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女の子の絶望を希望に変えるため『ホットギミック ガールミーツボーイ』は金字塔を打ち立てた ※ネタバレ感想

僕なりに解釈したホットギミック ガールミーツボーイ

※下記、ネタバレを含みます。

ホットギミック ガールミーツボーイは、表面でおこった事実をなぞらえるのとその意味を解釈しながら観るのとで全く違った捉え方になる映画だ。

表面的な見方をすると、初という自信のない少女が、妹をかばうために男の言いなりになることを皮切りに、闇を抱えたサイコパスみのある男たちに心も身体も色んな初めてを捧げながら消費されていき、最終的には消去法で現実的な選択肢の男に落ち着いて幕を閉じるような、かわいそうな少女が男に翻弄される姿を描いた映画に見えるかもしれない。

しかし、実際は全くの逆で、初は消費されないし、むしろ彼らとの出会いを通して、傷つきながらも「意志のないバカ」と罵られた自分を変えていき、最後には自分として生きる喜びを自らの選択でつかみとって幸せになる映画だ。

しかも描かれているのは、初という少女の成長や再生、アイデンティティの確立だけではない。自分にふりかかるあらゆる全てを受け止めてむき出しの自分で立ち向かう繊細さと強さで男たちの抱える傷みすらも和らげる少女のしなやかさがそこにはあった。

今回は、作品の内容になぞらえて僕なりの解釈を書いてみた。

押しよせる波を拒絶できない空っぽのコップ

自信がなくて、意志もない少女初。いや、正確には意志はあるが自信のなさ故に自らの意志を封じ込めている彼女が、3人の男たちの好意と欲求に振り回されていく。

初は空っぽのコップのように拒絶することなく彼らを受け容れ、溢れ出す水の中に溺れていく。
自分にとっての恋の正解も不正解もまだもっていないからこそ「そういうものなのかな?」と自分を差し出してしまう。

自分の言葉でぶつかることができた亮輝

そんな初が亮輝の命令に対して怒りを露わにして拒絶する姿はとてもかわいらしく美しかった。
この時彼女の中で何かが芽生えたような感じがした。

大好きだった初恋の相手、梓に裏切られたという事実を頭ではわかっていてもまだ心が追いついていないような状態の自分の前で、本気で怒る亮輝の姿。そんな亮輝を見て、亮輝という存在がただの嫌なやつから、そうじゃない存在に初中で変わっていった。

それから初は亮輝と関わる中で色んな自分を表現していく。

男たちの傷みを包みこむしなやかな母性

一連の変化を通して、初の中に持って秘めていた母性のような「慈しみ」や「優しさ」も開花していく。

初恋の相手で本当はいっしょに幸せになりたかった梓。それがもう叶えられないという絶望を受け止めながら初は梓と向き合う。最大の被害者は自分なのに、初のたたずまいは「梓が私にあんなことをしてしまったのは仕方なかったね。」と言葉にこそ出さないものの、そっと受容して心の中で抱きしめてあげているようだった。

端から見ると恋の未練がある男に、つい会ってしまうような恋に振り回される少女に見えるかもしれないが、初は自分の中の埋まらない穴を受け止めた上で梓を慈しんで見せる。

凌に対しても、自分の傷ついた心を癒やすために一時的によしかかるように見えつつも、彼が抱えこんだ孤独にそっと包帯を巻いてあげていたように感じた。

親のした過ちを知り自らの根底が揺らいだ亮輝に対して、そっと彼自身を肯定してみせる。

絶望の中で、つかみとる希望

変えられない事実、リベンジポルノという形で奪われてしまった身体、自分の力ではどうにもできない親や社会の関係を巻き込んでのしかかってくる現実。

生きるという絶望の中でも彼女は決して消耗されない。むしろ傷つく度に自分を見出し、自分として生きる喜びを噛みしめていく。

最後は山戸節全開の初と亮輝によるマシンガンのような応酬。

声にならない言葉をひっくり返したような喜びの言葉たち

「私が私として生きる喜び」「君を通して自分が変わっていく喜び」「かつての価値観すら壊してしまうような喜び」「この今が永遠に続くとは限らない客観的な理解」「それでもこの今を選択したいという喜び」「流れに身を任すのではなく、今日選択をして、明日また改めて選択をして、それを何度だって繰り返すという喜び。」

