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その名はカフカ Kontrapunkt 5

その名はカフカ Kontrapunkt 4


2014年6月リュブリャーナ

 長くて二週間。アダムのその言葉を信じて、レンカはきっかり二週間分の旅行準備しかせず、二週間後にはプラハの事務室に座っていつも通り仕事をしているのだ、と思い込もうとしていた。旅行が嫌いなわけではない。仕事での移動も多い。しかしレンカは今回の出張はあまり気が進まなかった。今まで絶妙な均衡を保っていた自分の人生の一部が壊されてしまうような、あまり歓迎できない出来事が彼女を待ち構えているような予感がしていた。
 ティーナがレンカたち三人に用意した滞在先はリュブリャーナの中心街からは離れた住宅地の片隅に建てられたマンションの最上階だった。リュブリャーナ市内ではエミルは表向きは単独行動を取ることになっていた。アダムとレンカの市内での移動手段は車、エミルは自由行動を取りたいときは公共のバスを利用し、秘密裏にレンカたちに付き添う時はティーナの協力者がエミルのために車を出すことになっている。チェコのナンバープレートでは目立つことから、アダムは道中オーストリアナンバーの車に乗り換えてあったが、それでも同じ車に乗っていればすぐに覚えられてしまうだろう。それならレンカはアダムだけを同伴してリュブリャーナに乗り込んできたのだと思ってもらったほうがいい。
 予定通り午後六時ごろプラハを出発した三人は午前二時前に目的の場所に到着した。
「部屋数が、何とも知れんな」
というのが、アダムが指定された最上階のマンションに足を踏み入れた時の最初の台詞だった。玄関を入るとすぐに、やたらに広い居間とダイニングキッチンを兼ねた一室があり、その他の水回りを除けば大人用の寝室が一室、子供用の寝室が一室あるのみだった。
「社長さんには、その子供部屋で我慢してもらうとしよう。エミル、俺と今から数日間、夫婦だということでもかまわんか」
「アダムさん、妙な言い方しないでくださいよ。どうせ僕たち、同時には寝ないでしょ」
「そんなに四六時中警戒して誰かが見張りに立たなきゃいけないなら、二人が休んでる間、私が起きててもいいわよ」
 レンカの一言に、アダムはまるで相手にしないといった風に
「レニ、お前は寝たいだけ寝てろ。目的の物が手に入るまで、かなり神経を使うことになるだろうしな」
とだけ言った。
 三人とも、普段から睡眠時間は短かった。レンカは、今からプラハへ帰るまでアダムとエミルは更に眠る時間を削られるのだろうなと思いながら、その夜は早々に宛がわれた子供部屋に引き上げた。

