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その名はカフカ Modulace 18

その名はカフカ Modulace 17


2014年11月パッサウ

 暖かいところに連れて行ってくれとは言ったけど、まさか本物の暖炉のある部屋に案内されるとはね、と思いながらレンカは暖炉の中で赤く光る炭を見つめていた。ヴァレンティンはレンカが立っていた川辺から少し離れた路肩の駐車スペースに止めてあった車までレンカを連れて来ると「その運転手が目的地は把握している。後で僕も行くよ」と言って姿を消した。レンカが助手席に乗り込むと、車は十分ほど街中を走った後、大きくはないが上品な造りの家に到着した。そして今、レンカは借りてきた猫のような面持ちでその運転手と一緒に応接間の暖炉の前に座っている。
 運転手は笑顔の絶えない五十代かと思われる小柄な男で、「坊ちゃんがいらっしゃるまでご自由になさっていてください」と言って、本人もレンカの座っているソファと向かい合うように置いてある肘掛け椅子に腰を下ろし、本を読みだした。レンカは「坊ちゃん」が誰のことを指しているのかと一瞬頭を捻ったが、すぐに「この状況でこの場に来るはずの人物は一人しかいないではないか」と思い至り、この男とヴァレンティンの関係は一体どういったものなのだろう、と好奇心をくすぐられた。しかし自由にしていろと言われても、男に倣って本を読むくらいしか考えられなかったが、果たしてこの男の前で『ブカレスト。埃と血』を読むのは得策なのだろうか、と悩んだ。ヴァレンティンの部下だからと言ってルーマニア人とは限らないだろうし、ポーランド語で書いてある本なんだから分かりっこない、いや、「ブカレスト」なんてどの言語でもたいてい綴りは似たようなものだ、きっとばれる、と迷い、なかなか鞄から本を取り出せないでいると、運転手の男は本から顔を上げ、微笑みながらレンカのほうを見た。
「ドイツ語はお得意のようですから、何か本をお貸ししましょうか?」
と言う男に、レンカは少し慌てて
「あの、読むものなら持っているのですけど、ちょっといろいろ心配で落ち着いて読書という気分でもないかな、と」
と答えた。
「何を心配なさっているのです?貴女の当面のお役目は先ほど終えられたでしょう?後は高みの見物ではないですか」
「いえ、私の部下が大役を担っているのですから、事が全て無事終了するまで私自身が責任を感じていなくてはおかしいでしょう」
 レンカの言葉に、男は更に大きな笑みを浮かべると
「おやおや、坊ちゃんが重宝がっているお嬢さんだからどんな方なのかと思っていましたが、随分と真面目なんですねえ。あ、褒めているのですよ」
と楽しそうに言った。
 あなたはいかにもヴァレンティンに雇われている人って感じがするわ、という言葉を飲み込み、レンカは
「不思議な、呼び方をするのですね」
とだけ返した。
「何の話です?」
「その『坊ちゃん』というの、です」
「ああ、別に坊ちゃんがそう呼んでくれって言ったんじゃないんですよ。私が勝手に呼び始めたんです」
「あの、どのような関係だったのでしょう。その、お二人が出会った時」
「おや、好奇心の強いお嬢さんですね。その辺りは、坊ちゃんに聞いてください。彼の許可なく下手なことは言えません」
 ますます好奇心をくすぐるような言い方をする。この男、わざとやっているんだわ、と思ったところでレンカの電話が鳴りだした。男の言葉に気を取られていたレンカは目を見開き、素早く電話を取り出して着信音を消したが、男の前で驚いた表情を見せてしまったことが何だか悔しかった。
 男は本を閉じて立ち上がると
「このまま、この部屋でどうぞ。私はお茶でも沸かしてきましょう」
と言って応接間から出て行った。レンカは男がドアを閉めるのを待って電話に出ようとしたが、既に切れていた。レンカが電話をかけ直すと、相手は一瞬で出た。
「ごめんアダム、すぐ出れなくて」
「レニ、でかした。褒めてやる」
 なんだ、もう交渉の結果は他から聞いているのか、私がアダムに直接報告したいだろうって気が利かせられる人はカフカにはいないのか、という言葉が浮かんだが、仕事なんだから全てが秒刻みで進んでいるべきなのは当然だろう、とすぐに思い直した。アダムはレンカの返事を待たずに
「どう転んでも俺にはスロヴァキア、チェコのルートは頭になかったがな。エミルは昨日の夜のうちにルーマニアとハンガリーの国境に移動させた」
と続けた。
「それで、全体の流れとしてはルーマニアから入った運搬がハンガリーとオーストリアを通過する間はエミルが付くっていう理解で間違いないのね?」
「ああ、ドイツに入る手前くらいで俺の情報屋と交代させる。今までエミルと仕事をしたことがある奴らを選んであるから、その辺はスムーズに行くだろう。その後エミルはお前と合流すればいい」
