地獄の入り口を見た〜『読みたいことを、書けばいい。』を読んで〜

衝動的に書いている。
本書を読んだ時点で、「衝動的に何かを書くなんて出来ない」と思う。
本書を本当に読んだなら、書く前にこの本の著者・田中泰延氏のことをもっと調べ、他の人の感想文を読み漁り、他の人が言っていない何かをここに書かなくてはならない。
でも、私は今、衝動に駆られて書いている。
一応この衝動を抑えようと努力はした。このはち切れる思いをどうにかやり過ごすために4.5キロのジョギングをし、ひとっ風呂浴びて、冷えたルイボスティーを飲んだ。最近日課にしている「丁寧なお肌のお手入れ」まできちんとしたから、私の顔は今テッカテカである。
顔テカテカなだけの何者でもない私が、ものを書くとはそういうことじゃないと書いているこの本の感想を衝動に駆られて書いてしまう。一言で言うとこの本はそういう本だ。
ここで終わると消化不良で多分眠れないので、もう少し詳しく書いていこう。
ここまでで「よし、この本読んでみよう」と思ったあなた。おやすみなさい。

『読みたいことを、書けばいい。』 田中泰延 / ダイヤモンド社

まず本書を手に取った理由は二つある。
一つ、糸井重里がなんかコメントしている
一つ、背中を押して欲しい病に罹患している
私は広告のコピーが好きだ。何故かは知らない。
最初はユニークでドラマチックで突き刺さる言葉が、超短文でまとめられているその技術に惹かれた。大人になって広告というものがどういう風にできるのかを知り、私が知っているコピーは「キャッチコピー」だということを知り、「ボディコピー」に出会ってからはもっともっと好きになった。他人が代理で作った宣伝の文章が、どうしてこんなにも胸を打つのかと感動した。広告のコピーを集めた本を、今も後生大事に持っているが、何度読んでも込み上げてくる広告も多々ある。
そういう私にとって、「糸井重里がなんかコメントしてる」ってそれだけで「おっ」と思うものなのだ。みんなそうだろう。なんか凄そうって思ってる人が何かについてコメントしてたら、その何かに興味を抱くことがあると思う。そうして人はまんまと広告にしてやられるのだ。ちなみに私はMOTHER2はプレイしたことが無い。兄がやってるのは見てた。

背中を押して欲しい病という厄介な持病

この病気を持っている人は多分かなり多い。具体的に調べたわけでは無いが、「20代でやっておきたい10のこと」とか「〇〇をしたら世界が変わる」系の自己啓発本を読む人はおそらく私と同じくこの病気に侵されている。
私が思うこの病気のタチの悪いところは、「何をすべきかはもう分かっているのに、なんとなく一歩が踏み出せない」ことである。
んなもん20代でやっとくべきことなんて、一生懸命仕事をする、それと並行して勉強する、本を読む、人と出会う、多くの人とコミュニケーションをとる、できれば留学する、旅に出る、親孝行する、社会に貢献する、お金を貯める……とにかく考えればキリがないし、別に言われなくてもそうでしょうねってことばかりだ。そして言ってしまえば30代、40代、50代もきっとそうだ。人生は日々勉強だと聞くし、我々は血税を払い年金を払っていながらにして老後は2000万必要なのだ。とにかく金を貯めろ、である。
やらなきゃいけない事、やりたい事は火を見るより明らか、なのに一歩踏み出せない。この病は身近な人のアドバイスでは薬として足りないのだ。親に「貯金しろ」と言われて素直に貯金を始める人は多分、もうそれなりの貯金額を持っている。なんか凄そうな人、正しそうな人、自分にはできない事をやってそうな人に「こうするべきだよ」ってわざわざ言ってもらわないと行動に移せない。それも明確な理由があってそうなのではなく、「なんとなく」そうなのである。
実に厄介。かつ滑稽。だが悲しいかな私はこの病に罹患しており、発症したのがいつなのか思い出せないくらい長らく付き合っている。
そしてここ数年、この病気の症状として出ているのが「なんとなくブログが書けない」というやつである。
あえて「なんとなく」の内訳を言語化してみよう。
まず、「何者でもない私が書いた事なんて誰も読みたくないだろう」である。
ふと思ったこと、今日の料理について、道端の花の美しさに見惚れたこと……これらは私が仮に石原さとみや有村架純や広瀬すずだったとしたら、価値ある文章である。でもご存知の通り私は明らかに彼女らではないし(心底悲しい)、正直何者でもないので読みたい人なんてほとんどいないと思う。基本マイナス思考でネガティブ人間なのだ私は。
そしてもう一つ、「もうすでに世の中の誰かが似たようなこと書いてる」である。
映画や本の感想、片付けについて、好きなバンドや音楽のこと……私より詳しい人が私より説得力のある言葉で私より適切に表現しているものを、私がペロッとブログで書くことに何の意味があるのだろうと思う。基本マイナス思考でネガティブ人間なのだ私は。
こういうモヤモヤを日々抱えながら、加えて面倒くさいとか夕飯の準備しなくちゃとかスマホゲームしたいとかそういうのにも苛まれて、私は今日まで何も書けずにいたのだ。
いかがだろうか。こういう病にかかっている人が「読みたいことを、書けばいい。」なんて言われたら、「え、私にも書けそう!」ってなりませんか?
この病のタチの悪いところのもう一つは、「結構単純」ということである。