 翌朝は三人で居間に集まって、出発前にアダムが大まかな構想を練った作戦の確認から始めた。昨夜は無駄に広いだけに見えた中央の一室も、改めて見回してみると、ベージュを基調とした落ち着いた内装で品があり、部屋の一辺の壁全体を占める大きな窓の外に付いているバルコニーも華やかすぎないデザインで工夫が凝らされていた。開け放した窓からは涼やかな風が吹き込んで心地よく、これからどんどん暑くなる上に高層住宅の最上階なのだ、このくらいの窓が付いていないと過ごしにくいのだろうな、とレンカは思った。この建物自体の安全性はティーナの協力者のお墨付きだという。下の階は全ての部屋が埋まっているというわけでもなく、居住者の総人数は多くないらしい。そしてその協力者によって全ての居住者の身元は確認済みだった。
「ティーナが置いているのはリュブリャーナではこの一人だけだ。今日中に顔を出すだろう。情報屋、と言うのも憚られるな、奴の働きは他の単なる情報提供者や監視役とは比べ物にならない。俺とカーロイからはスロヴェニア国内には誰もいない」
「やっぱり最初に独立しちゃったから、縁が薄いっていうわけね」
「今置いている人間の分布もあの頃の活動範囲と使っていた人間の出身地にかなり依存している。バルカンでももっと東に進めば話も違ってくるが、何にしてもティーナの情報屋が圧倒的に多い」
 そこまで話して、アダムはエミルの視線を感じた。
「どうかしたか?」
「いえ、別に」
エミルは短くそう言うと、手元のタブレットに目を落とした。
 エミルがレンカのもとで働きはじめたころ受けた説明では、レンカの義兄でハンガリー人のカーロイ、ポーランド人のティーナことクリスティーナ、イギリス在住のロシア人のサシャことアレクサンドルの三人はアダムの「昔の同僚」で、レンカは2001年頃初めて彼らのところでバイトした頃に会っていたという話だった。しかし日が経つにつれて、エミルは彼らが「昔の」どころではなく、今も現役の同僚で、強い連帯関係にあることに気がつかざるを得なかった。それでも彼ら三人についての詳しい説明は、アダムからもレンカからもなされなかった。エミル自身はそれに対して不満があるわけではない。自分の仕事自体に支障がなければ、アダムが話したがらないことを聞き出そうという意思もない。ペーテル君、すべてを知らされていないのは君だけじゃないんだよ、とエミルは心の中でつぶやいた。
 アダムの話を聞きながらワイヤレスイヤホンを手の中で弄んでいたレンカは、アダムが言葉を切ったタイミングでエミルに
「エミル、この新しいイヤホン、受信の調節が難しいんだけど。あなたの声が大きすぎたり小さすぎたりするのよ」
と言った。エミルはレンカからイヤホンを受け取ると
「この間の爆発の時に壊れちゃったのよりは更に進化してるって、妹は言ってましたけどね」
と言いながらイヤホンをいじり始めた。レンカたちが仕事で使っているイヤホンは電話などの付属品ではなく、それ自体が本体で、肉声の送受信の他に録音機能も付いていた。そしてなるべく目立たぬよう、できうる限り小さい作りで、それゆえ構造は複雑だった。
「ちょっと僕でも分かんないですね。作った本人に聞いてみます」
そう言うと、エミルは電話をポケットから取り出して席を立ち、寝室へ向かった。
 アダムはエミルを目で追いながら
「ここで話せばいいのにな」
と言った。レンカは呆れたように
「可愛い妹との話は私たちなんかに聞かれたくないってことくらい分かってあげてよ」
と返した。
 アダムは理解できん、とでも言うように肩をすくめ、再び話し始めた。
「今のうちに既にエミルは把握している話をしておくぞ。リュブリャーナは首都とはいえ小さな街だ。こういった街では一つの組だけが大きくなってマフィア化しやすい。しかしだ、実際にはここでは二つの組織が競り合ってる状態が続いている。一つは旧ユーゴ時代から続く古株の組織だ。もう一つは90年代に情報を売っていたグループが犯罪組織化したものだ」
「それが、13年前に依頼した組織ってことね?」
「あの頃が過渡期だったんだろうな。2000年くらいを境にだんだん薬や銃器の売買に手を出すようになって、今ではそっちが専門だ。今回の件も把握はしているだろうが、どこまで深く関わっているのかはまだ分からんな」
アダムがそこまで話すと、エミルが居間に戻ってきて、レンカに
「直りました」
と言ってイヤホンを返した。レンカは「ありがとう」と言いながらエミルの表情を追った。いつもと変わらない落ち着いた表情だった。
「ねえ、私、妹さんに制作費を支払うべきだと思うんだけど?」
とレンカが聞くと、エミルは
「材料費だけで充分です。あの子には他に収入源があるし、あんまりお金を持たせるのも良くないので。手作業に集中してるうちは精神的に落ち着くみたいで、こっちも助かります。アダムさん、話を続けてください」
と言ってアダムのほうを見た。アダムは小さく頷くと口を開いた。
「レニ、お前にはこっちの新しい組織のほうに直接顔を出してもらう」
「よく分からないわ、私が顔を売る必要があるのはいつも私の名前の効力があるところでしょ。バルカン半島で一体どんな効き目があるっていうのかしら」
「古株の組織のほうは駄目だろうな。しかしこっちの新しい方はオーストリアに顧客もいれば多大な支援を受けている組織もある。ハルトマンの名前の効果は抜群だ」
「13年前の依頼主がアダムたちだったと知られている可能性は?」
「ゼロだ。何かの間違いで知られていたとしても、お前と2001年の俺たちとを関連付けるのは難しい。いくら同じプラハから来たと言っても、ハルトマノヴァーは2006年にいきなり降って湧いたと、誰もが信じて疑わない」
 レンカは少し間をおいて、つぶやくように言った。
「でも、あの頃顔を出していたのは、私だけ、なのよ」
「心配するな。お前が弱気にならない限り、奴もあの時の使いっぱしりの大学生だとは気がつかない。いつも通り、強く出ろ」
アダムはそう言って笑ったが、レンカは得体の知れない不安を拭いきれなかった。何が自分をこんなに不安にさせているのだろう。万が一、13年前プラハで接触していた人物が私を認識したとして、一体何が起きるというのだろう?プラハまで出てきておきながら何もできなかったあの人を怖れる必要が、果たしてあるのだろうか。
 アダムはさらに言葉を続けた。
「それから国外から同じ目的で来ている人間に、お前が顔を出して意味のある場合は当たる。あとは裏工作だな。エミルはそのほうが嬉しいだろう?」
「どちらも楽しいですよ。確かにレニが外部の人と対峙しているときはいつも危険と隣り合わせで余計緊張してしまうけど」
 エミルの返事をうわの空で聞き流していたレンカは、アダムと視線がぶつかって我に返った。
「レニ、どうした?」
心配そうに聞くアダムの右手が自分のほうに動いた気がして、レンカは慌てて
「大丈夫よ」
と答えて目をそらした。エミルの前でそう頻繁にアダムに慰められている姿を披露するわけにはいかない。13年前に二日間記憶を失った後は、そんなことも多かった。心も体もぼろぼろになってしまったその頃、傍にいさせてくれと言っては仕事をするアダムの背に寄りかかって何時間も過ごしたり、手を握ってくれと言っては震えが止まるまでアダムに手を握らせたりしていた。しかしもう何年も、そんな要求をする必要はなくなっていたのに、アダムにその頃の自分を思い出させるような表情をしていたのだろうか、それとも五月の弾薬庫の一件で、アダムの中に昔の心配事を再び目覚めさせてしまったのだろうか、とレンカはアダムの微かに動いた右手を思いながら考えた。
 不意に
「絶妙な均衡を保っている君の人生?それって、臭いものに蓋をしてきた、と言い換えられるんじゃないのかい?」
と、誰かが耳元でささやいた気がした。誰だろう。自分の心の声だったのだろうか。自分の声とは違う、何者かの声のような気がしたが、誰なのかは思い出せなかった。
 レンカは再びアダムと目を合わせると
「大丈夫よ、強気で行くから。いつも通り」
と言って微笑んだ。


その名はカフカ Kontrapunkt 6へ続く


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