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生き返る

ふと下書きに放り込んだnoteを見て、すこん、と沈んだ気持ちになる。

死んだって生き返ればいいだけじゃない。
わたしには友達もカメラも、文章もある。
たぶん、いくらでも生き返れるはずだろ。

なんとなく、軽々しく書くべきではなかったな、と今は思っている。



仕事中にとある訃報を受け取った。会社関係の人でわたしは会ったことはなかったが、写真で顔を見たことはある人だった。

訃報は街にあふれている。テレビにも新聞にも、街角のでっかいモニターにさえ無機質な文字としてさらさらと流れている。

今日もどこかで誰かが亡くなっている。そんなの当たり前のことだ。


正直な話、亡くなったと聞いてもそれほど大きなショックは受けなかった。

顔を知っているとはいえ会ったことのない人だ。訃報の電話に「えっ!?」と驚きはしたものの、2分後には自分の業務にすんなりと戻っていた。


向こうはおそらくわたしの顔も名前も知らなかった。わたしだって、顔と名前をちょっと知っているだけで、何にも知らない。

だが確かに、わたしの27年間よりもずっと長く生きてきた過去があったはずだ。子供時代があり大人になり、紆余曲折を経て配偶者や子供に恵まれ、そして年老いて今があるはずだった。



こんな時、どんな気持ちになればいいのか分からない。


わたしの人生に影響があったわけでもないし、亡くなるきっかけをわたしが作ったわけでもない。

会社の業務の一端を少し手伝ってくださっていて、当日もその業務を行う直前だったようだ。だが、それが亡くなる直接の原因になったわけではないだろう。


わたしに何か出来ることがあったか?「あの時こうしていれば」があったか?と聞かれれば、全くない。

でもなぜかどんよりとして、社内の空気までも少し灰色がかって、肩が凝るような感覚があった。


人生なんてタイミングで、すべては自分の選択次第だと思う。

自分で働くことを選択し、そしておそらく働こうとしたその時に倒れ、亡くなった。

わたし達がその選択を止めていればどうにかなったのだろうか?

分からない。分からないからこそ、どんより気持ちが沈む。

それでもわたしにできることは、誰かが気に病んでいるようなら「あなたが気に病む必要はないと思う」と声をかけることくらいだった。


果たしてこんな時、どんな気持ちでいるのが正解なんだろうか?



冒頭に置いたnoteの下書きの話は、もちろんメンタル的な話だ。

死んだって生き返ればいいだけじゃない。
わたしには友達もカメラも、文章もある。
たぶん、いくらでも生き返れるはずだろ。

生命活動が停止しては元も子もない。大変で悲しくてつらいことがあっても、やっぱり生きていないと何も感じ取れない。

それに本当に死んだら生き返れるとは思っていない、さすがにそんなドリーマーじゃないや。


今日もどこかで誰かが亡くなっている。そんなの当たり前のことで、人間生きているんだからいつかは死ぬのだ。

ちょっと身近な人が亡くなって「死ぬ」という言葉の重さを少しだけ考えた、そういう話だ。

身の回りに「死」を感じてようやく考え出すなんて、遅すぎるなと自分でも思うのだけれど。


ただ生きてさえいれば、わたしはいくらでも立ち直れるし、生き直せるような予感はある。何かに頼るのが上手くなったんだろうか?

頼られたくなければ今のうちに離れておいてね、なんて。


でもあまり軽々しく死にたくはないな、と今は思っている。

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