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その名はカフカ Modulace 13

その名はカフカ Modulace 12


2014年11月グラーツ

 女があの角を曲がるまでは追えていた。曲がった瞬間、気配が消えて、焦って自分も角を曲がってみたが、既にそこにはいなかった。しかし、まだこの辺りにいることは確かだ。そう思ったヴェロニカはその角を曲がったすぐ側の路地から辺りを見張ることにした。
 プラハの中では姿を見かけることさえ不可能だったが、プラハから出てくれさえすれば、女をある程度追うことはできる。しかし女は信じ難いほど勘が良く、先週も尾行を始めた瞬間に感づかれた気がして、すぐに離れた。
 ヴェロニカは「もうここにはいないのかもしれない、ちょっと時間が経ちすぎだ」と思いながら黒く染めたばかりの髪を額から払った。染めた時に髪に変な癖がついたようで、視野に入って邪魔ばかりしている。ヴェロニカの思考が髪に集中した瞬間、背後から
「私は、ここよ」
と声がした。ヴェロニカが素早く振り返ると、三メートルほど距離を置いて、ハルトマノヴァーが立っていた。
 ヴェロニカは、ハルトマノヴァーに最初に何を言ったらいいのか、彼女に何を言いたくて追っていたのかも分からなくなって、その場に立ち尽くした。ハルトマノヴァーもヴェロニカの言葉を待っているのか、黙ってヴェロニカを見つめている。
 ヴェロニカは、やっとの思いで
「一人で、大丈夫なの?」
と聞いた。ハルトマノヴァーは小さく笑って
「あなたが、私の心配をしてくれるの?」
と返し、それから
「私が一人のようで一人じゃないことくらい、あなたは身をもって知っているのではないのかしら」
と続けた。
 ヴェロニカは何と返すべきなのか分からなかったが、何とか
「相手は、私よ?もっと警戒したら?」
と言葉を絞り出した。ハルトマノヴァーは笑うのをやめたが、
「今のあなたが私を殺したところで一銭にもならない。だから、あなたは私を殺さない。そうでしょう?」
と静かに答えた。それからヴェロニカの目を見ながら
「随分と持ち直しが早いのね。まだあなたを解放してから十日くらいだったと思うけど」
と言った。
「私みたいな仕事してると、銀行とか使わないから。……財産は、全部埋めてある。隠し場所まで辿り着けさえすれば、何とかなるの。武器も隠してあるから、今だって武装してる」
「そう。それで、注文も来ていないのに、しつこく私を追うのはなぜ?」
 ヴェロニカは「自分でも分かってないことを聞かないでよ」と言いそうになった。ハルトマノヴァーが「その髪の色、似合ってないわよ」と心の中で笑いながら自分を見ているのではないかと、場違いな考えが浮かんで消えた。
 ヴェロニカは三回浅い呼吸をして、視線を地面に落としてまたハルトマノヴァーに戻し、それから静かに
「エミルに、会わせて」
と言った。
 ハルトマノヴァーは無表情のまま口を開いた。
「まさかプラハに入ろうとなんて、しなかったわよね?」
「私だって、命は惜しい。そんな浅はかなことはしない」
「私ではなくて、エミル自身を追おうとは思わなかったの?」
