「ナタリーってこうなってたのか」と勤労とサービス残業の肯定

※この文章は、自分のブログで昨日公開したものを何も考えずにコピペで転載しています。


大山卓也著「ナタリーってこうなってたのか」を読みました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575307009/replicalove-22/ref=nosim

本の中にあったタクヤさんと津田さんがやってたネットラジオ番組「MOK Radio」って、俺も一緒にやってたんですよ実は……。タクヤさんも津田さんもこんな風に毎週テレビで顔を見るようになるほど有名人になると当時は思ってませんでしたけども。友人がすごいとまるで自分もすごい人になったみたいで誇らしいですね。

自分はメディアとかマスコミとかジャーナリズムとかについては門外漢だし、そんなに興味もないのでこの本で書かれていることがどんだけ凄い、稀有なことなのかは正直なところよくわかりません。BARKSの記事とナタリーの記事、無記名だったらどっちがどっちって尋ねられても俺にはわかんないと思うし、どっちを好きと言うかもわからない。ページまたぎでページビュー増やしてるウェブ記事たくさん読んでるけど別にそんなに不愉快でもないし、そういうページだろうとナタリーだろうと広告バナーはクリックしないし。

あと、この本を読む前に話題になった唐木さんの対談記事を読んでたこともあって、本を読み進めるごとについ「ああ、唐木さんのゆってたやつ」と感じちゃったってこともあるね。もちろんそれだけじゃないんだけども。唐木さんの対談記事が本当にため息でちゃうほど格好良くて感動したから、それ以上を求めちゃったってのもある。あの記事読んでたらこの本の種明かしは半分くらい済んじゃってるもんね。

巻末に収録された津田さんと唐木さんの特別対談「大山卓也ってこうなってたのか」を読んで、タクヤさんがブログに書いた「風立ちぬ」の感想を思い出しちゃったりして。大山卓也の中心にある巨大な「わからないもの」。バウムクーヘンのように真ん中に空洞があって、その周囲に形成されているのがナタリーなんでしょ。だとしたらタクヤさんとナタリーって、タクヤさんが感じた「風立ちぬ」の主人公の中の虚無と戦闘機の関係と一緒じゃないか、なんて。「主人公の中の虚無」ってテーマであの映画を評した文章を他に読んだことがないもんで、何らかのシンパシーを感じたのかしらとか思っちゃいました。

で、俺はメディアとかマスコミとかジャーナリズムとかについては門外漢なので、それについて書くようなことはそんなに無いです。「ナタリーが正しい」でいいです。俺が書きたいと感じたのは勤労自体についてなんですね。

タクヤさん津田さんと、俺。最大に違うのは、彼らは独立していて、若いころからこの社会で自分ひとりで戦っていくことを厭わなかったってこと。俺は絶対そんな気なくて、ベンチャー企業に飛び込む気もなくて、寄らば大樹とばかりに大きめの会社の従業員として生きていく以外に選択肢を持たなかったってこと。これは未だに変わらない。自分の責任で会社が傾いちゃう、従業員の生活が困っちゃう……なんて場面から逃げられなくなるが怖いんです。自ら起業、なんて考えたことない。潰れなさそうな会社に勤めたい。

逆に自分と同じだ、と強く感じられる点もあります。「ぬるいの格好悪い」「みっともないことをやらない」「俺がやらなくて誰がやる」──。まったく同意。俺はしがない会社員だけどそういうプライドをもって仕事をしているし、その点については自信があります。誰かに怒られるから、恨まれるから頑張ってるわけじゃない。俺がやりたいから、後から後悔したくないから、気付いててもやんなくて後からアホだと思われるのが嫌だから、だから頑張っている。眠たくても面倒くさくても頑張る。まあ、みっともないと揶揄してきやがるのは主に自分の中の自分なんですけどね。

でね、「ナタリーってこうなってたのか」を読んで感銘を受ける人は多いと思うんだけども、「ナタリーで働いてみたい」と思う人、スタッフ募集に実際に応募する人は減るなぁ、と思ったんですね。だって地味で大変そうじゃないですか。好きな音楽聞いて、手癖とコピペで記事書いて、サンプルでCD代浮いちゃう、ライブも仕事で行けちゃう……みたいなの夢見てた人はあっさり止めちゃうと思う。言葉は悪いけどドカタ的ですもんね。しかもナタリーというシステムに従って無色透明な記事を生産するわけですから、インタビュー記事を任されない限り自分ってモノが無くなってしまいそう。そういう正論バリバリのイデオロギーとかのない、リリース文章コピペの記事量産して同じ給料もらえるサイトがあるならそっちで働きたい、ナタリーは読者でじゅうぶん……って思う人が増えてしまいそうだな、と。

