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『海獣の子供』は全宇宙の生命を肯定する

予告編を観た瞬間から、映像!半端ない!!米津の歌やばい!!!なんだこの体感したことのない超感覚は!しかも久石譲!芦田愛菜!絶対観る...!
となっていた怪獣の子供をやっと観てきた。

まずは、予告編を観てみてください。


少しでも多くの人に興味をもってもらって映画館に足を運んでもらいたい一心でネタバレなしで感想を書きました。少しでも興味をもってくれた方はぜひ映画を観てみてください。まだギリギリ間に合います。尚、映画の神々しさに飲み込まれ一部スピリチュアルな内容の感想となっていることをご容赦ください。

―鑑賞直後に書いたFirmarksの感想より。―僕たちは自分を信じていいし、信じられる。生まれた時点で選ばれていて、繋がっているのだから。大きな愛が心の中で震える感覚がした。

「圧倒的」以外の言葉では表現し難い「体験」

映像で圧倒されたのはかぐや姫の物語ぶりだ。作画監督はかぐや姫と同じ小西賢一。いや、小西さんすごすぎませんか?僕は2作観て、尊敬を通り越して彼を拝む気持ちに達しました。

正にクオリティおばけ。全編通して、人物も、美術も、CGも、色合いも全てが超越した次元にある。そんな芸術の領域に達した映像の応酬を約2時間浴びることができるだけでも観る価値のある作品だと思う。

なんというか、「海が生きている」。粒子レベルで海が躍動し、生物という器のくくりを通りこして、細胞レベルで生命の息吹が聞こえてくるよう。

星は畏怖の念を抱くほどに壮大で美しく、瞳は強い意志を宿し、描かれる光は鮮烈に瞬いている。

後半の超絶描写の映像シーンはその尺の長さとクオリティから制作会社の採算を心配するレベル。
このシーンだけで人の感性や価値観、生き方に影響を与えうるレベルなんじゃないかと思うくらい素晴らしかった。

更にそこに久石譲が特上の音楽を添える。久石譲曰く本作ではシーンにも状況にも寄せないスタイルで、ミニマルな音楽を志向したという。異次元の映像と音楽が協奏し、紡がれる神秘的な世界にどんどん引き込まれていく。

自分たちはみんな宇宙の子供なんだ。

作品を観て「自分たちはみんな宇宙の子供なんだ」と思った。いや、もっというと子供や親という概念ですらなく、宇宙と地続きな存在、宇宙の一部そのものなんだと思った。紀元を辿ると自分たちはだれもが宇宙によって生み出されたものであり、物質を共有するイコールの存在

禅やヨガで語られるような「万物と繋がっている」という感覚については、「いやいや嘘やろ」と思ってきたけど、怖いほどすんなり受け止めることができた。

一を見つめれば全てが見えてくるし、全てを見つめようとすることは、同時に一を知ることなのかもしれない。

私たちはバラバラの個体をもっているが故にぶつかりあったり、すれ違うけれど、ある意味ぶつかることすらも宇宙の大きな営みの一部で、共同体としてのありかたなんだ。
時にこの現実は辛いけれど、向き合って噛みしめて、少しずつ受け容れていきたいと思ったし、本来イコールな自分たちだからこそ、分断してしまっている現状が変わって少しずつ繋がっていけば、と祈りがわいてきた。

食のシーンからは残酷でありながら、生命の受け渡しという自然の営みを感じさせられる。それは命をいただくということに他ならない。

海を見ると大きなものに心をそっとつつまれるような感覚になるのは、海は通常観測できない宇宙を感じさせてくれる存在であり、私たちが身近で体験できる宇宙だからなのかもしれない。

生きてていいんだって思えた

エンドロールがはじまった時、綺麗な涙が浮かんできた。共感や感動ではない、何かが浄化されて洗礼されていくような涙だった。

「ああ、生まれた瞬間からすでに、生きる資格をもっていたんだ。」と世界に肯定された感覚がわいてきて、同時に世界を愛する気持ちがこみあげた。

自分の存在価値に頭を悩ませられるけど、「存在している」というだけでに既に意味があったのだという気持ちになって、自分の最もベースの部分が肯定された感覚になった。

生まれた瞬間から僕たちは宇宙に選ばれていた、というより繋がっていたんだ。観た後にシンプルに自己肯定感が上がっているのを感じた。

スピリチュアルな世界と記憶について

書きながら宗教に入信する人ってこういう心境なのかもしれないと思った。自己を超越した大いなるものを感じ、自分がその一部であることに納得し、統合されていく感覚。
ただ、宗教のそれと明確に違うのが、信仰ではなくあくまで「体験」であるということだ。言葉や定義、規律によって支配されない”感覚”であるということ。この延長線上に”悟り”のような世界があるのかもしれない。

もう1つ印象的だったのが「記憶」について。この作品の中に記憶の神秘のようなものを感じた気がした。うまく言葉にできないのだが記憶はなにかを触媒として、多かれ少なかれ、伝播しているんじゃないかという気がしてきた。

記憶は集合的無意識と個体の意志を行き来しながら、万物に影響し続けているのかもしれない。多かれ少なかれ時間や場所を超越して誰かの記憶は誰かの記憶へと繋がっていくんだと思う。
(このあたりの感覚は、中国哲学の動 - タオに近い概念として、進撃の巨人でも描かれています。)

最後は、異次元すら感じさせられる壮大な米津玄師の曲で映画は幕を閉じる。

畏怖の念すら抱くコーラスワーク。昔の人に「宇宙人の歌」って言ったら信じると思う。まだまだ新しい音楽って生まれるんだ。って嬉しくなった。


この作品は頭で考える作品でも、言葉で捉える作品でもない。劇場に行って身を放り出して、ただただ感じるままに感じる作品です。身と心だけ差し出して、ぜひ感じてきてください。

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