「エミル、今プラハじゃないの?どうせ私には会えないように仕掛けてあるんでしょ?」
「よく、分かっているわね」
 そう答えると、ハルトマノヴァーはヴェロニカの顔を黙って見つめた。こんな何の感情も読み取らせないような顔を、どうやったら作ることができるんだろう。自分なんかよりこの女のほうがよっぽど殺し屋みたいだ。そんな思いがヴェロニカの頭をよぎった。
 暫くヴェロニカの顔を観察した後、ハルトマノヴァーは
「寝てないの?」
と聞いた。エミルから私の睡眠について何か聞いているのだろうか、と少し訝りながらヴェロニカは
「変なこと聞くのね。まさか私の体を気遣ってくれてるの?」
と口の端を上げて見せたが、きっと笑っているようには見えないのだろうなと思った。
「単に寝ているのか寝ていないのかを尋ねただけよ」
「そう、でしょうね」
「私を追い続けても、あなたはエミルに会えないし、私たちはお互いに用のなくなった対立者とは極力関わらないようにしているから、あなたも自由の身よ。どこか別の場所で別の人のために好きな仕事をしたらいいわ」
 もしハルトマノヴァーの「寝ていないのか」という質問に素直に答えるとしたら、「あれ以来一秒たりとも睡眠を摂っていない」というのがヴェロニカの回答だった。
 ほとんど眠れない、というのは初めて人を殺してから始まった症状だ。まどろみ始めるとどこからか血の匂いがしてきて眠りに落ちることができない。エミルの傍にいて、何年かぶりにやっときちんと眠りにつくことができるようになった。では自分は、その眠りを確保するためにエミルの傍に戻りたいのだろうか?
 初めて人を手に掛けてから、動いていた生命の屍肉を食物として受け付けなくなった。「肉とか魚とか、食べないんだ」と言うとエミルは「アギはそういうタイプに見えないけど」と返して少し驚いた顔をしたが、一緒に食事をする時はヴェロニカに合わせて同じものを食べてくれた。エミルはヴェロニカが動物の死の匂いを嫌がっているのだと、言わなくても気が付いてくれたようだった。
 ヴェロニカはエミルほど優しくて、同時に強い人間を他に知らない。私は自分のために利用したくてエミルに傍にいてほしいのだろうか?いや、そうじゃない。エミルだって、私と一緒にいて幸せそうだった、エミルと自分は一緒にいるべきなのだ。この一カ月余り、ヴェロニカはそんな自問自答を何度も繰り返したが、何が本当なのかは自分でも分からなかった。ただ、六月に来た依頼の遂行に失敗し、エミルと一緒にいた武装集団に拘束されて以来「失敗して良かった」と思い続けていたのだけは事実だった。エミルの大切な人を殺さなくて良かった、と。
 しばし地面に目を落とし自らの思考に囚われていたヴェロニカが顔を上げると、ハルトマノヴァーは先ほどと同じ無表情でヴェロニカを見ていた。ヴェロニカと目が合うと、ハルトマノヴァーはゆっくりと口を開いた。
「もう一度言うわ。あなたは自由よ。好きなところで、好きな仕事をすればいいわ。その”自由”の中に、エミルが含まれていないことだけは、忘れないでいてほしいけど」
 ヴェロニカは働きの鈍くなっている頭で、ハルトマノヴァーは「さあ行け、私の目の前から消え去れ」と言っているんだな、とやっとの思いで理解すると、踵を返し、走り出した。

