juke 大阪

やったぜベイビー

と唐突に昭和を感じさせるテンションの高いメールがガラケーのメールボックスに入った。
フルトノからである。
今となっては使い心地すら忘れてしまったが、当時スマホもFacebookも今ほど普及していなかったとは時の経つのは恐ろしいほど早いものである。

なんだろうと電話するとマージナルレコーズの店長タトルさんのレーベル、NODEよりいち早くフルトノのjukeオンリーのmix CDが出ることになったらしい。

NODEは関西を中心に活動するアーティスト、djがリリースされており、この数年後、私もmixをnodeからリリースすることになるのだが、そんなことこの頃は露ぐらいにしか思っていなかった。

面白そうなので自宅でmixを行うフルトノを見学に行った。
とても一生懸命にmixを作っていた。
テクノ系では当たり前なのかもしれないが、
私は割とディープハウス系、ディスコ系に属していたこともあり、事前にプレイリストを構成したりするdjや時間を限った中での構成を考えたりするmixは今まで属していた文化圏と少し違うものだったので大変勉強になった。

また、私はレコードでしかプレイできなかった。私は当時まだデジタルに対して抵抗があった。
ベルリンで見たdjは殆どアナログで、テクノ系はアナログ信仰が強い時代だった。それは今もかもしれない。
私は当時まだ音源をレコード以外から買うということを殆どしたことがなく、トラクターも所有していたが殆ど使用しなかったし、ビートポートでも殆ど買わなかった。

フルトノは当時タスカムのTT M1 というCDJをバイナルコントロール スクラッチできるというなんとも不思議な機材を使っていた。
スリップマットdjと呼ばれていた時期である。
CDを焼き、また現場では標準とされるPioneerのCDJは対応していない機材なので持参のdennonのCDJのペアを持ちはこばなくてはいけないのでフルトノは収納用のプラboxをカッターで切り
、コードを出す部分を工作し自作したCDJケースを毎回持って行っており、それは大変持ちにくそうだった。

出来上がったmixのジャケは、フルトノの顔に女性の髪型、女性の裸体が荒くコラージュされた紫色のジャケットで、シカゴのゲットー感とはまた別の殺伐としたムードがあった。 売れたかどうかはタトルさんしか知らないと思う。

ただこんな売れるかどうかわからない半分フザケたリリースが適当に行われつつ、また内容は濃かったりするのが大阪の悪いところでありいいところであると思う。

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