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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『その名はカフカ』の第一部と第二部は紙の本でも読めます。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。