『少女マンガはお嫌いですか?』 2巻について

 1巻についてはこちら

 最初の記事で宣言したとおり2巻も読んでみたが、どうにもこの作品の面白さがわからないまま話が終わってしまった。

 この作品でたびたび言及される、「少女漫画的」という形容には、どうしても違和感を覚える。それが、むしろ少女漫画を侮っている人が抱きがちなステレオタイプを指しているからである。例えば作中では、少女漫画のような男性のしぐさとして「仕事で失敗して、トイレで泣いていた後輩女性を気遣ってさりげなく食事に誘う」というものがあるとされる(p. 28)。しかし、これがなぜ「少女漫画的」であるのか私には理解できなかった。この描写では、その女性がどんな人を相手にどんな失敗をし、何を無念に思って泣き、その涙を本人はどうしたいのかという個別の事情が全く捨象されている。また仕事や社会生活に対する男の意識も、立場や関係の違いからくる権力の勾配も感じさせず、男性側が普段から何も考えていないかのようである。もし上のようなしぐさだけで「わあなんてステキなひとなの」と思われるとしたら、おそらくその人は少女漫画を普段あまり読まないのだと思う。例えば、ねむようこ『午前3時の危険地帯』を僅かばかりめくっただけでも、そんな薄っぺらいしぐさはどこにも描かれないことが直ちに理解できるからだ(もしくは宮川匡代『空より高く』を読んでもよい)。

 つまり「少女漫画のように格好いい男性の姿」とは、単に女性に対する気遣いや女性をエスコートするための作法を指すだけではないのである。だから「自分は少女マンガのように感動させるような言葉も吐けない」と自虐する沢木に対しては、「感動させるような言葉を吐くのが少女漫画のヒーローの条件ではないので、もっとちゃんと少女漫画を読め」と言いたい(自分のことを棚に上げて偉そうではあるけれども)。


 さんざ捻くれたことを言ってきたが、私はあくまでこの作品がもっと多くの人に読まれる意義があると信じている(というか500円も出したのだからそうでないと困る)。実際この作品は、わざとステレオタイプ化した少女漫画の概念を提出し、それを読者が心おきなく批判できるように挑発しているようでもあるのだ。

 例えば百田というキャラクターがいる。少女漫画のような人間関係に憧れているのか、あるいはそれに似ても似つかない自分の周囲の人間に退屈さを感じているのか、どちらにしても自己陶酔的でかなりイタい人物ではある。彼女は沢木に好意を持たれていたのを知っていながら、既婚者であることなどを仄めかす等して彼に揺さぶりをかける。沢木は彼女のつかみどころのない言動に戸惑い、彼女がどんなつもりで自分に会ってくれるのかと思い悩む。ところが話の終盤になって、沢木は急に悟ったように百田を遠ざける。彼は、百田の語る言葉が真実なのか狂言なのか、考えることを止める(p. 108)。そして「もう二度と会うことはないと思う」と彼女に告げるのだ。

 彼にとって、百田の発言が真実であろうが嘘であろうが、もはやどうでもいいのである。なぜなら彼は「もう二度と会うことはない」と思えてしまったからである。つまり、彼女の語る「少女漫画的になんかいい感じの物語」は、彼女に会いたいという気持ちがある限りで真面目に受け取る価値があったのである。百田の手に触れた沢木は、もう彼女との関係の意欲をなくしてしまったことに気がつき、その瞬間に彼女の物語は真の意味で茶番となる。どうでもいい人間から物語の配役を割り当てられるほど寒いものはないのである。

 端的に言うと、ラブストーリーの価値は関係への意志に依存する。だから百田の物語が作品から放逐されたことは、少女漫画の残酷な真実である。少女マンガにおいて、どんなロマンティックな状況も、育ちがよさそうなしぐさもそれだけでは無価値である。その人と何らかの形で関係したいという意志が伴わないならば。

 残酷さといえば、ある種の少女漫画の人物は「自分が会いたいと思う人以外には人間は誰も存在していない」かのように振る舞う。つまり、ただその会いたい人たちの中に、その人たちが生きる世界があるだけで、それと独立した世界など存在しないと考えているかのようなのだ。後半の沢木もまた、この少女漫画的な狭くて深い視界を受け継いでいるような気がする。彼に見えているのはただ自分が会いたい人の顔であり、それ以外は「木、ビル、空、ビル、木」(p. 132)なのである。





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