「ねえ、何だかエミルの負担が大きすぎる気がするのは、私だけ?」
 そう言いながら、レンカは暖炉の中に目をやった。ちょうど一番大きな薪が完全に炭になって崩れたところだった。他の薪もほとんど燃えていない。この暖炉は家主が趣味で造らせた飾りのようなもので、家全体に暖房が入っているのですよ、と運転手の男が言っていた。レンカは少し眉を寄せて、言葉を続けた。
「カーロイじゃ、ないんじゃないの?エミルに任せようって言いだしたの」
「何が気に食わない?運搬自体はサシャが出した連中がやる。サシャ自身が同行することはできないが、他にも人間は付けている。エミルはその補佐だ。そこまで重労働というわけじゃないと思うが?」
「エミルの今回の任務は誰の提案だったのかって聞いてるの」
「カーロイが今回は事の発端からしてエミルはいろいろ理解している部分が多いから適任じゃないかと言って、俺が賛成して、ヴァレンティンが悪くない、と言った。その時点ではカーロイが運搬に同伴できないことは分かっていなかった」
「カーロイを、同伴できなくさせたのは誰?」
 レンカはビュクでの一件以来、ヴァレンティンが「レンカの右腕」に腹を立てている気がしていた。腹を立てる、という表現は適切ではないかもしれない。ヴァレンティンの場合、いけ好かない奴だと思う程度だろうか。
 アダムが電話の向こうでため息をついたのが聞こえた。
「レニ、何を考えている?カーロイが無駄な任務を背負わされて出張していると思っているなら勘違いもいいところだ」
 アダムがレンカの心の中のくすぶりを理解し、それを彼女が言葉にできないでいることも分かっているのは明白で、レンカは黙って唇を噛んだ。アダムは一瞬黙った後、再び静かに話し始めた。
「俺たちは、個人的感情にまかせて仕事はしない」
「……殺し屋が出たって聞いただけで私の肋骨が折れそうなくらいぎゅうぎゅう抱きしめてたくせに」
「俺はお前の肋骨を折りそうなくらいお前を抱きしめたかもしれないが、殺し屋を殴り倒しには行かなかった。エミルは適任だと思われた仕事を任されただけの話だ。罰ゲームをさせられているんじゃない」
 これ以上このことについて話しても的外れな問答しかできない、と思い、レンカは再び黙り込んだ。アダムは数秒の間を置いて
「エミルは既に運搬の一行と合流して一時間くらい前に出発したところだ。エミルはオーストリアに入ったくらいのところでお前に連絡を寄こす。その後は通信はずっと繋いでおけ」
と話を続けた。
「ドイツの国境辺りに到着するのは何時くらいになるかしら」
「順調にいけば深夜だな。遅くとも三時くらいには着けるんじゃないか。今のうちに寝ておけ」
 レンカは壁の柱時計を見やり時計の針が午後六時前を指しているのを確認して、「いろいろな時間帯に仮眠を取っておくのには慣れているけど、果たしてこの環境で眠りにつけるものだろうか」とぼんやり考えた。
「そろそろ切るぞ。何かあったら電話しろ。俺は単に待機しているだけだからな、今から購入側と会議のようなものがあるが、その後はいくらでも邪魔していいぞ」
「じゃ、お言葉に甘えていくらでも邪魔させてもらうわ」
 そう言葉を交わしてレンカはアダムとの電話を終わらせた。そして電話を握ったまま、火が全く見えなくなった暖炉を見つめた。引っ掻き棒で炭を動かしてみれば再び燃え始めるのかもしれないが、扱いが分からない人間は触らないほうが良いだろうと思い、何もしないことにした。
 この数日、やるべきことを淡々とこなしていたから考えずにいられたことが、ここに来て自分の頭の中を占領し始めた気がする。そう考えながら、レンカは顔をしかめた。
 何が気に食わないのか、とアダムは聞いた。その質問に正直に答えるとするのなら、自分はヴァレンティンにエミルを、自分が選び抜いた自慢の部下を、認めてもらえていないことが悔しくて悲しいのだ。ヴァレンティンもエミルの才能は認めているのだろうが、彼にとってエミルの殺し屋との一件は「このような立場にありながらあり得ない過ち」、だったのだろう。
 失敗なんて誰にでもあるじゃない、私なんて何回アダムが青くなるような間違いを犯してきたか知れないわ、と心の中でヴァレンティンに抵抗した瞬間、応接間のドアが開き、ドアの向こうにティーポットとティーカップを二つ乗せた盆を持ったヴァレンティンが姿を現した。
「両手が塞がっているんだ、ドアを閉めてくれるかい?」
と言いながらヴァレンティンが部屋の中央のテーブルのほうへ進んで来たのを見てレンカは慌てて立ち上がり、小走りにドアのほうへ急いだ。そしてドアを閉めて振り返ると、テーブルの上に盆を置いたヴァレンティンが可笑しそうにレンカを見ていた。
「一刻も早く閉めてくれ、と言ったつもりはなかったんだが。ありがとう」