全身から湧き上がってくるような、心の中に散らばった声にならない言葉たち。それをそのままひっくり返したように、言葉たちが飛び交う。
色んな視点から紡ぎ出された言葉たち。幼い視点、メタ的に自分を俯瞰した視点、恋についての哲学的な視点。

初は亮輝のことが好きな気持ち以上に、亮輝といる時の自分が好きなんだと思う。自分の好きな自分でいさせてくれる人。そんな存在だから初は亮輝を選んだのだと思う。

一般化された幸せに依存せず、自分で選びつかみとった幸せの強度は揺るぎない。

仮に100回のセックスを通しても超えられないほど絶対的に心と心をむき出しにしてぶつけ合う瞬間が人生にはある。圧倒的なエネルギーでもって描かれたこのクライマックスシーンには、確かにその美しさが映っていた。
映像化されたら何回だってリピート再生したい。

豊洲臨海沿いのぐるり公園の景色との共鳴

発展途上の江東区 臨海の夜の光の中の中で、2人が舞い踊る美しさから目が離せない。幾度も再生される自分自身や繰り返されていくであろう恋と、街の風景が共鳴しているようだった。

豊洲周辺の独特な不安定さは恋に似ていると思う。豊洲に行くと終わりと始まりの両方を感じさせられる。これからどんどん発展していくであろう街のはずなのに、一度発展しようとして発展しきれず終わったような過去形の切なさ、そう終わった恋のような切なさが豊洲にはある。

そういった過去を持ちながらも、これからまた発展していくという希望。そんな両側面を感じさせられる街だ。

大地がもたらした自然ではなく、埋立地という人の意図のみによってつくられた島に建造された都市だからこそ余計に人間くささを感じるのだと思う。そこには人の望みもあれば同時に人の意志がなくなれば一方的に終わっていく街であるという不安定さがある。

何度だって繰り返せる初恋と永遠の恋がもたらす希望

おそらく初と亮輝の恋は永遠じゃない。2人が結婚するような未来は僕には想像できなくていつか終わる一時の関係なんだと思う。しかし、この物語の先にあるそんな結末は決して絶望にはなり得ない。

なぜならその課程の中で生まれた自分という存在は、誰にも奪われない絶対的な存在として確かにここに在るから。そしてそれをこれから何度だって繰り返すことができるから。

私たちは何度だって初恋をする。新しい自分に生まれ変わって自分の生きている世界すら更新しながら全く新しい恋をする。しかも過ぎさった恋は一本道の中に過去という形で配置されるのではなく、永遠のものとして自分の中に内包しながら生きていくことができる。

この豊かさを希望と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。

ガールミーツボーイの金字塔

映画を観終わってホットギミックという原作に「ガールミーツボーイ」というタイトルを足して映画のタイトルにしたことの可能性と山戸監督の強い意志を感じた。

ボーイミーツガールは物語の王道の1つで、主人公の少年が少女との出会いを通して成長を繰り返しながら自らの使命を全うし世界を救うような物語だ。

多くの作品の中であくまで男の子が主で、女の子はそれに伴う存在だった。作品にもよるが目的はあくまで男の子が世界を救うことであり、女の子はそれを成功に導くための舞台装置にすぎなかったりする。

ホットギミック ガールミーツボーイは、それに相反するようにあえて「ガールミーツボーイ」というタイトルを掲げて、女の子が男の子のための女の子ではなく自分のための自分として自己を確立する喜びを描いてみせた。

そこには白馬の王子様に選んでもらうような定型化された受け身の幸せではなく、これまで社会に奪われてきて叶わなかった能動的な幸せがある。

ガールミーツボーイは、「世界」を「私」が救うお話ではない。きっと「私の世界」を「私」が救うお話だ。少女にとって世界とは「私が見える全て」であり、恋をする度に「私にとっての世界」ごと何度だって生まれ変わるのかもしれない。恋する度に超新星爆発をして再生する、それがガールミーツボーイの世界の見方なんだと思う。

この作品がガールミーツボーイというジャンルを打ち立て、ムーブメントを起こすことで既存の定型化された幸せとは異なる幸せの形があたりまえのように社会にインストールされていく希望を見届けていけることを心の底から嬉しく思う。そして、自分もその礎を築く一介を担いたいと強く強く思った。

僕はこの作品が、ガールミーツボーイの金字塔として永遠に語り継がれる名作になると信じて止まない。


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