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その名はカフカ Modulace 22

その名はカフカ Modulace 21


2014年12月ブルノ

 ハルトマン病院長とレンカの契約更新のための会議は2006年以来、毎年六月の第一日曜日に、会場は病院内の会議室ではなく、病院長の自宅で行われていた。妻に先立たれ、子供たちも独立した後は病院の近くに構えていた邸宅が無駄に大きく感じられて、今は街はずれに以前の邸宅の半分ほどの規模で、庭が敷地の七割を占める家に一人で住んでいる。それでも人の出入りが多い家だが、レンカとの会議の際には庭先に配置している警備員以外は誰も家に残さないことにしていた。
 この日例外的に初めて十二月に開かれた会議にやって来たレンカとアダムを玄関先まで見送った病院長が客間に戻ると、この八年間レンカの弁護士を務めていたダグマル・コレノフスカーが一人で大窓から庭を眺めていた。既に七十代も半ばを過ぎているというその弁護士は、その年齢を全く感じさせない佇まいで、背筋がきれいに伸びている。病院長自身はアダムがレンカの話を持ち込むまでコレノフスカーとは接点がなかったが、病院長の恩師であるアダムの父とも親しかったと聞いている。
「ハルトマン先生の庭は、いつ伺っても手入れが行き届いていますね。私など、冬になるとどうも億劫で、先月からほとんど何もしておりませんよ」
と言う老女史に病院長は
「自分で手入れができれば言うことなしなんですが。そこまではまだ手が回らず、庭師任せです」
と笑いながら答え、続けて
「クレイツァル君は、どうしましたか?」
と尋ねた。コレノフスカーはゆっくりと振り返ると先ほどまで座っていたソファに上品な足取りで近づき、
「お茶を淹れ直してくる、と言ってキッチンへ向かいました」
と言いながら腰を下ろした。病院長も向かい合うようにソファに座り
「彼は自分もこの家ではお客さんなのだということを忘れているようですね」
とつぶやいた。コレノフスカーは病院長の言葉を聞いて、楽し気に微笑んだ。
「彼のように優秀な方が後任を引き受けてくださって、私も肩の荷が下りました。私は数年前からほとんど引退したも同然だったのですけれど、レンカだけは残していたのですよ、任せられる人がいなくて。彼女は、先生との契約が解消されても弁護士は付いていたほうが良いとはずっと思っていましたしね。解約されたからこそ必要になってくる、とも言えるかもしれませんが」
「私としても、クレイツァル君はいろいろな面で適任だと思うのですよ。ジャントフスキーさんたちがオーストリアで仕事をされる機会が多いというのもありますが、数ヶ月前、ジャントフスキーさんのご同僚がウィーンに拠点を移しましてね、その点を考慮しても、クレイツァル君が第一候補ではないかとお話をいただきました」
 コレノフスカーは一瞬「アダムの同僚がウィーンに越してきたこととレンカの弁護士に何の関係があるのだ」と言いたげな目つきをしたが、笑顔のまま
「ハルトマン先生も、お気持ちが軽くなったのではないですか、レンカはご迷惑をおかけしてばかりでしたから」
とそれとなく話題を変えた。
「私自身は大して何もしていませんでしたよ。確かに他の仕事とはまた違う責任は感じていましたが、こうして本当に解約してしまうと少し寂しいものがありますね」
「私、今日驚いたのですよ、レンカが急にこの会議の場で話し始めるものだから。ついこの間まで何も言わずに不機嫌そうな顔をして座っていただけのあの子が」
 コレノフスカーがそう言うと、病院長は微笑みながら
「内面であっても外見であっても、人が変化するというのは、きっかけさえあれば案外難しいものではないのかもしれません」
と返した。病院長が更に言葉を続けようとしたところで、ルカーシュ・クレイツァルが茶を乗せた盆を手に、客間に姿を現した。
「先生のお気に入りのお茶を淹れてはみたのですが、美味しく淹れられているかどうかは保証できません」
と恐縮した表情で言うルカーシュに、病院長は
「君が淹れたのなら美味しいに決まっている、と言いたいところだが、美味しくなかったとしても有り難くいただくよ。実際、君のように何でもできる人がお茶淹れさえも完璧にこなしてしまったら、私は少し怖くなってしまう。せめて一つや二つ、できないことがあったほうが人間として面白みがある」
と笑って返した。

