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「あの世」へたどり着くまでは、ずっと修行の日々。

葬儀で泣き崩れた義母の立ち直りは、そこそこ早かったように思う。

次の日にはケロッとしていて、今では結婚生活の愚痴まででてくる。

だけど、その一方で、祭壇がある仏の間の隣にある元からの寝室で寝ようとしない時がある。

時に、テレビのあるリビングに別の布団を引っ張り出してきて寝ているときもあるし、ひとりで寝るのは寂しいようだ。


そんな義母の認知症は、一段とすすんだ気がする。


そんな義母にここまで振り回されるとは、思いもしなかった。


ときどき、想像もしないことをしてみたり、突拍子もない事や、憎まれ口や、心無い事を言ってみたりする。


基本、「私すごいじゃん!」ってな位に穏やかに接しているが、時々、言い返してみたり、時には噴火する。


たまにね。


ただ認知症だからなのか何なのか、そのことも忘れているようだから、私も忘れるようにする。


だから、義母は、また普通に頼ってくる。


義母は認知症になるまで、長い間、そう私に楯突いて言葉を発することはなかった。


若い頃、それまで黙って聞いていた私が、言い返し始めてからは。


その代わり、会話もそうなかった。義母とは、より距離感をとるようにしていたから。


ここにきて、また義母の言葉に振り回されるとは思いもしなかった。

神経も図太くなったし、そう傷つくようなことはないが、どうしても若い頃を思い出す。


かといって、認知症の義母に向かって、腹を立てるわけにも、必要以上に言い返すわけにもいかない。


「良い嫁になろう」だなんて思うことは、とうの昔に辞めたが、人間としてはどうなんだろう・・・。


嫁いできてから今まで、数々の山を越えてきたつもりだが、最近のわたしは、いざこざが起こっても、若い頃に乗り超えた山に比べればなんてことないので、いわば平和ボケで、もう山なんてないと思っていたが、生きているうちは、修行の身だと思い知らされる。


基本、いつでも「今」を生きているので、深く悩んでるわけでもないが、突然そのような山が現れると面食らう。


「修行」だなんて、勿体つけた重々しい言いかたはしたくないが、生きているうちは、乗り越えるべき山がまだまだ現れるかもしれないと悟るには良いきっかけになったのかもしれない。


今回の山をどう乗り越えれば、自分の成長につながるのか、今一度考えてみよう。


ちなみに、義父が亡くなった日、葬儀が終わってのお坊さんがされた法話によると、亡くなった人は、7日ごとに7回決まった仏様に会いながら、あの世へ無事に行けるように49日間修行の身だという。(いい年して、初めて知った!)


いま、義父は杖をつきながら、修行を頑張っているのだろうか。


この世で修行を終えてもなお、修行が待っているなんて大変!


「亡くなったときに、無事にあの世へ向かう修行を乗り越えるために、この世で修行を積んでおくとするか」なんて思うわたしは、一体・・・。


義父が、無事に「あの世」へ行けるよう修行を積んでいる最中、私は「この世」でまだまだ修行が必要だと思った一件だった。


四十九日の件に関しては、諸説言い伝えがあるだろうし、私の理解度が足りなくて説明が行き届かない部分もあると思うが、「義父さんが、無事に極楽へ行けるように、四十九日間、お膳を供えてあげてください」と、お坊さんは付け加えて話されていた。

毎日、お膳を供えながら「がんばれ!」と。

「無事に、義父さんが極楽へ行けますように」と、手を合わす日々が続く。

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