「たまには頼ってくれてもいいのに。」

今日で26歳になった。26年間の中で色んな変化があったけど、その中でいくつか大きな変化があって、そのうちの1つのお話をしようと思う。

10年前くらいに、高校生の時に、友達にもらった言葉をきっかけにその後の人との接し方が少しずつ変わったお話。

みんなが言う「頼るって難しい」

人に頼ることは特に大人になると多くの人がぶつかる壁だと思う。

僕も比較的ためこんでしまう方だけれど、
「誰かの手がほしいな~」って思うときは遠慮なく頼ることができるタイプだ。
プライベートでも自分のこととか、恋愛のこととかを友達に積極的に相談する。

でも昔は全然そんなことはなかった。

ずーっと人に頼れなかった。むしろ頼る必要がなかった。

僕は小さな頃からずーっと人に頼ったことがなかった。
きっかけは些細なこと。

小学校低学年の頃、友達とうまくいかなくてお母さんに相談したとき、心によりそってくれたお母さんの言葉が刺さらなかった。

当時の自分はなぐさめや心への寄り添いよりも「具体的解決策」を求めていた。
当時の僕は大人に対してお釈迦様のような役割を期待してしていたんだと思う。
(当時のお母さんにごめんね。って思う。きっと僕は不満げな顔をしてお母さんを悲しませたんだと思う。)

それから僕は「自分の悩みは自分で考えるのが1番いい」と考えるようになった。それからずーっと人に弱みを出さず、相談もせず、頼りもせずに生きてきた。別にそれで困ることはなかった。

頼られたいのに頼りたくない

中学生くらいから「人に頼られたい」と思うようになった。

正確には頼られることを通して自分を救いたかったんだと思う。

誰かに頼られる人間になることが、誰かの相談をちゃんと聞いてあげられる人間であることが、自分が生きていてもいいって世界に認めてもらえる行為だと思っていたし喜びでもあった。

人に頼られるのは嬉しい。だけど人には頼りたくない。自分なんかが人に頼る資格はない。それに必要もない。自分のことは自分が強くなってどうにかすればいい。そんな風に考えていた。

たまには頼ってくれてもいいのに。

そんな僕を友達からの”とある言葉”が変えた。

「おさだってさ、いつも相談に乗ったりしてくれるけど、自分のこととかは相談してくれないよね。たまには頼ってくれてもいいのに。」

何気ない言葉だったけど、その言葉はどこかさみしく聞こえて、僕はとっても申し訳ないような胸が苦しいような気持ちになった。

ああ、人を頼らないことが正義だと思っていたけど、頼られないと友達はさみしいって思うんだ。

冷静に考えてみた。なんで自分が頼られるのは嬉しいのに、他の人も同じように考えているって気づけなかったんだろう。
そんな簡単なこと。だけどむずかしいことだった。どうしても自分だけを差別してしまう。自分だけが人を頼る資格がない人間に思えてしまう。

友達のためならと、小さなことでも友達に少しずつ相談することを意識してみるようになった。
些細なことなのに一度一度が自分にとっては挑戦だった。

自分で考えてもなんとかなりそうなこともたくさんあった。だけどそういう些細なことでも友達からの意見で新しい発見があったりそれをきっかけに会話が弾んだりした。

頼るというギフト

人に頼るって悪いことじゃなかったんだ。むしろ人に頼ることはだれかのためになることなのかもしれない。

僕が誰かに相談をしてもらうことで喜んだり救われたように、その誰かも自分が相談をすることで喜んだり救われるのかもしれない。

相談をすることで自分の中で相談をした相手が前よりも大切な人になったし逆に相談をされる機会も増えた。

頼ることは人と人と結ぶんだと思う。そうして僕の周りの世界は変わっていった。

#たすけてくれてありがとう

だから、今の僕は気負わずに人に頼ることができる。

かつて誰にも頼らずに自分の力だけで立とうとしていた自分だからこそ強く思う。
「本当の自立は自分の力だけで立つことだけじゃなくて、少しずつ色んな人の力を借りること」なのだと。

時には頼り、時には頼られて、いっしょに前を向いて歩いていく。そんな友達。

あの時のあの言葉がなかったら、僕は今でも人のことを頼れないやつだったかもしれない。今までの人との関わり方も、いま自分の周りにいる人も全然違う人だったかもしれない。

「頼ること」について考えるたびに、このことを思い出す。

そしてそれを気づかせてくれた友達にありがとうって思いながら、色んな自分が今大切な人のことを思い出す。

本当にみんなありがとう。幸せな25年間だったよ。26年目もよろしくね。

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