 ヴァレンティンがそう言うと、レンカは急に決まりの悪い思いを抱き始めた。一瞬前まで自分はこの人に対して心の中で不満を投げつけていたのに、今はそんな気持ちを見透かされないように必死になっている。
 レンカはドアを閉めに向かったスピードの十倍くらいの時間をかけて、ゆっくりとヴァレンティンが立つテーブルの側に近寄った。
「運転手のおじさんが、お茶を淹れてきてくれるって言ってたけど。何だか似合わないわね、あなたにお茶を運ぶ姿って」
「君はあの男が淹れたお茶を僕が運んできたんだと思っているのだろうが、これは僕が淹れたんだ。君は僕にお茶を淹れる姿は更に似合わない、と言いそうだね。もっとも、僕のそんな姿は十三年前に何度か披露しているはずなんだが。座りなよ」
 暖炉の前のソファから二メートルほど離れた位置にある丸テーブルの周りには五脚の椅子が置いてあり、レンカは少し迷って暖炉に背を向けるような位置に座った。ヴァレンティンはレンカとの間に一つ席を置いてレンカと向かい合うように座り、ティーカップに茶を注いだ。
「そのくらいのことなら、私がやったのに」
「君は飼い主様にご奉仕したい鴉の気持ちが分からないようだ。忘れないでいてほしいんだが、僕たちの友情が復活した時点で君と僕の上下関係は崩壊している。ま、君の僕に対する態度を見る限り、既に君が僕を上司だと思っていないことは明白だけれど」
「私、あなたに対してそんなに図々しい態度を取っているかしら」
 そう言いながら、レンカは運転手の男の「坊ちゃん」という呼び方を思い出した。
「あの運転手の人は、主従関係をとても大切にしている感じね」
「主従、ねえ。彼は勝手に僕を上に持っていこうとしているだけなんだ。僕たちが知り合ったのは僕が子供の時だったが、確かに彼は最初から僕に雇われる立場にあったと言えるのは事実だ」
「……それって、どういう関係なのかしら」
「両親に連れられて西ドイツに亡命した時、僕が七つだった話はしたね?両親は僕がこんなに幼くして外国で生活するようになったら一生子供っぽいルーマニア語しか話せないか、完全にルーマニア語を忘れてしまうかのどちらかに転ぶだろうと心配してね、すぐにルーマニア人の家庭教師を探したんだ。そこで見出されたのが当時大学生だったあの男なんだ」
「随分と、長い付き合いなのね。あなたが裏社会で活動し始めた時、彼はすんなり賛成してあなたに付いて来ることにしたの?」
 レンカがそう言うと、ヴァレンティンは笑って
「君もそうとうな知りたがり屋さんだ。僕がこんな道を歩むことになってしまった経緯にはあの男も一枚噛んでいる、とだけ言っておこう」
と答えた。
 レンカはヴァレンティンの「これ以上聞くな」と言わんばかりの口調に少なからず困惑し、話題を変えることにした。
「アダムの話だと運搬の一行がこの辺りに着くのは深夜らしいんだけど、私の待機場所はここ、っていう理解で間違っていないのかしら」
「君がどうしても僕と一緒に夜を明かしたくないって言うんなら、他の滞在先を見繕ってあげてもいいんだが、この状況で君を安全地帯から放っぽり出したなんてアダムにばれたら、やっぱり叱られるだろうなあ」
「言い方が何とも知れないわね。どうせ私とずっと一緒にいるつもりはないんでしょ」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、いつも現れたと思ったらすぐ消えちゃうじゃない、あなたって。六月のクロムニェジーシュでだって、一晩中同じ家の中にいたのに全然顔を出さなかったし」
 レンカの言葉を楽し気に聞いていたヴァレンティンは大きく微笑むと
「では今夜の僕の予定を聞かせてあげよう。このお茶の後、まず君に晩ご飯を食べさせる。これもアダムに叱られないためにやらなきゃいけないことの一つだね。それから君を風呂に放り込んだ後、客室に閉じ込めて仮眠を取らせ、君の右腕君が連絡を寄こすであろう時間帯になったら君を叩き起こし、君の隣に座って右腕君の一挙一動に耳をそばだてながら運送屋さんたちを待つ。その間、僕は一歩もこの家を出るつもりはない」
と書き出されたリストを読み上げるように言葉を並べた。
 レンカが呆気にとられてヴァレンティンを見つめたまま黙っていると、ヴァレンティンは更に
「そうして君は僕という人間と長時間共に過ごすという行為がどんなに息苦しいことなのかを思い知るだろう」
と悦に入ったような表情で言い添えた。
 レンカは努めて平静な顔を作って見せ、
「そんなの、十三年前に経験済みだわ」
と返し、ヴァレンティンから目を逸らした。


その名はカフカ Modulace 19へ続く


『Emil』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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