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いつからだろう「友達」に同じ時間を共有する以上の”何か”を求めるようになったのは。

雨の中の帰り道にふと、小学生の頃は友達の家に泊まってお笑いを見たりゲームをするのが最大の贅沢だったなあってことを思い出した。

そもそも友達とお笑いを見るというシチュエーションが中学以来なかなかないのだけれど、仮に今友だちとお笑いを見るって行為をしても同じ充足感は得られない気がする。
なんとなくいっしょにいても暇だから観ているような気分になってさみしくなってしまいそう。

いつからだろう。「友達に同じ時間を共有する以上の何か」を求めるようになったのは。

今の僕がいっしょにいたい友達は何かを語り合える友達だったり、もっと相手を知りたいと思う友達だったりする。前提として”尊敬”が重要だ。
だから逆に自分がそういう存在になれていないと思うと、「この人は自分といない方が楽しいんじゃないかな」とか考えてしまって居心地がちょっぴり悪くなる。

でも昔はそんなこと考えていなかったし、友達に意味も価値も求めていなかった。ただ好きなことをいっしょにできれば、それだけで楽しかったし、一人の何十倍も充実した時間をすごせた。
思春期になって中学生くらいからいろんなことが変わっていって、そんな純粋無垢だった小学生の頃の自分はどこかにいってしまった。

なんだか色々と勝手に求めたり、背負い込んでしまっていたんだろな。

人生には色んなことがあるけれど、結局のところ楽しくすごせればそれで幸せなんだろうなって思う。

ずーっといろんなことを考え続けて、試行錯誤したり、自分に問いかけたりと、を繰り返してきた日々だったけど、もう少し肩の力を抜いて、ただ楽しんでみてもいいんじゃないかなって。そんな風に思いました。

雨の日の月曜の夜より。

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