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その名はカフカ Modulace 4

その名はカフカ Modulace 3


2014年10月ベルリン

 ヘルムト・ディトリヒはポツダム広場の大通りを見下ろすことができる応接室の窓際に立って、来客の登場を今か今かと待ちわびていた。この高層ビルの最上階に限りなく近いこのフロアに事務所を入れた当初は感動も大きかったが、毎日眺めているうちに窓からの景観にも何の感情も動かないようになってしまった。しかし大切な客を迎えるというだけで急に見慣れた風景が輝いて見える、とヘルムトはひとりでに笑みがこぼれるのを感じた。実際、今日は良く晴れている。
 暫くそうしていると、背後からノックする音が微かに響き、
「先生、お客様がご到着です」
と秘書の声が聞こえた。ヘルムトは素早く振り返ると
「今すぐお通ししたまえ、お待たせするんじゃない」
と言って自身も部屋の中央のテーブルの側に移動した。
 五分も経たないうちに秘書が再びドアを開け、来客を応接室の中へ案内して、「お茶をお持ちします」と言ってから来客の背後でドアを閉めた。ヘルムトは秘書が消えた瞬間に足早に来客に近づくと、まるで相手の右手を掴み取るかのように握手を求め
「いやあ、暫くだね、ジャントフスキー君。しかも君から連絡をくれるなんて滅多にないことだ」
と顔をほころばせた。
 ヘルムトの手を握り返したアダム・ジャントフスキーは着慣れないスーツの中で居心地が悪そうだったが、相変わらずの無表情で
「ご無沙汰しております」
とだけ言った。
 ヘルムトはジャントフスキーをテーブルのほうへ促しながら
「よく似合っているよ」
と彼のスーツ姿に言及した。ジャントフスキーは表情を変えることなく
「ついこの間も、こういったものは似合わないと言われたばかりですが」
と返して勧められた席に着いた。
 ヘルムトは
「そんなことを言うなんて、その発言者のセンスを疑うよ」
と思わず口にしたが、「ははん、さては女に言われたか」という言葉が浮かび
「今度来てくれる時は仕立て屋を呼んでおこう。君に最も似合うものを創り上げてくれるよ」
と言いながらジャントフスキーの向かいの席に座った。ジャントフスキーが
「そのようなご迷惑をかけるには及びません。着用する機会も少ないものですから」
と返したところで、秘書がコーヒーを盆に乗せて現れ、二人の前に静かに置くと、空の盆だけを手に瞬く間に退出した。
 ヘルムトは笑顔のまま
「君も忙しい男だからねえ、仕立て屋なんかで煩わせている時間はないかな。今日も早速本題に行きたい、といったところかな?」
と再び話しかけた。
「ご対応、誠にありがとうございます」
「礼を言われるようなことではないよ、君たちが今回申し入れてくれた物はこちらにとっても喉から手が出るほど魅力的だ」
「事の真相が当事者たちに嗅ぎつけられる前に、全てを完了させるのが理想的です」
「もちろんだ。元々誰と誰の間の売買だったのかは知らせてくれた通りだね?」
「その点でディトリヒ殿に迷惑がかかるのは避けたい所存です。我々のところに来た注文はその売買の妨害でしたが、うちの……技術者の情報操作で結局、妨害に関しては物理的な暴力沙汰には一切ならず、物品だけが誰の手にも渡らないまま残る、という結果になりました」
「しかし妨害の依頼主自体は、教えてくれないわけだね?」
 ヘルムトの質問に、ジャントフスキーの目が一瞬光った気がした。いいね、やっぱりいい男だ、とヘルムトはますます気分が高揚してくるのを感じながら
「大丈夫だ。君たちが伏せておきたい諸事は追及しないでおくよ、いつも通り、ね」
と言って満面の笑みを浮かべた。