本のこと何も書いてないじゃんってツッコミ待ちじゃない

ここまで読んで、本のことが何も伝わってきませんというあなた、半分正解です。だってこの文章は、本を読んだ私のことを書く文章だから。
でもさっきの段落の「なんとなくの内訳」なんかはほぼネタバレといっても良いくらい本書の内容に触れている部分だ。あれは私のことを書きつつ、この本の内容でもある。
本書は「私の頭の中のモヤモヤを言語化してくれた本」である。
正直、それだけで私の心は救われたし本書を買って良かったと思う。日々私が旦那氏に「ブログ書きなよ」と言われながら腹の中で思っていることが、少なくとも著者・田中さんとは共有できているわけだし、それがあながち間違った感覚ではないことがわかったわけだ。そういう意味で私はこの本を「小気味好い本」として誰かにオススメしたい。ここまでこの文章を読んでくれた皆さまにおかれましては是非、一度本書を読んでみてほしい。なぜなら読書感想文を書く意味は、学校の課題以外では「誰かの本の購買につながる」くらいしかないからだ。
そして私といっしょに地獄の入り口に立ってその深淵を覗いてほしい。
この本は「書く」という地獄への手引書だった。

読みたいことを書くことの難しさ

正直この本の後半は、「田中さんは読者に書いて欲しくないのではないか」と思うくらい「書く」ことの意味が研ぎ澄まされていた。文体がポップなのが、さらに私の恐怖を煽った。
そこら辺の「背中を押して欲しい病」に処方されるような本なら、「人の言葉を借りず、自分の言葉で、自分が読みたいものを書こう」「素直に感じたままを書けばいい」なーんてお花畑でキャッキャうふふ、これであなたも立派なブロガー、みたいなところで終了である。1500円。うん。薬としてはまぁいいんじゃない。老後のために2000万貯めなきゃいけないけど、それでモヤモヤが晴れるなら出しても良いかもしれないわ。
一方、本書で言っている「読みたいこと」は、「まだ世の中に無いから」読みたいのであって、「既にあるやつは書かなくて良いじゃん」ということだ。身の毛もよだつ正論だ。
インターネット上には嫌という程「書くのが好き」なんていう連中のさまざまな感想、知見、エッセーが溢れかえっているこの時代、誰も語っていないことを語るのは難易度が高すぎる。
さらに読み進めると、眠気とか体の痛みに耐えて書き上げた文章も「誰も読まない」とバッサリ切られる。本書によると、私が宇多田ヒカルだったら読んでもらえるらしい。ご存知の通り、私は宇多田ヒカルではないので読んでもらえないということになる。
ここまで読者の私を切るのか、この本は。読みながら気が遠くなった。
でも事実だ。まぎれもない。
しかしここで心が折れて、「書くことを諦めよう」と思った人は本書の対価を充分に受け取っていない。1500円、ないしはKindleで1312円(私が買った当時)も払っているのに勿体ない。我々は老後のために2000万円貯めなければならない。1円たりとも無駄にはできないと肝に銘じておくべきだ。お金を大事にするということは、買ったものの価値はしゃぶり尽くすということだ。

