あのひと

 電子音が鳴ると私は受話器に飛びついた。
「恵一? 恵一ね?」
 受話器の向こうでカチリと歯のなる音がする。イエスの合図だ。
「見つかった? 酷い目にあってない?」
カチリ、カチリ。ノーの合図。
「頑張って。生きて帰って。愛してるわ」
カチリ、と歯の音がすると電話は切れた。

 毎晩、毎晩。私は恵一からの電話を待っている。彼が化学兵器工場に潜入して一ヶ月になる。彼は深夜二時頃、必ず潜伏先から電話をよこした。この電話番号はランダムに転送され、このアジトに繋がる仕組みになのだ。
 私たちは有体に言えば産業スパイだ。電話は逆探知できないとは言え、最大限の注意を払い、彼は決して声を出さない。こちらの質問に対して、歯を鳴らして応答するだけだ。イエスが一回。ノーは二回。
 私たちが組織の鉄則に背いて愛し合うようになって、どのくらいが経つだろう。恵一、あいたい。我々の組織が窮地に立たされた今、すでに敵の情報などどうでも良かった。Xデイを越えて、恵一が帰ってきさえすれば。
 私は恵一を愛している。あのひとからの電話を待つ事だけが、今の私の糧なのだ。今夜も私は、あのひとからの電話を待っている。

 電話が鳴る。今夜はいつもより少し遅い。
「恵一でしょ、大丈夫? 平気?」
カチリ。カチリカチリ。
「えっ? 何かあったの? まさか敵に」
カチリカチリカチリ、カチリ。カチリ。
「どうしたのッ? ちゃんと答えて!」
カチカチリカチリカチリ。カチカチリ。
「いや! ちゃんと答えて! 恵一!」
カチカチといつまでも続く歯の音の向こうで、探知成功です、という声が聞こえた。

 敵に発見され、激しいリンチを受け自失状態の恵一に、敵は電話機を与えた。恵一は朦朧としつつ電話をかけた。私たちのアジトはつきとめられ、間もなく両組織は物理的攻防に突入し、ひと月でほぼ壊滅状態となった。
 恵一は生きて戻った。自失状態だったが、時間とともに自分を取り戻した。恵一とふたり、こうして暮らしていければそれでいい。
 私たちは、夜眠る時も電灯を消さない。闇に放りこまれれば、彼は私の腕を握り、歯を鳴らせて脅えるからだ。暗闇はこの男を今も「遠い場所のあのひと」に変えてしまう。うつろな瞳で歯を鳴らす彼。こんなに、これほどに私が、そばに、いるのに。


(これも1998年、今から16年前に「あのひと」ってタイトルだけがお題としてあって書いたものですね。陳腐な言い回しが多用されてて恥ずかしいですね)

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