 この広場は景観という点では奇妙だという感想しか抱けないなと思いながらポツダム広場のオフィスビルの一つを後にしたアダムは、いくつかの角を曲がって、さして急ぐ様子も見せずに車道に沿って歩道を歩いた。二百メートルほど歩いたところでアダムの傍に静かにAudiのセダンが止まった。アダムが素早く助手席に乗り込むと、車は瞬時に走り出した。
 アダムが窓の外を眺めながら
「いつもの運転手はどうした」
と聞くと、運転席のヴァレンティンは前方を向いたまま
「彼もいろいろと器用な男でね。確かにベルリンの街を彼以上にうまく走れる人間はいないんだが、今日は別の用事を頼んでるんだ」
と答え、一瞬だけ横目でアダムを見て、また前方へ視線を戻した。
「変態のお相手、お疲れ様だね。面倒だとは思うけど、九十年代から僕たちを使ってくれているお客さんは大切にしていかなきゃいけないし、君としか話したくない、という我がままにも対応し続けなければいけない。向こうがそう望む限りね」
「お前がそういうチャラチャラした外見なのがいけないんだろ」
「いや、あの男は完全に君に恋をしている。確かに失礼な話ではあるよ、カフカの心臓である僕を交渉相手として信用しないなんてね。……それで、くだんの武器密輸妨害の依頼の出どころはディトリヒには伝わっていないわけだね?」
「あれはレンカのところに来た注文、ということになっているからな」
「そうだねえ、昔からのお得意さんに、世に聞くレンカ・ハルトマノヴァーはカフカの手の内の人間だって、どのタイミングで知ってもらえばいいのかなあ」
 そう言うとヴァレンティンは交差点を右折しながらアダムのほうを見て
「今回の密輸妨害騒ぎの結末は君のところのIT君のお手柄だと認めざるを得ないけど、僕は未だに彼の失態を許しきっていない」
と言ってまた前方へ視線を戻した。
 アダムは眉を寄せて
「お前はあれをあいつの失態だと言うのか」
と答えた。
「もちろんだ、職務怠慢にもほどがある。あれだけ頭の切れる青年なんだ、とっくに女の生業は分かっていたんだろう?彼がちょっと調べれば女にどんな仕事が来てたかくらいすぐに分かっただろうし、そしたらもっと早い時点で先手を打って全てを円滑に処理できていたはずだ。どう見ても『真実を知りたくないから知ろうとしなかった』ケースだ」
「エミルは充分反省している。……きっと、それだけいい女だったんだろ」
「戦闘能力を有する女に弱い、というのも分からない話じゃない。実際、そういう輩はかなりの数で存在している。君はどうしてティーナがあれだけの支持者を抱えているのか考えたことはあるかい?」
「ないな。何だ、何が言いたい?」
「彼女は軍人として優れていたかもしれないが、大して策略家というわけでもない。もちろん頭はいいが、けっこう考える前に武力にものを言わせて突っ走ってしまうところがある。ただ、そこに魅力を感じてしまう人間というのがいるんだ。しかもあれだけ綺麗な女なんだ。そこにクラっと来た奴らがティーナの部下の大半を占めていると言っても過言ではない」
 ヴァレンティンの言葉にアダムは一つ大きなため息をついて
「どうやったらお前はそういう根性の曲がった物の見方をひねり出すことができるんだ」
とだけ言った。ヴァレンティンは皮肉な笑いを浮かべて
「君には理解できないだろう。レンカを傍に置いておくと決めてから君が彼女に身に付けさせた自衛手段は逃げ足だけ。強い女がよっぽど嫌いと見える」
と返した。
「下手に武器なんか使えるようになって危険な目に遭ってほしくなかった。あいつは変なところで意地っ張りだからな、相手が自分より強いと分かっても手を引かない可能性が高い」
「その気持ちも分からないでもない。どうあれ、先月のビュクではあの子が危険に晒されるというのが僕にとってどれだけ気に食わない状況なのかということを改めて思い知らされたよ」
 それまで外を見ていたアダムはヴァレンティンのほうへ視線を動かした。そして暫くヴァレンティンの表情を観察した後、また窓の外へ目をやった。
