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その名はカフカ Modulace 8

その名はカフカ Modulace 7


2014年11月フランクフルト・アム・マイン

 屋外に面した窓は一切設置されていない地下にあっても工房の空調設備は行き届いており、この空気の重さはどう考えても自分の目の前で腕を組んで宙を睨んでいるラーヂャから放出されているんだろうな、とルノワールは落ち着かない気分でラーヂャから一メートル半ほどの距離を置いて座っていた。
 広い工房の中ではラーヂャとルノワール以外にも従業員が数名、それぞれの持ち場で働いていたが、あえて二人のほうには近づこうとはしていないようだった。
 ルノワールが空気の重さにだんだん耐えられなくなり、口を開こうとしたところで工房のドアが開き
「おはようございます、ラーヂャ。なんか、お呼びがかかってたみたいだけど」
と言いながら四十前後の丸顔の男が入ってきた。
 ラーヂャは男のほうを見て
「おう、ヴェロネーゼ、座れよ」
と言ったが、ラーヂャの傍に空いている椅子は用意されていない。ヴェロネーゼは工房を見回し、作業用の丸椅子を見つけるとラーヂャとルノワールの近くに持って来て二人と三角形を作るような位置に座った。ルノワールもヴェロネーゼと「よう」と小声で挨拶を交わした。
 ラーヂャは二人の顔を何の感情も読み取らせない目で見据え
「六月に来た俺を通さなかった注文、覚えてるか?スロヴァキアの身分証明書の偽造だ。外身はルノワールが、中身はヴェロネーゼが、担当したんだったな?」
と聞いた。ラーヂャの質問に、二人は無言で小さく頷いた。ラーヂャが続けて
「データ消せ。言いたいことは、それだけだ」
と言うと、ルノワールは急にスイッチを入れられたロボットのように巻き毛に覆われた大きな頭を揺らし
「ラーヂャ、それはひどいでしょ。ラーヂャはいつも俺らの作ったものを『作品だ』って評価してくれてるのに。作品消せって、それはないでしょ」
と抵抗した。ヴェロネーゼは目を丸くしてラーヂャの言葉にもルノワールの反応にも驚いているようだった。ルノワールは「ヴェロネーゼには分かんないんだ、俺の気持ちが」と心の中で舌打ちをした。ヴェロネーゼが普段注文にどのくらいの情熱を注いで創り上げているのかは分からない。しかし、似たような電子情報を必要な部分だけ変更を加えて読み込ませているのと、毎回ほとんど一から「絵」を創り上げている自分とでは、やはり一つ一つの完成品への思い入れは違うのではないか、とルノワールは思う。完成品はもちろん依頼主へ送り出さなければならない。だからせめて作品のデータだけはいつでも見返せるように、すべて残している。
 ヴェロネーゼは暫く何も言わなかったが、ゆっくりと口を開くと
「了解です。何か、やばいことになったんでしょ?俺のところにあるのは全部消しときます。今の急ぎの注文、出来るだけ早く仕上げたいんで、もう行きますね」
と言って立ち上がり、椅子をもとの位置に戻すと工房の中の自分の持ち場へ向かった。
 ルノワールは呆然とヴェロネーゼの動きを目で追っていた。ラーヂャが忙しそうだからとルノワールが勝手に話を決めてしまった六月の注文は普段の仕事に比べて随分と自由度が高かった。大抵の注文は発行年月日まで指定されるので、それに合わせて当時のデザインを調べ、印刷した後は証明書の使い込まれ方や汚れ方まで工夫する。しかしくだんの六月の注文ではそのような指定は何もなかった。とにかくこの写真とこの名前でスロヴァキアの身分証明書を作ってくれ、それだけだった。だから余計自分は夢中になってしまったのかもしれない、とルノワールは思う。勝手に発行年を決め、その証明書の背景にあるドラマを創り上げた。
 しかし、「ひどい」と言ってしまったが、自分が勝手に受けた注文で今何か問題が起きているのなら、ラーヂャにとって「ひどい」のは俺のほうだよな、と思いながらルノワールはラーヂャに視線を戻した。
 ラーヂャは「さっさと持ち場に戻れよ」とでも言っているかのような顔をしていたが、ルノワールと目が合うと
「データは、俺のほうで残しといてやる。だからお前のほうは消せ。あの注文はうちで受けたものじゃない。それから、もし同じ注文主だと思われる奴から連絡があったら一切相手にするな。だが俺への報告だけは忘れるなよ」
とぼそりと言った。そして更に
「それからこれは工房の全員に関わってくることだが、今すぐにでも製造の工程の大部分を変更せんきゃならん」
と付け加えた。ルノワールはもともと青白い顔を更に青くして
「まさかあれ、ラーヂャが言ってた、こっちの技術を盗む目的でっていう注文だったんですか?」
と聞いた。
「まだ確実なことは何も言えん。さ、仕事だ」
そう言うとラーヂャは立ち上がった。ルノワールも慌てて腰を上げ、座っていた椅子を適当に工房の隅に押しやると自身の作業スペースのほうへ体を向けたが、再びラーヂャのほうを振り返り
「あの、なんか、とんでもない迷惑かけちまったみたいで……」
としどろもどろに言った。ラーヂャはルノワールの顔を見上げると
「謝ることはねえぞ、柄でもないことはするな。儲けは出たんだ。データを消せっていうのも、万が一のことを考えてのことだしな。あの姉ちゃんの身分証を見つめてデレデレできないのは可哀そうだが、これからもっと上を行くものを作ればいいだけの話だ」
