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私は私にしかなれないし、仮に他のだれかが私になりたくてもなれやしないから

どこまでいっても自分は自分にしかなれない。
逃れようのないこの事実は時に絶望であり、時に希望でもある。

どんなに羨ましがっても、私はあの人にはなれない。
それと同時に誰が羨ましがったとしても、私になれるのは私だけだ。

普通に生きていると、自分が自分であることの豊かさよりも、
自分が自分でいざるをえない貧しさに目がいきがちになる。

自分が持たざるものや欠けているものを見つける瞬間はごまんとある。
しかし、逆に自分がすでに持っているものは、
血肉と化して「あたりまえ」になってしまっているので、
自分がそれを所有していることに鈍感になりがちだ。

そうきっと私たちは他の誰かがもたざるものを確かにもっている。

先日ちょっとした気づきがあった。

男の子は高身長にあこがれるし、女の子は背が低い子は高い子に、逆に高い子は低い子にあこがれたりする。

この前背の小さい後輩の女の子と街を歩いている時、
ふざけてその子の身長に合わせてしゃがんで街を歩いてみた。
小学生男子のようなたちの悪い悪戯心。

低い目線から視界に飛び込んできた街の風景は普段とは見違えていた。
大きな建物はより大きく見えたし、看板は襲いかかってくるように存在感があった。

怖いものはより怖く、わくわくするものはよりわくわくする、そんな風に街の見え方が変わっていた。

逆にふざけて背の高い先輩に飛び乗って、おんぶしてもらいながら周りを見わたすと、
これもまた見通しが全然違っていて、もっともっとむこうが見える気がしたし、
なんだかみんながかわいらしい存在に見えた気がした。


身長というたった一つの事実を切り取って比較しても、
世の中の見え方は全然ちがっていて、その事実を起点にして自分のありかたも相対的に変わってくるように思う。それを何度も何度も積み重ねてきて自分という人間がいる。

性格や容姿、得意なこと、苦手なこと・・様々な要素とそれによって起こる経験、解釈の仕方。そんな無限のパターンをいくつもかけあわせて1人の人間ができている。

やあり、自分は自分にしかなれない。なりたくても他人になることはできないし、だれかが自分になりたくてもなることはできない。

社会で生きていると、人との関わりの中で、違う何者かにならなくてはいけないという期待や圧を感じたり、自分の嫌なところを思い知らされて、逃げるように他の誰かになりたくなる。

しかし、逃げようと思えど、変身しようと思えど、結局自分は自分に戻ってくるみたいだ。

どうせ手放せない自分だから、せっかく与えれた自分だから、思う存分使い尽くしてやりたくなる。どうせなら、ね。自分のポテンシャルを最大限に引き出せるのは多分きっと自分だと思うから。

P.S.僕が川谷絵音だったならこのnoteのタイトルは「私以外私じゃないの」だったのかもしれないね。

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