「やっぱり何かあったんだろ、何か、未だに解決していない問題が」
「……やっと聞いてくれたじゃないか。そして、的を射た質問だ。そうやって興味を示してくれれば、レンカも喜ぶ」
「茶化すな。十三年もあれば俺だっていろいろ考える」
「君が言う通り、十三年前僕がレンカに出会ってしまった事の発端は事故である前に事件だった。誰が犯人だったのかは未だに分からないし、永遠に真実は明らかにならないかもしれない。あの日、僕はプラハという謎多き街で完全に一人だった。あれはよそ者には本当につれない街だ。サシャもティーナもカーロイもちょうどプラハを離れていて、あの頃の君は別れたばかりの奥さんの弁護士に毎日のように呼び出されていた。僕はあの時、犯人を捕まえるよりもレンカを救い出す方を優先した」
「それで、お前はそれを今でも解明したいと思っているわけだな?」
「どうだろう。長いことあの事件は僕の中で放置されていた。あの後僕にとっての一番の問題は単なるバイト生でしかもカーロイの身内である人間に顔を晒して正体を明かしてしまったことだった。レンカがその時の記憶をなくしたと知った時は好都合だと思った。彼女を巻き込んだ事件を僕が解決できなかったことを君たちに知られるのも嫌だったしね」
「どこまでも見栄っ張りだな」
「何とでも言ってくれ。とにかくこんなに時間が経っているにもかかわらず事件の真相を知る機会が巡ってくることがあるとすれば、それはレンカがあの時偶然被害者になったのではなく、僕たちに関わったことが原因で標的にされたという場合だけだろう」
 ヴァレンティンが最後の言葉を言い終わると同時にルームミラーに目を走らせ、ふんと鼻を小さく鳴らしたのと、外を見ていたアダムが舌打ちしたのは、ほぼ同時だった。
「どうして君はこんなにモテるんだ」
「あれは俺が目的で寄ってきたんじゃないだろう。お前か、お前の車に目を付けて追ってるんじゃないのか」
「この車は君が工面してくれたものじゃないか」
「撒けよ」
「言われなくても」
 ヴァレンティンはそう答えると、車線変更をした。アダムは「尾行を撒くのは簡単だが、何にしてもこの車は手放さなきゃならんだろう。どれを替わりに使わせてやるかな」と考えながら、どうしても思考が先ほどまでのヴァレンティンとの会話に戻っていってしまうのを止められなかった。
 今更何ができる、とは思う。今更あの時起こった出来事の真相を突きとめたところで、レンカの心も体も壊れてしまった過去は消せない。レンカ自身は自分がなくしていた記憶が取り戻せただけで充分満足しているように見える。この十三年間、どうして即座に対応してやらなかったのか、どうしてもっと早く何が起きたのかを解明してやろうとしなかったのか、とアダムは何度も思った。しかしあの頃は全員が、自分たちのことで精一杯だった。ティーナは祖国で仕事を見つけ、サシャは亡命寸前で、カーロイも起業の準備を始めていた。アダム自身も、レンカを自分のところに置いておくことにしなかったら、表の職を他に見つけてヴァレンティンのためには裏でだけ動く人間になっていたのかもしれないな、とも思う。
 ふと、どちらのほうが幸せだっただろう、という疑問が浮かんだ。レンカと共に在る今の自分と、レンカがいない環境で何らかの仕事と裏の仕事を兼業していたかもしれない自分と、どちらのほうがより良い人生を歩んでいたのだろう。尾行が消えたのをサイドミラーで確認しながら、アダムは「分かりきったことを聞くんじゃない、今の自分に決まっているだろう」と心の中でもう一人の自分に言った。


その名はカフカ Modulace 5へ続く


『Adam』21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆


『Valentin』21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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