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その名はカフカ Modulace 19

その名はカフカ Modulace 18


2014年11月ドイツ・オーストリア国境

 EU圏内の国境において隣り合う国同士が緊迫した関係で軍が目を光らせているなどという状況はほぼ皆無で、真夜中の国境辺りはそこかしこで闇で動く人間がゴソゴソ活動している。だから何を見かけても驚かないし相手にもしないが、その代わり俺のように一人で徘徊している人間の邪魔をする奴もいない。そんなことを考えながら、イリヤは明確な目的地も分からないまま道の両側に背の高い針葉樹がそびえ立つ細い車道を歩いていた。
 目的地がないのではなく、目的地が定まっていないだけだ。狙うべき的が何なのかは分かっている。チェコ寄りのドイツとオーストリアの国境辺りにハルトマノヴァーが出た。与えてやれる情報はそれだけだが、死ぬ気で探してこい。そうイリヤに言い放ったのは、かつてサラエヴォの戦火の下で共に命懸けで売り物になりそうなあらゆる情報の収集に奔走した男だった。今はオーストリアで出身を隠したまま大きな組織を動かしている。今年の六月にグラーツでこの男に買い取らせるはずだった戦犯証拠品は男の手に渡る前に姿を消した。
 奴が自分に対して怒っているのも無理はない、とイリヤは思う。しかし、復讐の矛先をハルトマノヴァーに集中させたイリヤと違い、かつての戦友は「証拠品はどこへ消えたのか」を探ることに意識を集中させていたようだった。しかし分からないままだ、と旧友は言った。ハルトマノヴァーがそれを使って脅しに来たわけでもなければハルトマノヴァーからそれを買い取ったと吹聴している輩が出たわけでもない。とにかく消えてしまった。女を始末しようとしたんだ、と言うイリヤに旧友は「お前は馬鹿か。物の在り処がどこか分からなくなるじゃないか」と冷たく言った。
 かつて戦友だったその男は、イリヤの組織が崩れ落ちてもイリヤを助けようとはしなかった。しかし昨日になって急に連絡を寄こし「ハルトマノヴァーを目撃したという情報が入った」と言ってきた。チェコ寄りのオーストリアとドイツの国境辺りにいる。この話だけでは、今となっては送り込める人材もなければ自由に乗り回せる車もないイリヤには完全に情報不足だ。しかし、イリヤには男の言葉に従う以外に選択肢はなかった。
 細い車道に沿って進みながら、「この先はパッサウのはずだが」と心の中で独り言ち、腕時計のライトを付けて時間を確かめた。午前二時だ。腕時計のライトは一瞬で消え、イリヤはまた前方を見た。そして、十メートルほど先の人影に気が付いた。
 真夜中に国境辺りで密やかに活動する闇の人間どもはお互いに見て見ぬふりをする。イリヤは今一度、そう自分に言い聞かせてみたが、その人影はイリヤを見据えて近づいてきており、イリヤはその人影の目的は自分なのだと嫌でも感じないわけにはいかず、立ち止まった。イリヤが立ち止まっても人影は歩を緩めず、イリヤから三、四メートルほど距離を置いたところで漸く歩みを止めた。
 暗闇で顔は見えないが知らない人間だな、とイリヤは思った。人影は比較的華奢な印象で、攻撃をしてきても何とかなるか、とイリヤが思考を巡らせ始めたところで、人影が
「イリヤ・ドリャン、だね?」
と、どことなくスラヴ語訛りの感じられる英語で言った。女の声だった。そしてイリヤは「しまった」と思った。人影は右手に銃のようなものを握っている。
 イリヤは女の言葉を肯定すべきなのか否定すべきなのか判断がつかず黙っていたが、女には彼がイリヤ・ドリャンであるというのは明白なようだった。女はイリヤを見据えたまま再び口を開いた。
「私今まで、あり得ないほどの報酬がもらえるって、それだけの理由で全然知らない人を何人か殺したの。知らない人だから、殺っても何の感情も動かされないだろうって、きっと平気だろうって思って。浅はかだよね。自分で自分の人生、壊しちゃった。でも、そんな人間にも救われる瞬間っていうのがあるんだ」
 この女、なんで俺を相手にこんな話を始めたんだ、と思いながらも、イリヤは「人殺しを自称する人間が自分の前で銃を握っている」という事実に気が気ではなかった。女は言葉を続けた。