 ハルトマン病院長との会議の後はブルノ郊外に住むコレノフスカー弁護士を自宅まで送り届けるのが習慣になっていたが、この日はコレノフスカーが「ここでもう少しのんびりしていく」と言ったので、レンカとアダムは直接プラハに戻ることにした。玄関まで見送りをしてくれた病院長はレンカに「私たちが八年前に結んだ契約はこれで終わりですが、あの宿題はまだ有効です。いつでも近況報告にご訪問くださっていいのですよ」と笑顔で言った。レンカは、きっと今の自分も名残惜しそうな顔をしているのだろうな、と思いながら微笑んで「では、お言葉に甘えて」と答えた。そんな二人をアダムは不思議そうに見ていたが、何も言わなかった。
 病院長の家を出てから暫く何も言わずに運転していたアダムが
「なんで先生は病院長のところに残るなんて言いだしたんだろうな」
とぼそりとつぶやいた。
「そんなの、私たちの噂話がしたいに決まってるじゃない。お年寄りはそういう話題が好きなのよ」
「ばれたのかな」
「当然でしょ、あの面子なんだから。……今更照れ臭そうな顔しないでよ、そのくらいのこと、覚悟しておいてほしいものだわ」
 レンカがアダムを横目で見ながらそう言うと、アダムは鼻をふんと鳴らして
「今俺がどんな顔をしてるのかは知らんが、別に隠しておきたかったわけでもない」
と返した。
「アダムは、嬉しくないの?もう私、他の人の奥さんじゃ、ないのよ?」
「俺はお前のことを”他の人の奥さん”というカテゴリーに分類したことは一度もない。それよりも俺はお前がハルトマンの鎧を脱いだ途端、厄介事を起こすんじゃないかと気が気でない」
「起こすわけないじゃない、私だって成長してるの」
 レンカはそう言いながらつい一ヶ月ほど前にパッサウで真夜中に一人で外に飛び出して行こうとしたことを思い出し、心の中で小さく舌を出すと、アダムから目を逸らした。
 アダムが「病院長との契約を解消するか」と言いだしたのは、先月のルーマニアからドイツへの武器の運搬と引き渡しが終了した直後のことだった。あんなに渋っていたのに一体どういう風の吹き回しなのか、とレンカが驚いて尋ねると、アダムは「サシャが嫌がっている」と答えた。そんなことはずっと前から分かっていたではないか、とレンカは呆れたが、やはり顔を見て言われると違うのかもしれない。アダムはティーナにどんなに怒られても自分を曲げなかったのに、サシャに責められると効果が全然違う。やはりアダムはサシャに助けてもらう機会が多いから、サシャの要求にはできるだけ応えておきたいという心理が働くということなのだろうか。もしくはサシャのほうがアダムから欲しい答えを引き出す要求の仕方を心得ている、ということなのかもしれない。
 元々レンカとハルトマン病院長との婚姻はアダムがカーロイと相談した上で決めたものだった。だからレンカは「私がハルトマン家の人間ではなくなることをカーロイはどう思うのだろう」と少し心配していたが、カーロイはレンカに「そろそろ終わりにしてもいいんじゃないかと思う。君の名前もいい具合に売れたことだし」とだけ言った。
 ヴァレンティンは、どうなのだろう。「レンカの利用価値が下がる」と言いはしないか、と思ったが、レンカはヴァレンティンに尋ねる機会を逸したままだった。何か思うところがあればアダムに伝えているはずだから、特に何もないのだろう、今日という日はヴァレンティンのことはあまり考えたくないな、とレンカは少し顔をしかめ、窓の外に目をやった。
 今年は暖冬だと聞いていたが、今日は随分と冷え込んでいる。夏よりも秋や冬のほうが好きなレンカは薄く霧がかった風景を「きれいだな」と思いながら暫く眺めた後
「あと十日くらいで、クリスマスね」
と言った。
「そうだな」
「クリスマスって、家族と過ごすものじゃない?普通、伝統的に」
「そうだな」
「私、毎年二十四日の夜は実家に帰って父さんと祝うんだけど」
「そうだったな」
 レンカは前方を向いたまま「このアダムの機械的な短い返答は、私がこの後言いたいことを言わせないように仕向けている努力の結果なのだろうか」と訝りながらも
「だから、今年はアダムも一緒に来ないかなって思ったんだけど。別に泊まらなくていいのよ、車でプラハまで一時間くらいなんだから晩ご飯を食べた後でも帰って来られるわ。姉さんたちも下の子たちが生まれてからはクリスマスもずっとハンガリーだし、お祝いって言っても三人で一緒にご飯を食べるだけになると思うんだけど」