ぜんぜんそれでいいと思うんですけどね。ナタリー側にとっては、そうやってナタリーの社風に合わない人が応募してくる前に気付いてくれるわけで、いいフィルタリングになると思う。

じゃあどういう人がナタリーで働きたい、記事書きたいと思うのかっていうと、ナタリーというシステムに感銘を受けて、大山卓也の考え方に感銘を受けて、一緒にやりたい、読者として愛したナタリーに、そんで音楽業界に恩返ししたいって人が働けばいいわけで。あるいは「最終的にはリリース文章コピペぐらいの楽な仕事で気楽に稼ぎたい」っていう野望がある人でも、ナタリーで5~6年記事書いて基本をしっかり学ぶのは素敵だと思うし、誰もが皆ナターシャで取締役になれるわけじゃないからいつか巣立つ日も来るわけだし、そういうのも踏まえてとにかく今、ナタリーで記事を書いて働くってのは素晴らしいことだと思いますけどね。他のサイトの編集部で働くよりよっぽど。社長が面白いし。

いや、メディアで働く話を書きたいんじゃなかったんだ……勤労の話。プライドとかプロ意識とか志とかの話。

「ナタリーってこうなってたのか」を読んでもう一つ思い出したのはこの記事ですよね。

【求人募集】GIGAZINEのために働いてくれる記者・編集を募集します
http://gigazine.net/news/20100802_gigazine_job/

俺はGIGAZINEも嫌いじゃないんです。変な記事読まされて実害受けたこともないし、リンク先行ってみたらGIGAZINEで面白がって読みふけったことたくさんあるし。そのGIGAZINEの求人の話ね。

記事中の太字のところ読むだけでもじゅうぶんなんだけど、こうやって編集長が編集に対する意思を伝えて同志をを求める熱い記事を発表するって、実はなかなかないことですよね。個人的に100%同意できるわけじゃないけど、記事自体は在籍中の社員への恨み言成分強めだけど、俺はこういう表明ってアリだな、好きだな、って思ってて。

だって、記事中に出てくる「払われた金の分だけしか働きたくない、労働時間に見合った金をよこして当たり前」みたいな考え方ってなかなか表明できないでしょ? 2010年ってもう、ブラック企業叩きの風潮はとっくに始まってたわけで。

俺ね、2ちゃんねるのまとめサイトとか読んでて同意できることも多いんですけど、ブラック企業関連のスレッドだけは読むと全然俺と違うなぁって思っちゃうんですね。みんな「働いた分は金よこせ、5分単位でよこせ、それをしないのは搾取だ、企業はクソだ」みたいな口調なんですけど、そうかなぁ、って思っちゃう。

機械の代わりに単純作業を繰り返すみたいな仕事だったら、「働いた分は金よこせ、5分単位でよこせ」でいいですよもちろん。時給で働くアルバイトスタッフさんにはそれを保障すべきだし、彼らに正社員と同じ責任やプロ意識を求めすぎるのはナンセンスだと思いますよ。でも従業員全員そうかって言ったら違うと思うんですね。

サービス残業、多かれ少なかれすると思うんですよ。自分の任されてる仕事をプライドもってやってたら定時には帰れない日もある。機械の代わりの単純作業じゃなくて、自分だからこそやれる仕事なんだって誇りがあったら、締切に間に合わせて胸を張りたかったら、サービス残業にならざるを得ない瞬間はナンボでもあると思うんです。

それに対して「サービス残業にする必要ないでしょ、職場でパソコンに向かってた時間だけ、会社は残業代を払えばいいでしょ」って考える人は、たぶん部下を評価する立場になったことがないんじゃないかと思うんですよ。日々の仕事を時間内に終わらせるのがもちろん一番素晴らしい。でもそうできない日も多い。自分自身がその状態で、部下を任されて、部下の仕事ぶりを評価しなきゃなんない時に、日中の勤務態度やら出来高やらを評価しなきゃなんない時に、職場にいた時間ぜんぶに給料支払うよ、ってのはなかなか言えないと思うんですよね……少なくとも自分が自分の仕事の対してプライドを持ってたら。任された仕事をやる、定時に帰れない時もある、その時はみ出した分をサービス残業として自分の中だけで処理することって、俺はあると思うんです。部下を評価する、育てるって観点をふまえるとなおさらそう思う。