「でもねえ、その救いも、あんたから来た注文で、また壊れちゃった。今まで何の恨みもなかった人を殺してきた私が、初めて自分自身の恨みを込めて、イリヤ・ドリャン、あんたを殺したい。あんたからの依頼さえなければ、まだあの幸せを、保っていられたかもしれないのにって」
 イリヤは女の言っていることの半分も理解できなかったが、とにかくこの女は自分がハルトマノヴァー殺害を依頼した殺し屋で、今この瞬間は自分を殺すためにここに立っている、ということだけはかろうじて飲み込めた。まず逃げられるか否かを考え始めたが、この近距離では走り出した瞬間に撃たれるだろう、動かないほうがいい、と思い直した。では何をすべきか?今まで自分はどう生きてきた?組織のトップになるまでは、とにかく交渉して説得して相手を丸め込む、それが、その話術こそが自分の一番の武器だったではないか。今ここでそれが通用しないと、誰が言える?そう思ったものの、イリヤは女に何を話したらいいのか全く分からなかった。
 イリヤは水分を失ってべたつく口をやっとの思いで開くと
「誰に、頼まれた?」
と聞いた。女は馬鹿にしたように鼻で笑い、半ば叫ぶように
「あんた今、私の話聞いてた?私が、あんたを殺したいの。私という人間が、あんたを恨んでいて、その恨みのために殺したいって言ってるの」
と言葉を投げつけた。同時に銃を握った女の右手が自分のほうに向かって動いた気がして、イリヤは足がすくんだ。しかし、女は興奮している。撃っても当たらない可能性もあるのではないか。一か八かで逃げてみるか。そう、イリヤが思った瞬間だった。
「だめだよ、殺しちゃ」
と言う若い男の声がした。いつの間にか、女の後ろに新たな人影が立っていた。男の言葉はイリヤの知らないスラヴ語だったが、言っている内容は理解できた。表情は見えないが、女も驚いて動けなくなったようだった。男はゆっくりと左手を上げ、女の左肩に触れた。
「殺しちゃ、だめだよ」
と男が繰り返すと、女はか細い声で
「どうして?」
と聞いた。
「君が、傷つくから。どんなに恨んでいる人間が相手だったとしても、殺してしまえば、君の内側の傷が更に深くなるだけだ。そんなことは、僕が許さない」
 男はそう言うと、今度は女の銃を握る手の上に右手を重ねた。女が微かに震えて
「だめ、誤射したら、どうするの」
と言うと、男は
「大丈夫だよ。僕がちゃんと受け取るから、ゆっくり右手の力を抜いてね」
と答え、そっと右手を女の手の中の銃に伸ばした。そして女の指の間から銃を抜き取ると、安全装置を戻したのか、片手で少し操作してから上着のポケットに銃を入れた。それから男は、女を両腕で抱きしめた。
 イリヤは呆然と、男の一連の動きをまるで劇場で芝居でも見ているような感覚で追っていたが、やっと我に返り、「何をやっている。逃げるなら、今だろう」と頭の中で自身に向かって叫ぶと体を半回転させ、全力で走り出した。しかし、十メートルも走ったか走らないかのうちに、イリヤは立ち止まざるを得なかった。そこにも、新たな複数の人影が立っていた。
 中心に立っている人物が少し前に出ると
「イリヤ・ドリャン殿、ハーグから、お迎えが来ています」
と、まるで笑っているかのような声で言った。
「今年の六月、貴方が秘密裏に売買しようとしていた戦犯証拠品は、貴方が手元に残していたものも含め、すべて旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷検察局に提出されました。それが、何を意味しているのか、お分かりですね?」
 こんな暗闇では顔は見えないが、イリヤは何となくその人物を知っているような気がした。あの、ハルトマノヴァーが連れていた男と同じような、随分と古い記憶を思い起こさせるような感覚がある。
 呆然と立ち尽くしているイリヤにその人物は
「今のところ、参考人扱いです。貴方は元々ICTYに起訴されていたわけではない。この六月の騒ぎは、彼らにとっても想定外でしたからね」
と言い添えると振り返り、
「では、後は頼みましたよ」
と言って、その場から立ち去った。そして入れ替わるように、その後ろに控えていた複数の人影がイリヤに素早く近づいてきた。