と返した。ルノワールは小さく頭を下げると足早に持ち場へ向かった。
 ラーヂャは先ほどまで座っていた車輪付きの椅子を工房の隅の自分のデスクのほうへ足で蹴って転がし、椅子が定位置まで到達したところで再び腰を下ろした。ラーヂャのデスクはルノワールの背の高い棚で囲った作業スペースからさほど離れていない。ラーヂャは棚の隙間から見えるルノワールの背中を横目で見ながらデスクの上に肘をつき両手を組み合わせ、親指の上に顎を乗せた。
 ラーヂャは自分のところに来る注文はすべて匿名で受けているように見せかけて、実のところ依頼主が誰なのかは事前に把握するようにしている。そして自分の工房で製造された商品が使われなくなった、もしくは捨てられた時点で秘密裏に回収するようにしていた。主な目的は偽造技術に精通する第三者の手に渡って技術を盗まれないようにするためだ。
 最初にルノワールの六月の”作品”を見た時は「知らん顔だな」としか思わなかった。しかし依頼主を突きとめてから俄然その身分証明書に顔を載せている女のことが気になりだし調べてみたところ、プラハに住む無名の殺し屋だということが判明した。ビンゴだ、と思った矢先に殺し屋は消え、依頼主はこけた。
 ハルトマノヴァーは生きているのだろう、殺られたら瞬く間に情報が拡散するはずだ。だから殺し屋にも偽造品の依頼主にも興味のないラーヂャにはこの二人の落ちた先など本来なら気にも留める必要はないのだが、唯一の問題は殺し屋が身に付けていたはずのラーヂャの工房から出た製品だった。
 ラーヂャは自然と眉間に皺が寄ってしまうのを感じて「これではルノワールを睨んでいるように見えるかな」と思い、デスクの上の空のマグカップを手に取って立ち上がり、工房に隣接するキッチンへ向かった。
 キッチンに入ると、ラーヂャは出勤してすぐに淹れた小鍋の中の残りのコーヒーを見つめて暫く動きを止めた。
 殺し屋は、どうやって消えたのか。先月からこのことばかりを考えている。ラーヂャが自分の手の内の工作員に探らせて見つからないことなど、ほとんどない。偽造した身分証明書の持ち主も、すぐ見つかった。だから最初は同じ人間を探し出してくだんの偽造品を奪い取るなどわけもないと思っていた。しかし、殺し屋が消息を絶って一ヶ月以上が経過しても、ラーヂャはその殺し屋を見つけ出すことはできなかった。
 自分が探りを入れて結果が出ないことなど、ほとんどない。では、その「ほとんど」に含まれない、結果の出せない部分はどんな厄介事なんだ。ラーヂャはそう自問して、代表的なのはあれだ、ハルトマノヴァーだろう、と即答した。
 つまり、単純に考えて、殺し屋の行方が分からないのは、ハルトマノヴァーのせいだということになる。つまり、単純に考えて、自分が回収したい偽造品は、ハルトマノヴァーの手の中にあることになる。ラーヂャは無意識のうちに、下唇の右端を噛んだ。
 突然頭の中で「あら、いいじゃない。あんた、あの女が気に入っちゃったんでしょ?」と嘲笑うような声が響いた。違う、俺はあの女と接点なんかいらない、単に面白え奴だから何をやらかすか見物してやろうと思っただけだ、とラーヂャは抵抗してみたが、頭の中の厭らしい声の主は含み笑いをしながらラーヂャのことを眺めているようだった。
 ラーヂャは頭の中の気持ちの悪い声を振り落とすように頭を大きく左右に素早く揺らすと小鍋に右手を伸ばし、左手に握っている工房から持ってきたマグカップにコーヒーを注いだ。
 もしこの自分の”単純な推理”が正しかったとして、ハルトマノヴァーがどれだけの技術者を抱えているのかが問題になってくる。しかし、もしハルトマノヴァーの手の内にあの偽造品の価値が分かる人間がいたとして、奴らは偽造業者じゃない、技術が盗まれることはないのではないだろうか。盗まれない、としてもだ、こちらの技術を暴かれるというのは大問題だ。ラーヂャはマグマップの中の既に冷たくなっているコーヒーを睨みつけた。
 しかし、まだあの偽造品がハルトマノヴァーの手に落ちたと決まったわけじゃない。ハルトマノヴァーは、あの殺し屋をどうしたのだろう。キツネの処置のし方から言って、奴らは殺しを嫌う。自衛のための止むを得ない状況でない限り、敵の命は奪わないのではないかという気がする。つまり、あの無名の殺し屋も生きている可能性が高い。
 キッチンでコーヒーを抱えて立ったまま考え事をしているラーヂャの視界に、ひょっこりとヴェロネーゼが顔を出した。
「ラーヂャ、ちょっといいですか?さっき消せって言ったデータ、消す前に確認してもらいたいことがあって」
と言うヴェロネーゼのほうにラーヂャは瞬時に焦点を合わせると
「なんだ、せっかくなら面白い話を聞かせろよ」
と返して、口の端で笑った。ヴェロネーゼは肩をすくめて
「それは自分で判断してくださいよ」
と言うと先に立って工房のほうへ歩き出した。ラーヂャはマグカップをキッチンに置いて手を空にすると、黙ってヴェロネーゼに続いた。


その名はカフカ Modulace 9へ続く


『Renoir』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆
超脇役だというのに、どうしてもヴィジュアル化したくなってしまったルノワール君。



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