読みたいことを書くことの楽しさ

一度心を折っておきながら、その後には書くことの楽しさが書かれている。どういう情緒だ、と思う。
曰く、「書く時の出発点が違う」そうだ。そもそも人に読んでもらいたいと思って書くのが違うらしい。
今日日この手の本は、「バズる記事の書き方」「フォロワーの良いねやスキをかっさらっていろんな人の尊敬を集めるものの書き方」、つまり「自己顕示欲を満たすものの書き方」を中心に据えている。
それがそもそも「違う」というのだ。
まず誰も読まないことが前提。そして万が一誰かに読んでもらえた時、その文章が意味のあるものにするために、めちゃくちゃ調べて根拠や証拠を並べてないといけない。その証拠たちはネット上に転がっている適当な又聞き話ではだめ。証拠は第一次資料から持ってくるべきで、図書館で調べなさい、ときてる。ご丁寧に図書館での調べ方まで書いてある。
ちょっとブログが書きたかっただけなのに、図書館で調べて資料にあたってなんてしてたら、慣れない私なんかひと記事書くのに一ヶ月はかかるわ。……嘘。三ヶ月くらいかかる。本読むの超遅いから。
でもそこまでやったらどうだろう。資料を探してるうちに、私の世界はきっと深くなる。知識はより彩りを濃くし、書いた文章はきっと他の誰にも書けない、私だけの文章になる。
巨人の肩に乗る、ということも書かれていた。みんなが知っていることをさも私が発見したように書く、世に出すことの恥ずかしさを私はラジオパーソナリティという職業柄良く知っている。ラジオで得意げに喋ったことを、先輩たちから後で「いやそんな事誰でも知ってるし」と言われた時の圧倒的恥ずかしさ。穴があったら埋まりたいくらい恥ずかしい。いっそ埋めてくれ、その番組の同録(録音したもの)と一緒に埋めてくれよぉ!ってなる。
そうならないために、巨人の肩に乗れと言うのである。これの意味がわからない人は本書を買えば良い。とても分かりやすく説明している。
私は巨人の肩に乗るなんて、研究者みたいな高尚な人たちのやる事で、私如きパンピーがそんなやすやすと巨人様に「ちょいと失礼」なんつって肩に乗っけてもらうなんておこがましいとさえ思っていた。
ここで私の大学での論文のことを思い出した。大学生活の集大成として書いた私の論文は、先生方から「まずは論文の書き方の本を読みなさい」とこき下ろされた。正直トラウマである。一人心優しい先生が、「文章は読みやすい」と言ってくれていた。それだけが救いであり、今日まだ私が物を書くことを諦めずにいられているのはその先生のお言葉のおかげだ。
そう思っていたが、結局物を書くというのは、一歩(たとえそれが極々わずかであっても)前に進むためであるべきだというのは真理なのだ。だから本来なら、あの論文の講評は「君はまだ物を書く本当の意義に触れていない。君はもっと先へ行けるはずだ。さぁ、論文の書き方の本を読んでごらん。これから本当に物を書く君に、大いに幸あれ」という風に読むべきだったのだ。最初からそう書いてくれよ先生。
奇しくも本書は私の数あるトラウマの一つを浄化し、私の論文を評価した先生との心の溝を埋めてくれた。ブログであっても論文の如く先行研究にあたってまだ誰も書いていないことを書くべきだと言うことで。
自分が読みたいものを書くことで、書いている自分が一番の読者として楽しめるし、それが人の世界を少しでも深められるなんて超面白いじゃないか。エキサイティングじゃないか。そもそもそれが楽しくて、人はものを書きたいはずなのだ。

ブログやツイッターなどのSNSが普及し、私たちは好き勝手に「書く」をことを体験する。良いねやスキ機能なんかがそれをよりエキサイティングな体験にランクアップさせているのだろうが、そのせいで「書く」ことの意義が薄れ、価値が下がっているように私は思える。
それに抗いたくて、なんとなくwebライター的な仕事(単価が超低いやつ)をやってみたこともあった。価値ある文章を書く自分になりたくて。
でも実際書いたのは、ネット上にある本当かどうかもわからないような情報を拾い集めててにをはで繋げたようなゴミクズみたいな文章だった。そうでもしないと単価が低いので全然稼げないのだ。そんなのが嫌ですぐ辞めた。
その私にとって、本書は「書く」ことの本来の楽しさを思い出させてくれた有り難い本だ。だから、本書にある「書くなら調べろ」を完全に無視してでも今、衝動のままに感想文を書き散らしている。この感想文を読みたかったのは、他でもない私自身なのだ。
もし万が一、ここまで読んでくれた人がいるならば、ぜひこの本を読んでみていただきたい。出来ればゴミクズのような文章を垂れ流している「かつての私」にはみんな須らく読んでほしい。そしてネット上の文章がより面白く、素晴らしいもので溢れることを私は期待する。ネットサーフィンが大好きなのだ、私は。

最後に。久しぶりに衝動のまま思いを書き殴った今、私の心は凪いでいる。本当なら夜中に書き上げてアップする予定だったのに、眠気に負けて朝になってしまった。そういうマイペースは保ちつつ、私は本書に教えてもらった「書くことの楽しみ」を、これからじっくりと味わう人生にしたい。
これまで書いてきたゴミクズみたいな文章と何ら変わらないものをここに書いてしまう罪深さを自覚しつつ、万が一ここまで読んでくれた方がいらっしゃるなら、心からありがとうという気持ちです。
乱文失礼しました。

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