と自分でも驚くくらいの早口で言葉を並べ立てた。
 アダムは一瞬レンカを横目で見て、再び視線を前方へ戻した。
「顔が、赤いぞ」
「自分が今どんな顔をしてるかくらい、把握してるわ」
「……親父さん、腰を抜かさないか、俺みたいなのがお前の男だって言って顔を出したら」
「私は、どっちかって言うと父さんがあなたを驚かせないかのほうが心配だわ」
 アダムはもう一度レンカを横目で見て
「どういう意味だ?」
と聞いた。
「会えば分かるわ。とにかく、私を見ていたら想像もつかないような性格の人よ。カーロイはあの人のこと、初めて会った時に手懐けちゃったけど」
「手懐けた」
「それがいちばん適切な表現のような気がするわ」
 アダムは暫く黙って運転に集中しているかのようだったが、おもむろに口を開き、
「分かった。招待は有り難く受ける」
と言った。アダムの言葉を聞いて、レンカはアダムの顔に視線を移したが、やはりいつもの無表情だった。それからレンカは、静かに声を立てて笑った。
「何が可笑しい?」
「似合わない、なんて言って悪かったわ」
「何の話だ?」
「スーツ。見慣れると、けっこういいかも」
「見慣れるも何も、既に何回も見てるだろうが」
「今までは一年に一回だったじゃない。久しぶりすぎて毎回初めて見るような気分だったの。でも、今日は半年しか置いてないから。新しいのを作ってもらったらどうかしら、もっとアダムに似合いそうなの」
「どうしてこう、俺の周りには小洒落た奴が多いんだ。一枚あればいいだろ、こんなもん」
 もしかすると他の誰かに似たようなことを言われたばかりなのかもしれないと思い、レンカは口をつぐんだ。レンカが黙ったので不安になったのか、数秒の間を置いてアダムは
「どうしても作らせたいって言うなら、付き合ってやってもいいぞ」
とつぶやくように言った。レンカは「今日のアダムは何をお願いしても首を縦に振ってしまいそうだ」と思いながらニヤついた。
 ハルトマン病院長との契約が解消されたからと言って、大きな事件でも起こさない限り、これからもさして解約の影響を感じることのない日々が続くのだろう。それでもレンカは今、自分が人生の新たな段階に足を踏み入れた気がしてならなかった。いや、それは今日実現した解約によってではなく、あの日パッサウで既に始まっていたのだ。エミルのために必死だったのもあるだろうが、ヴァレンティンを相手に自分の意思を曲げずにいられたあの時、自分にとって何かが変わったのだとレンカは思う。
 今日という日はヴァレンティンのことは考えたくないって思ったばかりじゃない、とレンカは眉を寄せ、窓の外に目をやった。遠くの空を、一羽の鳥が飛んでいるのが目に入った。レンカがカフカの飼い主になる、それが具体的に何を意図してヴァレンティンから提案されたのかは、レンカには未だによく分からない。自分は今、彼にとってどんな飼い主なのだろう。レンカ自身は子供の頃からペットを飼ったことがなく、飼い主と飼われる動物の関係はよく分からないが、ペットを飼っている人を観察していると、よくペットのご機嫌伺いをしている気がする。
 そこまで考えて、レンカは小さな吐息をもらした。変に意地を張らずに、今日はヴァレンティンに電話してみようかな、「やあ親友、とうとう私、自由の身になったよ」なんて言いながら。
 ヴァレンティンとの会話を想像し、レンカは自分の顔に大きな笑みが浮かんでいるのを感じた。



その名はカフカ Modulace〔了〕



その名はカフカ V. へ続く


『Let, svoboda, hlídka』 22 x 25,5 cm 水彩



【補足 1】
「クレイツァル君って誰だったっけ?」という場合はこちらでおさらいを↓

【補足 2】
チェコでのクリスマスのメインは12月24日の夜。家族と伝統料理の夕食を取り、赤ちゃんの姿のキリストからプレゼントをもらう(もちろん実際はプレゼント交換)他、信心深い人や伝統をより大切にする人は教会へ真夜中のミサに出かける。

その他、チェコのクリスマスについてはこちらのマガジンの中に収められている記事でどうぞ↓


【地図】


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