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要らない写真はゴミか歴史か教訓か

訳あって手持ちの写真を全て見返していた。

カメラを持ち始めたのは去年の12月で、そこから先は言うまでもなく謎写真とエモみ狙って行方不明な写真と誰かの笑顔がぎゅぎゅっと詰まった大暴投オンパレードといった風体なのだけれど、それまではスマホで撮ったさらに謎な写真データがででんと積み上がっている。

スマホで撮っていた頃のわたしに対して、「もっと撮っとけよ」とも「いやそんな撮るなよ」とも思う。手持ちからとあるテーマの写真をかき集めていたのだけれど、スマホ時代はそんなに撮る方でもなかったから、求めているものがなかなか出てこなくて苦戦した。

探している必要な写真はほとんど無いくせにもう要らない写真はまんべんなくあって、「ゴミだな」とも「いやいや歴史だな」とも思うのだ。

ゴミはポイ捨て。ゴミに捨てられる前に捨てたったわい!と強い言葉を吐いてきちんとゴミ箱へポイ捨てダンクシュート、すればいいのにゴミも歴史も一緒くたにしてまだiPhoneに眠らせているのは、カメラ・写真という趣味を持ったせいなのだろうか。

失敗した写真にこそ「ああ、この時こんなことがあったな、ふふ」が詰まっていたりする。もちろんただただ失敗した謎ピントとか真っ白とかこれカバンの中撮っとるやん!とかも当然ある。でも、ちゃんと撮ろうとして失敗することの方が圧倒的に多くて。撮りなおせないフィルムだとそれが顕著で。

誰かがブレまくっていたり見切れていたりすると失敗したなーと思うわけだけれど、その時の動きや言葉、空気、温度、なんだかいろんなものが後からフワッと戻ってくることもある。おんなじように、もう要らない消した方がいい写真にこそなんかしらの教訓が詰まっていたりもするんじゃないか知らんけど。

だからというわけではないけれど、というかカメラを持つ以前からダンクシュートしていなかったわけだし、なんとなくゴミも歴史もまだ一緒くた。そんなの消した方がいいなんて他人に言われるのは野暮、ナンセンス。消せないわけじゃないから誤解すんなって。

カメラロールをびゃーっと流していろんなことを思い出す。過去があるから今があるんだよなーと振り返るいいきっかけにもなっていて、そして振り返ったときの自分の心情がどうかというのはその時その時で驚くほど違っていて、毎度毎度成長を感じるのだ。はてこれは成長?鈍化?退化?よくわからない。

しかし要らないとか消した方がいいとか、写真に対して失礼だろうか。もしくは、撮ったわたし自身に対して失礼にあたるだろうか。当時は確かに(何気なくでも)「残したい」と思ってシャッターを切ったわけで。

撮った時と今とでは状況が違うというだけで、ゴミだとか歴史だとか教訓だとか大層な名前を付けてしまうのは、それこそ野暮でナンセンスで誤解なのかもしれなかった。写真は、ただそこに、あるだけ。なのかな。

まあ、全てが今に繋がると思えばそれで。

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