 走り去っていく殺し屋の背中を見ながら、レンカは「ヴァレンティンだったらこんな状況でも終始笑いながら話を済ませるんだろうな」とぼんやり考えた。残念ながら今の自分の笑顔には迫力の欠片もないことくらい充分心得ている、と思ったところで
「あの女、もう一人くらい殺ったら潰れるな」
とスルデャンの声がした。レンカは声の聞こえてきた左手のほうを向いて
「そうなの?」
と聞いた。
「殺しに向いている人間なんて、この世に一人として存在しない。ただ、自分を強制的に慣らしてしまった人間か、何かのきっかけで頭のネジが吹っ飛んだ人間が存在するだけだ。あの殺し屋は数も大してこなしていないようだが、これから場数を踏んだところで慣れることはできない人間だ」
「そういうの、あなたは見ただけで分かるの?」
「ああ。あの女、相当無理して人を手に掛けて、今その反動に耐えられなくなってるってところだな」
 レンカはもう一度殺し屋の消えた方角へ目をやった。写真で見たよりずっと綺麗な女だったが、目の下の落ちくぼみようが痛々しく、思わず「寝ていないのか」と聞いてしまった。ヴァレンティンがこの会話を聞いていたなら、「君は甘いよ」とたしなめられたことだろう。
 レンカは少しうつむいて、思わず
「可哀そうに」
とつぶやいた。そしてすぐに後悔した。金儲けのために殺しに手を出した人間に同情するなど、若くして戦争を経験したスルデャンのような人の前ではしてはいけないような気がした。しかし、レンカがスルデャンのほうへ目を上げると、スルデャンは
「そうだな、どうしてこんな稼業に手を染めてしまったのかな」
と優しく言った。
 カフカの下に、人殺しを生業にしている人間はいない。彼らの手の内には、戦争で敵対する兵士を殺した経験がある人もいれば、暴力沙汰になった相手の命を奪ってしまった人もいる。しかし、注文に従って人を殺し報酬を受け取る殺し屋という仕事をしている人間は、カフカが必要とする人材ではない。「殺し屋」は、レンカにとって未知の、得体の知れない存在だった。今までも自分を始末するよう依頼を受けた殺し屋はいたのだろうが、直接顔を合わせる機会はなかった。五月のキツネでさえ、殺しが専門ではなかった。レンカを始末しろという指示を受けたからやむを得ず直に人の体を手に掛けずに済む「車の爆破」という手段を選んだのだろう。
 スルデャンの言う通りあのイリヤ・ドリャンが雇った殺し屋が心を麻痺させきれず罪悪の念に苛まれているというのなら、それはレンカでは想像もつかない、壮絶な苦しみなのだろう。しかし、そうでなければエミルが彼女を見初めることはなかったのではないか、とレンカは思う。もし彼女が心臓の裏側まで凍ってしまったような冷徹な殺人鬼だったとしたら、エミルが見抜けないわけがないし、そんな人を好きになるわけがない。
 スルデャンは暫く黙ってレンカを見つめていたが、再び口を開き
「辛いかもしれないが、やはり君の部下にもあの女にも同情の念をあえて持たないようにしてみることだ。考えれば考えるほど二人が哀れになるだろう。だが、君と君の部下にあの女と関わる未来があってはならない」
と言った。
「それは、あなたの個人的意見?」
「今のところ、俺が君の部下の事情を知った上であの女を見て思った個人的見解だが、きっとサシャも同じことを言うだろう」
 サシャの名を聞いて、レンカは視線を足元に落とした。サシャだけではない。後の四人も、スルデャンと同じことを言うのだろう。いや、もっと厳しい言い方をするかもしれない。
 ふと、「なぜ今スルデャンは私にこんなことを言ったのだろう」という思いが浮かんだ。辛いかもしれない?私は今、辛そうな顔をしているのだろうか?
 レンカはゆっくりスルデャンのほうへ顔を上げると
「あの殺し屋、これからどうするの?」
と聞いた。
「暫く動きは追わせるが、君に危害を加えることはまずないようだし、彼女の今後の活動を制限するようなことはしない」
「そうね。あの子に、私は殺せない」
 エミルに私を殺すことを否定されたあの子が、私を手に掛けるわけがないのだ。そう心の中でつぶやいて、レンカは自分自身の言葉に唖然とした。あの子、と言ったか。きっと自分はあの二人の陥った状況にひどく感情を揺さぶられていて、スルデャンにはそれが一目瞭然なのだろう。
 レンカは気を取り直したようにスルデャンに微笑みかけると
「そろそろ、行きましょうか」
と言った。スルデャンも笑って
「そうだな、グラーツでの当面の用事は全部済ませたな」
と言うと、すっと路地のほうへ姿を消した。レンカは一人で歩き出しながら、「スルデャンとこれから先もっと仲良くなったとして、隣を歩く機会は果たして巡ってくるのだろうか」と考えた。例えばウィーンでサシャのところで落ち合って「三人でお茶しに行こう」という話になったとしても、出発地点は同じでスルデャンだけはカフェまで影を潜めて移動して現地集合、とかね、と想像してレンカは吹き出しそうになった。


その名はカフカ Modulace 14へ続く


『Ta, která se jmenovala jinak』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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