 まるで体の芯を抜かれたように力の入らなくなってしまったヴェロニカの体を引きずるように路肩に身を寄せ、二十メートルほど先の車道でイリヤ・ドリャンが連行されるのを見届けると、エミル自身も立っていられなくなり、その場にヴェロニカを抱えたまま座り込んだ。ドリャンが拘束されると同時に姿を消したカーロイは、きっとここにいるのがエミルであることは分かっていたのだろう。しかし、こんな暗闇でも、エミルの目にはカーロイが自分たち二人に一瞥もくれなかったことは明らかだった。
 エミルは自分の腕の中で震えているヴェロニカに話しかけたかったが、会話を始めるとすぐに「アギ」と言ってしまいそうで、なかなか口を開けなかった。暫く二人とも何も言わなかったが、ヴェロニカのほうが先に言葉を発した。
「ここで、何してるの?」
「……仕事。君が今してたこととは、関係ない仕事、なんだけど」
「ちょっと、あり得ない偶然」
 そう言って、ヴェロニカが少し笑った気がして、エミルはふわりと心臓の辺りが温かくなったのを感じた。しかしこれは偶然ではない。イリヤ・ドリャンはきっと何らかの方法でレンカの現在地を突き止めたに違いない。そしてそのドリャンに吸い寄せられたヴェロニカと運搬の引き渡しを終えてレンカの元へ向かおうとしていた自分が近くにいた。何の偶然でもない。
「どうやって、私がいる場所を見つけたの?」
「声が聞こえたんだ」
「そんなに大きな声で話してたつもりはないけど」
「充分大きな声だったよ。……もし、小さな声だったとしても、僕は君の声を聞き逃さない」
 そう、僕は何があっても君の声を聞き逃さない。同じ言葉を心の中で繰り返し、エミルはヴェロニカを抱く両腕に更に力を込めた。会いたかった、声を聞きたかった、これで終わりなんて、あんまりだ。エミルはこの一ヶ月半、意図的に言葉にしないように努めていたものが、頭の中に溢れ出し、心の中を占領し始めたのを感じないわけにはいかなかった。エミルはドリャンたちが消えた方角を見つめたままだった視線を、ヴェロニカの顔に移した。自分はこの女性を、勝手に理解したつもりになっていた。とても、強い人だと。僕のことなんてさっさと忘れて知らないところで同じ仕事を続けていくんだろう、そんな風に思っていた。いや、本当にそう思っていたのだろうか。そんな風にでも思わなければ、自分のほうが壊れてしまいそうだった、それだけのことだったのかもしれない。
 エミルは自分の左腕にもたれかかり前方を向いているヴェロニカの頭を自分の顔のほうを向くように少し動かし、再び話しかけた。
「何て呼んだらいい?」
「なんでそんなこと聞くの?好きな呼び方で、勝手に呼んだらいいじゃない」
「いろいろ考えたんだ。ヴェリだと何だか短くしすぎてる気がして、やっぱりヴェルチャが妥当かな、とか」
「私もヴェルチャのほうが、好きかな」
 いつの間にか、ヴェロニカの震えが止まっていた。十一月の真夜中の屋外は冷え込んでいたが、エミルは寒さを感じなかった。エミルは暫くヴェロニカの顔を見つめてから、おもむろに
「ねえ、ヴェルチャ、一緒に暮らそう」
と言った。ヴェロニカは、まるで何を言われているのか分からなかったかのように表情を変えなかったが、一呼吸分の間を置いて、口を開いた。
「何言ってるの。私なんて、プラハに入れてもらえないよ?」
「プラハの郊外に部屋を借りればいい。そうやってプラハの外から毎日通勤してる人なんて、いっぱいいる」
「エミル、その前に首になっちゃうよ」
「ならないよ。……きっと、分かってもらえる」
 エミルがそう言った瞬間、エミルの耳の中でレンカがイヤホンの通信を切った音がした。


その名はカフカ Modulace 20へ続く


『Pas de deux 』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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