GIGAZINEの記事では「ニュースサイトで記事を書くのは作家や芸術家と一緒、時給で働く業種とは別物、条件面を凌駕する志のある者だけ集まれ」とされているわけですが、どんな業種にも多かれ少なかれそれはあると思うんなぁ。任された仕事に対してプライドを持ってたらね。

何が言いたいかというと「外から評価したらうちの会社はブラック企業の扱いかもしんないし、それに気づくどころかむしろ『自らの意思で残業してるんだ』とかのたまっている時点でお前は洗脳されてる社畜って思われちゃうかもしれないけど、実際のところ上司は残業代つけろって言ってくれてるし、自分は自分のプライドの範疇でサービス残業してるんだよ。周囲に気遣ってるわけでもないんだよ」っていう人、そういう俺みたいな人、けっこういると思うんだけどな、という話。それがこのコラムの、勤労をテーマにしたこのコラムの趣旨です。

人の仕事を評価するってのは本当に難しいことですよ。今まで面白がって読んでただけのナタリーだって、中身がこうなってた、こんな人がこんな風に汗水たらしてたって知らなかったわけじゃないですか。作ってる人たち一人ひとりを評価して、対価を検討するってのはとても難しいし、外から見ても計り知れないものだなぁと。

そんで……以下はまあ蛇足なんですけどもね。前述で「プライドもって仕事してることが重要、そのためにはサービス残業だって厭わない」みたいなことを書いたわけですけどもね。根柢の部分では俺、そんなプライドだってなくったっていいと思うんですよ。仕事に向かってても心ここにあらずで、叱られないレベルのクオリティに保つことが精いっぱいの仕事ぶりで、定時になったら1秒でも早く帰りたいって仕事する人、ぜんぜんいいと思うんですよ。そういう人が大勢いていいし、実際のところ大勢いると思う。

だって誰もかれもが、何らかの自己実現の為に働いてるわけじゃないもの。食べるために働いてるだけ、全然あるでしょ。全然恥ずかしくないでしょ。好きなことを仕事にすべきとか、得意なことを仕事にすべきとかって話題あるけど、全然関係ない、愛情も何もない業種で働くことだってぜんぜん素晴らしいことだと思うんです。それの何が悪いのって思う。むしろ仕事というものに対するプロとも言えるじゃないですか。……あ、今うまいこと言ったよ俺。

その人の人生の中心に仕事がなくたってかまわない、自宅に帰ってからの趣味が中心だっていいし、とにかく家族の笑顔だけが全てだってかまわない。そういうものが何にもない、家でテレビを見たり横になったりするだけ、目立ったことは何もないけれども別にそこにストレスだって特にないって人がいっぱい居ていい。俺はたまたまプライド持って仕事を任されることに価値を感じるタイプの人間だけど、仕事にそんなこと何一つ求めてなくたって全然おかしくないと思ってます。

「ナンバーワンなんてならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」って歌詞がもてはやされましたけど、特別なオンリーワンじゃなくたっていいじゃないですか。特別な何かを持ってる人も、何にも持ってない人もたくさんいる。見つかる人も見つからない人もたくさんいる。世界にひとつだけの花じゃない人もいる。自分の憧れる有名人がやれていることを、自分がやれなくたってかまわない。志を高くもつことだけが全てじゃない。「自分だけが発信できる何かを発信して社会に資する」ということが全ての答えじゃない、と俺は思ってます。

だって、特別なものを何一つもってない人であっても、誰かと接した瞬間に生まれるものは常に特別だから。逆の言い方をすれば、誰かと何らか接する瞬間がある限り、人間の命には常に価値があるってことですよ。

あれ? なんか書こうとしてたことと違うところに着地しちゃったなぁ。とってつけたみたいに思われたら心外ですが、「ナタリーってこうなってたのか」はいい本でしたよ! 大山卓也最初で最後の単著だそうなので、タクヤさん次はきっとペンネームで、何かの創作の本を書いてくれることでしょう。そんな気がしています。

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